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- 英文法文とは存在承認か希求(または間投詞)である。つまり、世界を受け止めるか、世界に働きかけるかである。要するに、文… 続きを読む: 英文法
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金の一粒
目が回りそうな情報の海から、この、他と一見代り映えしないページを見つけて下さって、ありがとうございます。それは例えるなら、はるか向こうまで広がる湿原の中にいて、ふと足元の泥に視線を落とした時に何か見つけたような、そんな感じかもしれません。
「あれ、何かが光っているぞ」
と。そんな妖しい光に導かれてみるのも、ときどきならいいのかもしれません。
この「ひつじのエッセイ」というサイトは、読んで字のごとく、筆者である ひつじ から見えている世界を展開したものになります。変哲もない個人の、しかし、それゆえユニークな世界をちょっとお披露目してみようという試みです。
すこし恥ずかしいですが、私は私の文章にささやかながら自信をもっています。根拠は二つ。
一つは、高校生のときに『坂の上の雲』を読んで書いた読書感想文を国語の先生に褒められたこと。ただ一つ、「一人称は『僕』ではなくて『私』の方がいいですね」と忠告を頂きましたが、視点がユニークで、じっくり考えさせられるような、そんな文章であったと褒められた記憶があります。
もう一つは、祖母から「翔太ちゃん(筆者の本名)は文才があるとね」と褒められたこと。時々書いていた手紙を、祖母は丁寧に読んでくれていたそうでした。
そんな二つの栄誉を得て、小さい私は、私にも光るものがあるのかと思ったのでした。
ばかばかしいほど単純な理由。しかし、「そこにあるはずだよ」と言われないとなかなか探さないもので、探さないものは見つかりません。ただ泥があるだけだと思っていた中を何か光るものがないかと探そうと思ったのは、そうして、一粒の金を探し当てたのは、そういった心ある人達の言葉のおかげでした。
答えはいつも私の胸に
インターネットが、あらゆるものをひっくり返して、さらにもう一度ひっくり返したような世界の変化をもたらしたのだと私は思います。そのおかげでというか、あるいは、そのせいでというか、世界にはびっくりするほどの情報があふれてしまいました。
そのあふれだした情報の渦巻きの中で、私たちは、ゆめゆめ注意をしないと、自分の心の中でさえ泥のように、訳のわからないものになってゆく気がします。
ただ、どれだけ情報が押し寄せてきても、変わらないものもあると思います。それは、
答えはいつも私の胸に
あるということ。涼宮ハルヒのオープニングがこのフレーズで始まるのも、私にとってはそれなりに印象深いですが、同時にこのフレーズは私にソクラテスの全知主義を想起させます。
・・・人はどんな知識についても、問答によって自ら知識を得られるようになる。問いかけただけで正しい知識にたどりつけるということは、そもそも人はア・プリオリに、そのことを知っていなければいけない。人は、その魂が永遠の旅路をつづけるなかであらゆることを知っているのだ。したがって、学習というものは、知っているけれど忘れていることを想起することに他ならない・・・
というのが全知主義、あるいは、学習想起説と呼ばれているものです。
ノーム・チョムスキーが生成普遍文法を唱えたことを考えると、全知主義は合っている気もするし、しかし、「すべて」というのはいささか言い過ぎな気もします。
ここでは全知主義というのが正しいかどうかは脇によけておきましょう。ただ、正しいかどうかはわからないけれど、これは勇気がもらえるフレーズではあります。
人は一生懸命に想起すれば、知識にたどり着くことができる。正解にたどりつける。すくなくとも、「正解は無いんだ」と最初から達観して、次善の選択肢すら考えることを放棄するような怠け心を、全知主義は叱咤してくれる。
そんな全知主義を象徴するこのフレーズこそが、ぬかるんだ心に知識という金を見つける助言になるのだと考えます。
私はあきらめ悪く、泥の中に手を突っ込んで光る一粒を探し続けました。KJ法やフューチャーマッピングという手法を愚直に使いながら、丁寧に、言葉を選び、磨いています。読者の方に届けたいのはまさしく、そういった言葉の輝きにほかなりません。
光を見つけて
読者にはこの記事を読んで、ぜひお友達に話してみてほしいと思っています。「こんなことが書いてあったんだけどさ」みたいな感じで、気軽にぜひ話をしてください。
金は貨幣になります。加工がしやすく、質的に一様で、生活には直接必要のない豪奢品だからです。私は、見つけた金を自分の手元でながめるだけにはしたくありません。見つけた輝きは流通させたい、そう思って文章を綴ります。
私は「ひつじのエッセイ」を書くために泥の中に進みます。極めて少ない成果しか期待できませんが、今日も泥をすくって、ゆすって、みつめてみます。小さく光る一粒を求めて作業をしています。
そしてこれは、読者にも言えることだと私は思います。どんな物事や体験にも、その内側には光る何かがあるにちがいない。
忙しい暮らしの中で毎日というわけには行かないと思います。ただ、時々やる分にはいいでしょう。
泥のような毎日にも、光る何かがあるかもしれません。
だから、もし仮につまらない毎日だと思っても一生懸命になってみませんか。
一緒に、すくって、ゆすって、みつめてみませんか。
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2024-Jan-29, 小牧, FM, ひつじ
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