金井美恵子『愛の生活』を読む①~リアリティを拒む吐き気~

「わたし」を襲う吐き気とは一体何か。

書評の一つの機能として、作品の謎に答えを与える、というものがあるのかもしれない。謎という大げさなものでなくとも、疑問に感じることに今回は向き合ってみたい。この作品における一つの疑問は「吐き気」である。

主人公の「わたし」は作中で度々吐き気を訴える。

「透明な白いプラスチックの歯ブラシに、歯磨きをつけて口に入れると、口から吊るされた汚物袋である朝の桃色の胃袋は、吐き気を胸につき上げてくる」(p.10, line 1)

「夜中に起きて一人でペンを持っていると、わたしはおっかなくて時々Fを起こしてしまうの。いやなのよ。いやなのよ。不安なの。・・・(中略)・・・どうしようもなく、そうなってしまうの。気が違いそうだわ。吐き気がするの」(p. 26, line 3)

「でも、わたしはまた書き始めてしまう。また不安、また吐き気。いつも同じことね。」(p. 27, line 5)

「絶え間無い空腹感が、いつもわたしを脅かしています。いつも空腹で、何か食べたいと思わずにはいられないのです。ところが、いざ食物を一口か二口、食べてしまうと、あんなにわたしを不安にさせていた空腹感は、もう跡かたもなく消えてしまう。見るでさえ、わたしの咽喉をつき上げてくるのは吐き気です。」(p. 37, line 5)

この、「わたし」を襲う吐き気の正体は奇妙だ。歯を磨いているときに吐き気がした経験は筆者もある。しかし、「わたし」が感じる吐き気は、ペンをもっていて、夫であるFを起こしてしまうほどの強烈な吐き気であり、空腹のくせに食べたらすぐに襲ってくる理不尽な吐き気であるらしい。

この吐き気はただ生理作用であると断定できないし、そう断定することは文学的な答えでもないだろう。正直筆者は、その吐き気はタバコだろうと率直に思ってしまった。朝の、起きたての「わたし」の描写に次のようなものがある。

「わたしはその詩のことが気がかりになって、ベッドから出て詩集を開く。煙草を咥えて火をつけると、少し目まいがした。起きたての時は、いつもそうなのだ。詩を読んでしまうと余計にわたしは体がだるくて、動くのがおっくうになる」(p. 9, line 10)

いやいや朝からタバコを吸っているからだろう!と筆者は突っ込んでしまった。不健康の原因を押し付けられた詩集が気の毒だ。

ただこの答え、吐き気の原因はタバコである、は文学的な答えではない。この解答は、著者である金井美恵子のメッセージを何一つ受け取っていないし、作品をより楽しみ、味わうための答え、すなわち文学的な答えではなさそうだ。ほかの、もっと文学的な答えを探ってみよう。

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「わたし」を襲う吐き気とは一体何か。実は筆者の答えはタイトルに書いてある。リアリティーを拒む気持ちこそ「わたし」の吐き気である、と。その理由を順序だてて述べてみよう。

まず、リアリティとは存在である。何かがこの世界に存在する、ある、ということ。それがリアリティだ。ちなみにここで、存在すること、あることが果たして何であるかを知らなくても、この後の書評のつづきは読めるのでご安心を。読者の目の前に「コップ」があるなら、「ああ、そこにコップがあるなあ」と思ってもらえればそれでいいし、筆者も目の前の「時計」をみて「ああ、ここに時計があるなあ」と感じるだけだ。

しかし、このリアリティ、物体の存在をわたしたちは日常であまり意識することがない、というのが筆者の主張である。わたしたちは、まさに「目の前のコップ、そこの時計の存在に注目してください」と言われなければ、コップや時計のリアリティを気にしない。気にしないことがむしろ「日常」である。

わたしたちが「コップ」や「時計」のリアリティを気にしない暮らしを送っているのは、物体の役割、用途だけを気にしていればいいからだ。日常の物体には一つ一つに役割がある。用途がある。たとえば「コップ」は「飲み物を注いでおくため」の物体であり、「時計」は「今の時間を知るため」の物体であって、それがどんな色の「コップ」であろうが、どんな形の「時計」であろうが、その物体が物体自身の役割を果たしてくれさえすれば、わたしたちの日常は滞りなく進んでいく。この意味で、リアリティは日常の反対であり、日常に潜みながらも普段は顔を表さない。わたしたちは身の回りの物体たちと、使うー使われるの役割で関係をもっているのだ。

このこと、日常とリアリティの対立、は作中の「京都の友人」からの手紙に書いてある(以後「京都の友人」を単に「友人」と呼ぶ)。

「皿とかコップとか、そんな物が日常生活では何よりも重要な意味があることを、さり気なく言う人というのは、なかなかいません。おれは、ふと自分と皿の関係ということに思いを馳せることがある。皿のさらに彼方のものとおれの関係。」(p. 21, line 9)

「皿のさらに」って、ちょっと笑わせないでよと思っても、これはたいして重要ではない。大事なのは、物体の「彼方のもの」が一体何なのかということだ。手紙の続きを読んでみよう。

「ぼくが不思議な幻覚におそわれるのは、めまいにも似た感覚がぼくを支配する時だ。物体の持つ反日常的な属性が拡大されて現れることの幻惑。あるいは極度に拡大されて大きくなった物の持つバカバカしさ、無意味さ。・・・(略)・・・、ようするにぼくは物体の持つ夢幻的性格、日常の次元から非日常に翻る性格を、突然生々しく感じることがあるのです」(p. 22, line 9)

「友人」の指摘する、物体の反日常性、それはリアリティであると筆者は主張する。それは「無意味さ」であり、物体の持つ役割が、日常性が失われて、ただそこに存在する何者かになった状態。物体の、日常から反日常の状態への移行を「友人」は幻覚と言っている。

しかし、物体から役割が失われるとその物体はどのようなものとしてわたしたちに認識されるのだろう。それは実際に目の前の「コップ」や「時計」で実験すれば分かる。たとえば「コップ」に注目してみよう。目の前の「コップ」と呼ばれているものから「飲み物を注ぐ」役割以外のことでその「コップ」を認識しようとしたとき、わたしたちはどうするか。もしかしたらわたしたちは、その「コップ」を手に取って、鼻にあてて匂いを嗅いでみるかもしれない。「コップ」の穴が空いた部分から、生ぬるいカフェオレの匂いが感じ取れるかもしれない。あるいは、表面を爪ではじいてその乾いたカラカラという音を聞き、その表面の質感をなぞり、肌よりも少し冷たい温度を感じるかもしれない。手前から見ているのに反対側の指が見えるし、よく見れば表面に凹凸があることに気が付くかもしれない。穴は規則正しく円を描いていて、すらっとその「コップ」はわたしの前に存在している。

人は、日常の反対側、すなわちリアリティに相対すると、役割とは違う関係で物体を認識しようとする。その匂い、音、テクスチャ、温度、硬さ、色、形と関係をもって「コップ」の存在を受け止める。役割という便利な日常性を介さないで、直接に物体と向き合うことになるのだ。

「表現は象徴なんかではなく、もっと本質的な意味で直接的・行為的なものですよ。」(p. 23, line 8)

「友人」は何かしらの芸術に携わる人物らしいが、その「友人」にとっての芸術とは、日常性と、その「彼方」にあるリアリティとの葛藤を乗り越える営みである。

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ここで「わたし」の話にもどそう。「わたし」は作中からも読み取れるように、一人の小説家である。それは過去に「友人」が「わたし」に語り掛けた言葉からわかる。

「きみがFと結婚したって、アタシ小説書イテンノ、なんて言ってる以上、恥じながら生きてる必要がある。」(p. 47, line 1)

小説を書くとき、ペンをとるとき、「わたし」は日常を描写する中でリアリティに向き合わなければいけない。役割ではない、まさに存在している物体と直接的な関係を持たなければいけないのだ。「わたし」が吐き気を催すのは、まさにペンを執るときだった。また、空腹を感じた「わたし」が、目の前の食事との関係をとらえなおすとき、「食べるもの」という役割ではない物体の色や形を生々しく受け止めるとき、どうしても気味が悪くなって吐き気に襲われてしまう。なぜなら「食べもの」が「食べもの」ではないリアリティとして「わたし」に現れるから。

そんなリアリティが「わたし」には耐えられないのだ。だから、「わたし」はリアリティを拒んでしまう。吐き気という形を通して。

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読んでいただき、ありがとうございました。書評を読む中で何か気づきが得られたなら幸いです。

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出典:金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』(講談社, 1997年8月10日)