神話と共に生きる(1)

死んだ人の息づかい

東京に住んでいる祖母ちゃんは、毎朝、死んだ祖父ちゃんの仏前に炊いたお米と水を供えて、それから朝食をとる。東京に遊びに行って泊まらせてもらうとき、私はそれを見て、その清い儀式に安らかさを覚える。

もしその行いを「死んだ人はもういない人じゃない。無駄なことをするのね」なんて言う人がいたら、私はそいつを張り倒すだろう。この怒りはきっと、あなたにも分かってもらえるに違いない。

しかし、私はたった今あなたに共感を求めたわけだが、いったい何をわかってほしいと思ったのだろう。「死んだ人はもういない人。いない人のことを考えるのは意味がない」というのは、こみ上げる怒りを一旦突き放して考えるなら、一理ある。過去というのは、一応もう過ぎ去ってしまって、今はない事柄だ。その面だけとらえるのなら、確かにそれは現在における事実の不在であって、不存在のことを考えるのは空しいのかもしれない。

ならば私たちは、「過去は存在しない」派の人たちの考えを受け入れなくてはいけないのか。

とんでもない。私は受け入れるつもりはない。一旦突き放した怒りを取り戻して考えてみよう。「過去は存在しない」人たちの言動は、私の心の何を逆撫でしたのだろうか。

それはきっと、ため息、である。疲れた後の休息にでるため息ではなく、むしろ、何か心が動いたときにふと漏れるため息であり、いわば感嘆である。祖母ちゃんは独り言つように、しずかに語る時がある。

「やっぱり、お父さんがいないと寂しいのよね」

その言葉と共にため息がもれる。それは、事実の真偽を確かめる心の態度ではなく、感嘆なのだ。理屈ではなく(むろん理屈を組むことも尊いことだけど)、その一つ下の、あるいは古い層の思いなしが人間の心にはあるのだろう。

祖母ちゃんはずっと昔から「祖母ちゃん」だったのではなく、産声を上げたときがあり、少女だったときがあり、若かった時があり、いつのときか、まだ若かった祖父ちゃんと出会った。二人で色々な事件を乗り越えてきただろうし、そして死を受け入れた。その過去の事実の集積、すなわち、歴史ゆえの祖母ちゃんであり、祖父ちゃんの死である。

「過去は存在しない」と考える人たちへの怒りは、きっと、歴史への侮辱に対する感情だったのだろう。あったことをなかったことにされる悲しみであり怒りである。逆に、祖母ちゃんの行いを清いと感じたのは、歴史に対する敬意というか、あるいは、ため息に対する共感だったに違いない。

このように考えてみると、現在というのは、歴史との合成物なのだ。歴史を侮ることは現在を侮ることであり、逆に、歴史を見ることは現在を見ることにつながるのである。

ヘレニズムの燈

個人的な、卑近な例をつらつらと書き連ねてしまった。ただ、たった今述べたような歴史観というのは私個人のものだけじゃなくて、あなたにも適用できる話であると思って書いたのだ。いや、もっというと、会社や団体、市区町村とか都道府県、あるいは、国や世界にまで範囲を広げてもこの歴史観というのは通用するに違いない。そして時間軸も、人の一生を超えて、何千年と遡ってもいいのだろう。

あまりにも飛躍のし過ぎ、一般化のし過ぎだろうか。しかし、私たちはつい最近、世界的な歴史の継承を見たではないか。というのは、2024のパリオリンピックのことである。

世界中の人たちが一堂に会して競技する。むろん、古代オリンピックと近現代のオリンピックで特徴が違うけれど、一つの行事が世界的に継続され、大事にされてきたということは言ってもよさそうである。

特に、オリンピックの一つのイベントである聖火リレーは、わざわざギリシアのオリンピアで、太陽光から採火される。太陽を象徴するアポローンへの敬虔な気持ち、人間の、神に対する奉仕の気持ちが垣間見れる。もし歴史を見ないのなら、こんな七面倒くさいことをするわけがない。合理主義や資本経済がはびこっても、人の心にはこういった歴史に感嘆する原始性が残っている。

ギリシアから点された火を伝えていく。それは聖火リレーでもそうだし、文化的な側面を見てもそうである。古代ギリシアの高度に発達した文化(ギリシア的な文化のことをヘレニズムという)は、ローマ帝国によって吸収されて、ヨーロッパ各国や中近東に伝播した。というのもローマ帝国はヨーロッパ全体をすっぽり覆うくらいの領土をもっていたから。それゆえに、西洋の文化の根底には古典として古代ギリシアが横たわっているのだ。

そして日本は西洋の文化を明治維新のときに迎え入れた。西洋の文化を取り込んだということは、そのときにヘレニズムのエッセンスも取り込んだことになる。古代ギリシアの火はすでに日本にも伝わっているし、私たちの心を織りなしている糸にはいくらか古代ギリシアのものが混じっているのだ。

思えば、「伝統」という言葉は明治時代より前は「伝燈」であったそうだ。比叡山の不滅の法灯から来ている言葉で、788年に最澄が火を灯して以来、後に続く人たちが油を注ぎ続けて今でも燈を伝えているという。ちなみに、この油が断たれることを「油断」という。明治政府が西洋に追い付くことを目指して、宗教色を排するために「伝統」という言葉に改めたらしいが、しかし、「伝燈」の方が意味がしっくりとくる。

いわば、ギリシアで点された火を、私たちは全世界的に、今もその燈が消えぬように伝え続けている。ここでも、現在と歴史とが分かちがたく繋がっていることが理解できるだろう。

しかし、そのヘレニズムの燈とはいったいどのようなものなのだろうか。その火のゆらめきを、しずかに見つめてみたい。

心を清くして

もえろよもえろよ、炎よもえろ
火のこをまきあげ、天までこがせ

いつのときだったか、学校でキャンプファイヤーをしたことを思い出す。火を見つめていると、なんだか不思議な心持がしてくる。ボーっとするような、あるいは清くなったような。

火というのはギリシア神話によればプロメーテウスが天界から盗んで人類に授けたものだそうだ。そしてプロメーテウスは、その時のことを天の父ゼウスに罰せられたとのこと。よくよく考えれば、天までこがしてしまったら、怒りを買ってゼウスの雷電が放たれるかもしれない。

これからひつじのエッセイでは、ヘレニズムキャンペーンに入っていく。私たちの人性や心性、その奥深くにどんな火が揺れているのかを見つめてみたい。その考察はとりもなおさず、歴史を見ることであり、あるいは、死んだ人たちの心に思いをはせることでもある。

目に見えないことこそ大事だったりする。それは、仏でも神でもどちらでもいいのだが、今回からは異国の、しかし、世界的に重要な国の神々について私たちは考察を深めていこう。

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