源氏物語なんて昼ドラと一緒でくだらない

と言ったのは父だった。大河ドラマは好きでも『光る君へ』には全く興味を持たなかった。確かに一面はそうなのだろう。『源氏物語』の主人公である源氏は多くの女性と交渉を持つ。葵上、空蝉、軒端荻、藤壺、末摘花、紫上、五節、花散里、明石の君…パッと思いつくだけでも以上の女性たちと関係を持った。今風に言えば浮気男とかプレイボーイだろう。

しかし本当にそうだろうか。もし本当に『源氏物語』が昼ドラの中の一つくらいの魅力しか持たなかったとして、どうして1000年以上の時代の風化に耐えることができたのだろう。しかも日本のみならず、英訳やドイツ語訳など、翻訳は33か国語にもなるという。

むしろ『源氏物語』は時代や文化を問わない、つまりは普遍的な価値を持っていて、私たちの心根に何かを訴えているのだと、そう考えるのが自然なのではないか。

しかし、そうであるならその価値は一体どこにあるのだろう。この問いこそこれから主題にしたいことである。

まだ読み始めたばかりだが、気づいたことが一つある。それは、昼ドラよりもはるかに多い女性たちと関係を持つ源氏だが、性交渉の描写がほとんどないことだ。

注意深く読まないと「えっ、もうしたの?」(源氏物語ににつかわない下品な関心と思うが)と気づかないほど事実があっさりと、しかも仄めかすようにしか描かれない。二人が関係を持ったのだと分かるのは後朝のやりとりで、だったりする。そのやりとりというのは、和歌を通して行われる。

正式な夫婦になるのにも、今のように役所に届け出るというのではなく、和歌が儀式の機能を持っていたようだ。『源氏物語』はそういう意味で、一つの和歌集、詩集である。

そして詩が持つ効果は、論理を破るつやなのだと思うのだが、それについてはまた述べる時があるだろう。

今回はとにかく、今『源氏物語』を読んでいますよという報告に留めます。

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