物心ついたらふと
見上げて思うことが
この世にいる誰も
二人から1
この世界はどんな人だって、あるいは、どんなことだって、男女の対から始まっていることをさらっと歌い上げてしまう星野源は、やはり、人気になるべくして人気になったのかもしれない。そういえば、筆者が当時通っていた大学ではちょうどこの歌と踊りが流行っていたっけ。友達とワイワイ踊っていた同窓生をアホだなあと思いながら眺めていたのを思い出す。
創造の最小単位が 1 人ではなく 2 人だというのは、別に珍しい話でもないらしい。陰陽説というのがあるし、あるいは、ビジネス書の Powers of Two 2 の中では、創造性を発揮するためには最低限 2 人必要だと主張されている。
実は英語も、その意味の全部は、宇宙は、2 つのパターンから織り上げられている・・・そう言われたら驚くだろうか。
これは筆者の思い付きではない。トマス・ピンチョンの長編やベイトソンの翻訳業に携わり、また、英語教育にも貢献してきた佐藤良明は、その著『英文法を哲学する』3で、英語の深層には 2 つのパターンが横たわっていることを洞察した。
それは一体、どんなパターンなのだろうか。
もし英語がそれだけシンプルルールで展開されているとしたら、学校の英語で辟易した人たちには朗報だろう。さらには、教育現場で教える側の人たちにとってもきっとそうなのだ。筆者にとってもこの本は朗報であり、福音だった。どうしてもこの本を薦めずにはいられない。
ということで今回は、『英文法を哲学する』が明らかにした、柔らかくヴィヴィットな英文法の世界へ読者を紹介しよう。
英語は T パターンと C パターンでできている
T: SVO が英語の核
動詞を挟んで、主語と対象を向かい合わせる。その際に、日本語のように、つなぎの助詞のような言葉を入れない。この方式が、英語構文の核でありキモであると申し上げておきましょう。
『英文法を哲学する』p. 72
とある。動詞(V)を挟んで、主語(S)と対象(O)を向かい合わせる、というのは結局、5文型の内の SVO のことであって、英語構文の核はこの SVO である。ちなみに、このような形をとる動詞を他動詞 transitive というから、このパターンを T と名付けよう。
S、V、O というこの形には、ワン、ツー、スリーと口ずさみたくなるような軽快さがある。例えば:
- You chase a rabbit.
あなたはウサギを追いかける。 - I catch it.
私はそれを捕まえる。 - We eat its meat.
私たちはその肉を食べる。
chase「を追いかける」、catch「を捕まえる」、eat「を食べる」といった動詞は transitive である。それぞれの文が
- あなた、追いかける、ウサギ
- 私、捕まえる、それ
- 私たち、食べる、その肉
のリズムを刻んでいる。
SVO では V (動詞)を挟んで 2 つのモノ(コト)が対置する。この形が英語の基本形だと言いました。どのくらい基本的かというと、バスケットでドリブルからシュートに入るとき、右足→左足でステップして跳び上がる、そのくらい基本的です。英語を読んだり聞いたりするには、これに慣れ切っていないとスコアできません。
『英文法を哲学する』p. 76
ワン・ツー・スリーでゴールするイメージを体と心に刻む。それがまず重要なのだと伝えれば、英語を学ぶ学生にとっても、英語を教える教師にとっても楽しいことなのではないだろうか。
C: 補語 C の革命
英語のほとんどの領域を T パターンが押さえているのだが、しかし、それだけでは英語の宇宙は形成されない。T パターンが担当するところ以外を C があまねく満たすことによって英語はワークする。
ところでこの C とは一体何か。それは5文型でいうと SVC となるような C であり、補語といわれる。例えば:
- It is cold. 寒いね。
- I see snowflakes. 雪の結晶が見えるよ。
- They are dancing. 舞い踊っている。
- This is so pretty. とてもきれいだね。
この例文で2. は既に述べた T パターンだ。「私、見る、雪の結晶」というリズムを刻んでいる。
そして 1. と 4. が SVC の形になっている。補語というのは、 S (あるいは O )を説明する役割をもっていて、文の足りない部分を補う詞(ことば)である、と説明されることが多い。実際そうなのだろう。例えば、1. は It (天気、気候)が「寒い」と説明していて、4. は前の語句を受けて「それ」が「とてもきれい」だと言っている。
(ちなみに、3. の They are dancing. は現在進行形であると学校では教わるが、これも SVC であると考えていい。dance という動詞が進行相というアスペクトをまとって様態を表す C になったと考えられる。)
文の足りない部分を補うのだ、というのがこれまでの発想。しかし、佐藤氏の理解は違う。むしろ、C はそれだけで独立する。
補語は単独で文になる。・・・「補語だけ文」もありにしましょう。英語の文型には、SVO 系の、堅固な構造もあれば、[C]だけで存立し、主語を付けて文にするときに、形式動詞の be の手を借りるというものがある、と考えればいいのです。
『英文法を哲学する』p. 112
- A boy. 男の子だ。
- Quite big. とても大きいね。
- Here. In the crib. ここだよ。ベビーベッドの中。
5. ~ 7. の文を「文らしく」とらえたいなら、それぞれ前に It’s を付ければいい。It’s a boy. It’s a quite big. It’s here, in the crib. などとやればいいのだが、それはあくまで形式である。意味の伝達という意味で言えば、十分に文として成立している。
英語の発想には、発想の根本から[SVO]の形をしている系統と、「C」のみで発想し、あとから、都合に応じて S を付けて、形式動詞の is 等で結ぶものがある。その点が理解されれば、初級英語の教室も、こんなふうにリラックスして実践練習に生徒を引き込めるのではないでしょうか。
There. On the floor. Under the table. Your pen is here. It’s under the table.
Here. In my hand. It’s in my hand. It was down here. On the floor. I picked it up. It’s up here now…
『英文法を哲学する』p. 112
T と C は協調しつつせめぎ合う
C のすごいところは、単独で文をなすだけではなく、いろいろな句や節に着脱して、他の文の構成要素を自由につくるところだ。
- I see snowflakes.
- They are dancing.
- I see snowflakes dancing.
雪の結晶が踊っているのが見える。
3. の文は、2. の C(dancing)を取って 1. に付けたものだ。C は単独で文を成したり、S(be)を前につけて SVC の構文をつくったり、あるいはこの例文のように、ほかの文の O にくっつくこともできる(ちなみに、この OC のまとまりは主述の関係をもつかたまりであり、ネクサスと呼ばれる)。
この C の自由自在っぷり、それが英語の宇宙をなめらかにまとめあげる。
T パターンと C パターン。英語の宇宙を織り上げているパターンは実はこの二つしかない。T という直線的な、力強いリズムを刻むパターンと、自由な C のパターンの二つが英語の宇宙を織り上げている。
英文法の植物モデル
あるいは、この二つのパターンは二種類の種子なのだ。例えば、被子植物と裸子植物という二種類があるような、そういう世界である。私たちは生きていて、生きている中ではなんらかの思い、意(こころ)が生じる。この意は種子である。種子は土にまかれたとき生長する。
T パターンは種子から V が発芽し、V は両腕を広げて SVO のパターンをつくる。動詞の意味によっては O の生長が抑止されて SV だけの文になったり、あるいは逆に、SVOO という三枚の葉を生やすこともある。
他方で C パターンは、C という種が発芽し、別に C だけでも文は成立するのだが、多くはより安定した形を求めて S(be)C という生長をする。
さらにこれの混交があって、SVO の生長に C がくっついて SVOC という形で命が育つこともある。
英語が得意な方はもうお分かりかと思うが、これが英語の5文型を形成している。5文型のさらに深層をもぐっていくと 2 つのパターンがあるわけだ。T と C 。この世の英語文のどれもこの二つのパターンから始まっている。これをより印象深く表現するために疑似的な数式をもってこよう。
E = T・C
E:English は T と C とそれらの掛け合わせでできているのだ。
ノームチョムスキーと英文法の生長
筆者は大学で、高橋直子先生という、ハワイ大学で言語学の博士号を取得された教授の英文法ゼミを受講していた。久野暲と高見健一の「謎解き英文法」シリーズを輪番で読み合せた。少々くさい言い回しになるとは思うけれど、青春の一ページに、英文法という知識体系とじっくり向き合えた時間があるのは幸せなことだ。
その中でノームチョムスキーの話が出てきたのが印象に残っている。人にはア・プリオリに生成文法というシステムがあり、それが動くことによって、全くの「白紙」であるはずの赤ちゃんが、言語という高度な知識体系を身に着けていく。筆者が所属していたクラスは英語教師の卵が多かったので、どのように言語を習得するのか、あるいは、第二言語習得はどのように可能になるのかということに関心が寄せられた。
この記事ではとても生成文法の詳細に立ち入ることはできない。それをやろうとすれば別に主題を立てて機会を改めなくてはいけない。ただ、『英文法を哲学する』の関連で述べるとすれば、佐藤良明はノームチョムスキーの統語解析を上下にひっくりかえした。たとえば:
- What you said is a boilerplate.
いまあんたの言ったことは陳腐な決まり文句だ。
という文があったとき、ノームチョムスキーならきっと下図の左のように文法を分析するだろう(有識者にチェックしてもらっていないので間違っているかもしれない。誤っていたら教えてください)。他方で、佐藤良明のモデルなら下図の右のように、植物は生長するのだろう(同様にチェックをお願いします)。
植物モデルで行くと、まずは A boilerplate. という C が言いたいこととして芽生えるのだ。「陳腐ね」という気持ちがまず意味として着床する。それから「なにが陳腐なのか」という主語との結びつきが形式的な is によってなされる。
筆者はこの植物モデルが好きだ。ノームチョムスキーは確かに天才だったのだろう。ただその統語解析は時計を分解するように、あるいは死体を解剖するように、もう動いていないセンテンスを部分部分に小さく見ていくようである。他方で、佐藤氏のモデルでは、センテンスは生きている。生長している。
その生長の仕方はすでに述べたように E = T・C であって、二種の植物が絡み合って心の模様を織りなしているのだ。
夢の織り糸としての私たち
動詞はどのように根を張るか
植物モデルをみて、種子が上に、外に、どのように生長していくのかを見た。今度は注目するところを変えてみたい。土の下へ、種子の内へ、見ていく。つまりは、動詞の下部構造、あるいは、内部構造だ。
動詞が文として着床するためには、
- 時制(テンス)
- 相(アスペクト)
- 法(モード)
- 態(ヴォイス)
をまとわなければいけない。
テンスというのは、話者が、その文を過去の物語だと思って話しているのか、あるいは、それ以外の話だと思って話しているかの別である。ここに過去形と非過去の選択がある。
アスペクトというのは、選ばれた時制(過去/非過去)における動詞について、それが:
- して・いる
- して・ある
- して・ない
のうちの、どの状態なのかを表現することだ。たとえば「を勉強する」という動詞で見てみると:
- I am studying English (now).
英語を(今)勉強して・いる - I have studied Englih (already).
英語は(すでに)勉強して・ある - I am to study English (from now).
英語を(これから)勉強する[=まだ勉強して・ない]
という三相になる。
「えっ、3. の to 不定詞って相(アスペクト)じゃないでしょ?」
と思われるかもしれない。しかし、まさにこれが『英文法を哲学する』の画期的なところで、to 不定詞はむしろ、未来の相、すなわち未然相として理解するのが自然なのだ。
ヴォイスは『英文法を哲学する』の中では、アスペクトの側面から考察される。詳細は本書を参照されたい。
英語は Yes か No か確定させたがる
英語は白黒はっきりつけたがる言語だ。日本人がうろたえるくらい、きっぱり Yes / No を言う。特に英語の記述文、すなわち直説法においては、英語文は命題のような明快さがある。
- The durian { is /
isn’t} the smelliest fruit.
ドリアンは一番くさいフルーツである。 - I {
like/ don’t like } it.
私はそれが好きではない。
述語動詞は肯定か否定か、どちらかを選択しなければいけないのだ。
モードというのは、話者の、その文に対する心の態度というか、模様を決めるものだ。法には
①命令法 ②感嘆法 ③直説法 ④仮定法
がある。Yes か No かはっきりして事実を確定させるのは ③直説法 である。
ところで、この「否定」というのが、②の感嘆法と③の直説法を分け、さらには、人間らしさを決めているのかもしれない。
それはどういうことか。
否定で夢から醒める
次のイラストを見てほしい。このイラストはどのような文を表現したものだろうか。
「え、机でしょ」
と思った方。残念。これは、「机の上にリンゴがない」という文を表したものだ。
こんなことを言うとなんか納得できないかもしれない。「それだったら他のものでもなんでもありじゃないか」と思うだろう。それは、「ペンがない」でもいいし、あるいは「昨日ここに置いたはずの千円札がない」でもいいわけだ。
たしかにこれでは「机の上にリンゴがない」という文としては不適切かもしれない。では、これならどうだろう。
机の上にリンゴを描いたうえで、そのリンゴに対して×を書く。この×こそ、否定の意味である。
しかし、この×というのはこの世にリアルなものとしては存在していない。これは、心の中でイマジネーションで作ったものにほかならない。
否定というのは、肯定とただ単に反対なのだ、ということではない。心の働き方として全く違うのだ。
この否定というのがある意味では言語を言語たらしめているといえるのかもしれない。あるものを A と名付けることは、Aではない、すなわち 非A との区別ができていないと可能にならない。ゆえに、何かをシンボル的に扱うことは、否定の概念を前提としているのだ。
何と何を区別し、差異づけるのか、ということが言語によって違う。そしてその違いは、人々の暮らしや文化によっている。例えば英語では熱い水のことを hot water といい、water に形容詞をつけて表現するが、日本ではそれを 「湯」という。日本人は、典型的に「湯」であるものと、そうでないものとを区別しているのだ。
人間や言語というものの正体に迫りうるほど、否定というのは奥深い。
意識を無意識へつなぐこと
否定の概念は明晰を生む。明晰によって言葉が生まれる。
「コトバ」とは単に語句(words)の連なりによってできているのではなく、ハートとボディによる口調・表情・身振りの染みこんだコミュニケーションが機能していて、それ全体のデジタルな側面をコトバが受け持っている。
『英文法を哲学する』p. 217
ハートというのは感情のことであり、ボディというのは生理のことだ。頭でっかちで英語をやっていてはいけない。人間という生き物はときに頭でっかちになる。しかしどうしたって私たちの命は、コトバや理性が根源的にハートやボディとつながっている。意識だけで英語を勉強してもだめだ。私たちは無意識に下りて行かなくちゃいけない。
なにも神秘的な話をしようとしているわけではない。野球がうまい人がどうして上手なのかといえば、頭だけで考えているからではない。100km を超えるボールが手元に届くまで 0.648 秒以下だ。それだけの時間で「んーっと、今この辺にボールが来てるから肘をこれくらい前に出して、いや、それでいけるだろうか、しかし、やってみないと始まらないしな、うんやってみよう」みたいな思考をしているわけがない。
もちろん、練習をする前にそういうことを考えて調整していることは考えられる。しかし問題は、その意図的な動きをどのように無意識化するかにある。無意識有能4をつくること、それが何かに上達するということである。
無意識という、意識よりも豊かかもしれない広大な世界に心を預けてみる。あるいは、英語という、柔らかい世界に心を預けてコミュニケーションをとってみる。英語は組み伏せるべき相手ではない。むしろ、私たちの心を織り上げる模様であり、私たちはその織り糸だ。
We are such stuff as dreams are made on,
人間は夢の織り糸か?シェイクスピアの『テンペスト』に出てくる魔術師プロスペロは、そうだと頷きます。われわれは夢が作られる stuff (素材、マテリアル)のようなものだ、と。人間たちはいろいろと動き回って歴史を作っている気になっているが、実のところはそうやって織られていくのは夢に過ぎない。そしてプロスペロはこう続けますー
and our little life is rounded with a sleep.
我々のちっぽけな命は眠りに囲まれている、明確な輪郭はない、一つの大きな眠りの海に浮いているのだ、と、直接法の is で堂々と言い切るのです。
『英文法を哲学する』p. 233
私たちはしょせん、夢の織り糸であってちっぽけな存在らしい。ちっぽけな存在はちっぽけな存在らしく、英語という大きな世界に心を預けてみたい。敵を見るように英語をみるのはもうやめようじゃないか。
このメッセージが、無心に英語を学ぶ子どもたちにも届きますように。
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