死ぬことには三種類ある。一人称と二人称と三人称だ。一人称の死、自分自身が死ぬことは経験できない。この文章を読んでいるということは、死ぬことは経験していない。三人称も問題ではない。はっきり言って、知らない人の死はどうでも良い、というか、実感はできないから。薄情な、と思われるかもしれないが、日本では一日平均4000人以上死んでいる計算だから、毎日4000回も喪に服すわけにいかない。
だから私たちが経験する死は二人称であり、いつも親しい人との別れという形で現れる。「あなた」との別れをどう受け止めたらいいのかが関心事になる。
源氏物語においてはその受け止め方が「煙」として現れる。平安時代から日本は火葬の国だったらしい。親しい人の煙を魂と見立てたい気持ちはいたって自然だ。
しきたりの通りに葬儀が行われ、亡骸を荼毘に付すことになった。母君は、娘の亡骸を焼くその煙といっしょに空に消えてしまいたいと泣き、野辺の送りの女房の車を追いかけて無理やり乗りこみ、愛宕という、厳かに葬儀の行われている場所に向かうが、いったいどんな気持ちであったことでしょう。
これは桐壺の更衣が若くして亡くなった際の、母親の描写だ。「あの煙といっしょに空に消えてしまいたい」と泣く母親にきっと誰もが同情するだろう。
また、源氏の君が愛していた夕顔の死においては、登りゆく煙が雲となり、その雲を慕う様子が和歌に詠まれる。
見し人の煙を雲とながむればゆふべの空もむつましきかな
この時代においては「見る」ことも「逢ふ」ことも恋することだったらしい。恋した人が雲となったと思ったなら、この空も親しく思えてくると源氏の君は述懐した。
なんだかこの歌は、星の王子様でも読んだようなムードだと思った。
もしも誰かが、何百万も何百万もある星のうち、たったひとつに咲いている花を愛していたら、その人は星空を見つめるだけで幸せになれる。〈ぼくの花が、あのどこかにある〉って思ってね。でも、もしその花がヒツジに食べられてしまったら、その人にとっては、星という星が突然、ぜんぶ消えてしまったみたいになるんだ! それが重要じゃないって言うの!
きっとこの形式、親しい人の存在を空に尋ねる、というのは普遍的にあるのだろうなと想像する。その形式が1000年も前からあったというのは、先祖の人たちがそれだけの悲しみを超えてきたのだということでもあるのだろう。