源氏物語を読んでいると、自然と仏教のことが気になってくる。というのも、「宿縁があったのだろうか」とか「無常だから」という言葉が度々出てくるからだ。宿縁も無常も、仏教に関わりが深い。
とりわけ般若心経の発想に最近は興味がある。「色即是空空即是色」であり、結局〈色=空〉なのだという。これだけだと何を言っているのかわからない。しかし、絵のことに関連した補助線を引いたら、自分なりに「ああ、こういうことか」と納得できた。
それは何かというと、『脳の右側で描く』の「ネガスペースを描け」というアドバイスだ。
何かをデッサンする時に、ずばりその対象を描こうとすると難しい。そうではなくて、その対象の空間を描くのだ。地と図という言葉を使うなら、図ではなく地を描けというのである。
地と図は線を共有している。だから、地を描けば図を描いていることになるのだ。描くという行為においては〈地=図〉となる。
それが生きるという行為について言えば、〈色=空〉なのだということになるのだろうと、自分は理解している。
そう考えていくと、フォトリーディングも空を意識する。文字の方ではなく余白に意識を向ける。思えば、その本を読みたいのは、行間を知りたいのであり、その知識と自分の生活との関連を知りたいのだ。本と生活との境目はまさにページの端にあり、行間もページの端も余白である。
フォトリーディングにおけるアクセラメンツも、やっていることとしては坐禅を組むことになるだろう。
さらに、フォトリーディングと仏教のアナロジーを推し進めるなら、潜在意識を頼りにすることは、私たちのいのちのちえ、意識を小さいものと考えた時の大智や仏性を頼りにするということになる。悉皆仏性なのだ。
南無阿弥陀仏と唱えるのも「あとは潜在意識に任せます」というのは、同じことじゃないだろうか。