金井美恵子『愛の生活』の書評の続きです。書評①はこちら。
小説は現実に食い込むことがある、と筆者は思う。ここでいう「小説」はフィクション、平たく言えば作り話を意味している。作り話も一つの小世界であって、没入するあまり、作り話の世界に引きずられて現実の見方が変わることがある。金井美恵子の『愛の生活』も筆者にとってそうした小説のひとつであり、いままで美味しいと思っていたものが美味しく感じなくなったという変化として筆者の現実に食い込んできた。
今から書評として書くことは、小説の力に引きずられてそうした変化を読者にもたらすかもしれないから、これまで通りの日常を過ごしたい人へはこれ以降を読むことをあまりお勧めしない。
では断りもいれたのでさっそく書評を始めよう。
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今回の目的は、『愛の生活』の書評①の補足になる。言い足りなかったことを補いたい。この書評①で筆者は、「わたし」につきまとう謎の吐き気の正体について考察した。そして、その吐き気は、リアリティを拒む気持ちが身体反応としてあらわれたものだ、と答えを与えてみた。空腹を感じた「わたし」が目の前の食事から「食べるもの」としての役割を除いて、それそのものの存在を受け止めようとしたとき、「食べもの」が「食べもの」ではないリアリティとして「わたし」の前に現れるから吐き気がするのだと。
ただ、この主張が若干弱く感じられた。食事に関する例示が、リアリティ論の中に無理やり組み込まれた気がしている読者もいるかもしれない。
しかし、この小説にとって「食事」は作品全体を貫く一つの重要概念であって、リアリティ論、特に色彩のリアリティと密接にかかわっているのだ。そのかかわりを確かめるために「わたし」の挙動、目線を一つ一つ丁寧に見ていこう。
まず、食事について、作品冒頭から「わたし」は自分の食した献立や他者のそれに対する記憶の執念を見せている。
「昨日の夕食に、わたしは何を食べたのだったろう?昨日の夕食に、わたしが食べたのは、牡蠣フライ、リンゴとレタスのサラダ、豆腐の味噌汁だった。一昨日は・・・(後略)」(p. 7, line 4)
「Fは毎朝食べるものが同じだ。ベーコン・エッグ(卵はいつも一つで、ベーコンの薄切れが二枚)、レタスのサラダ、トースト一枚、コーヒー二杯。」(p. 11, line 8)
「映画館の近くの洋菓子屋と軽食堂を兼ねた店で、わたしはミックス・サンドイッチとレモン・ティーを食べた。サンドイッチは半分程食べて残してしまう。」(p. 28, line 11)
「わたしは煙草に火をつけて、隣のテーブルの四人の男女の食べているものを眺める。・・・(中略)・・・男たちは同じチキン・レバーかなんかの煮込みのゴテゴテしたものと、サラダとごはん、女たちは、それぞれカツレツとエビ・フライのクリーム・ソースかけ(どちらにもジャガイモ・サラダが皿のわきに付いている)と、ごはん、それにビールが二本。」(p. 45, line 5)
これら献立の描写がこの小説の一つのわかりやすい特徴だ。食事、献立といった何気ない日常のワンカットが「さりげなく重要な」意味を帯びるものとして描かれているように読み取れる。献立の描写は作品全体に色彩を与え、まるで映画を見ているような鮮やかさを演出している。
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しかし、この献立の描写の中で、ひと際ショッキングで、金井美恵子の凄みを感じられる描写がある。相席した「前にすわった若い同業者」がスパゲッティ・ミート・ソースを食べているシーンだ。
「わたしはみるみるうちに姿を消していく、スパゲッティという気味の悪い白い紐の様な物に、しばらく見とれて自分の手の動きをやめてしまっている。」(p. 47, line 17)
まずここで、スパゲッティ・ミート・ソースがすでに「食べもの」としての役割をなくしつつあることがわかるだろう。「スパゲッティ・ミート・ソース」のリアリティは、気味の悪いテクスチャ、白という色彩、紐という形で認識される存在として直接的に(役割という便利なものを介さないで)「わたし」と関係をもっている。
「スパゲッティ・ミート・ソース」の描写は、さらに、「わたし」の小学校時代の回想を通って、ますますリアリスティックになっていく。「わたし」の「薄暗い小学校の保健室」での体験は「スパゲッティ・ミート・ソース」に強烈なイメージを与える素材を提供するのだ。
「その隣のもう一つの額(筆者注:小学校の保健室の、人体解剖図の隣の額を指す)には、小さい黒色の明朝体の文字で、《いろいろな寄生虫》と書いてある長方形の真鍮の文字盤がつけてあった。・・・(中略)・・・なかでも、わたしがいつも見つめてしまうのは、クリームがかった白の細長い回虫で、回虫は桃色の粒粒のなかにまぶされ、ウトウトと眠っていた。桃色の、火を通した挽肉のようなあれは何だったのか?わたしがスパゲッティ・ミート・ソースを特に嫌いなのは、一つにはあの回虫を思い出すからかもしれない。ゆであげたばかりの、スパゲッティの温いぬめりは、あの回虫の隠花植物的な光沢に似ている。」(p. 48, line 14)
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ここで、日常のスパゲッティ・ミート・ソースは翻り、反日常性、リアリティの顔をのぞかせた。「スパゲッティ・ミート・ソース」の色彩はテラテラと、強烈なまでに鮮明だ。役割ではない存在そのもの、リアリティに向き合うことは、日常ではふつう結びつかないカテゴリー同士の結びつきを可能にしてしまう。
「スパゲッティ・ミート・ソース」だけではない。リアリティはその色彩、形によって、小学校時代の回想と「わたし」の食べているシチューまで結びつけてしまう。
「保健室の二つの額のかかった壁と向き合った壁には・・・(中略)・・・やはり額がかかっていた。その額は乳児の便の模型だった。くりぬかれた丸い穴の中に、いろいろな種類の便が少量ずつ入っている。人間が様々な彩を体内から排泄することを、わたしは感嘆して眺める。五彩の便!
「シチューは少しずつ、しだいに冷たくなっていく。ウェイトレスがコーヒーを持って来る。」(p. 49, line 13)
物体は日常からその彼方、リアリティという反日常へ裏返るとき、どうやらおぞましい、気味の悪いものに化けることができるらしい。
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以上で吐き気とリアリティの関係についての論は一旦おしまいとしよう。
『愛の生活』は、そのタイトルからロマンティックな小説と思われるかもしれないが、そうではない。あるいは、「わたし」の夫Fへの思いからロマンス的な何かをもしかしたら掬い取れるかもしれないが、だとしてもそのロマンスは一枚岩にはいかない。この作品に横たわっているのは気味の悪いリアリティであり、金井恵美子のおぞましさ、おっかなさである。
筆者はここしばらく、スパゲッティを好きになれないでいる。
出典:金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』(講談社, 1997年8月10日)
筆者:井上 ひつじ