人間はこころというプログラムを埋め込まれた機械である。それが、『リヴァイアサン』の第1章から第5章までの要約だった。今回はその続きなのだが、第6章の「ふつうに情念とよばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらが表現されることばについて」は単独で扱おう。
というのは、この情念についての記述が、『リヴァイアサン』1部に使われる用語の定義集的な位置を占めていて、1部全体の要となりうると考えるからだ。ホッブズは定義を重要視する。
「結論すれば、人間の心の光は、明瞭な語であるが、それはまず、正確な定義によって、あいまいさをけしさり、除去したものである」(水田訳, 93p)
6章以降に出てくる「意欲」「善」「宗教」「至福」といった語は、この章で定義されている。ホッブズの記述には、定義を一つずつ積み重ねて定理を導出しようという気概を感じる。
(ここで気概を感じると含みをもたせたのは、実際には、前に定義されていない語を使用して説明している箇所があったからだ。たとえば、第3章で影像の連続を語る際、導きのある系列として、第6章で説明するはずの「意欲」「情念」という言葉を定義なしに使用してしまっている)
ただ、辞書を開くように用語を追って行っても面白くないから、第6章で書かれていることを、マインドマップで表現してみた。下図がそのマップである。
「行くこと、はなすこと、その他類似の、意志による行為は、つねに、どこへ、どの道へ、何をについての先行する思考に依存するから、造影力が、すべての意志による運動の、最初の内的な端緒だということは、あきらかである」(水田訳, 97p)
ホッブズによれば、情念とは人間が何か能動的に行動しようと思ったときのこころの小さな動き、内的な端緒である。その小さな動きは造影力、つまりはイマジネーションに由来している。さらにホッブズは言う、
「人間の身体のなかにあるこれらのちいさな運動の端緒が、あるくこと、はなすこと、うつこと、その他の見える諸行為に、あらわれるまえには、それらはふつうに、努力とよばれる」(水田訳, 98p)
マインドマップの真ん中に筆者は、この「努力」という語を置いた。マインドマップの枝の上に置かれる諸情念は、すべて、この努力から分化されるものだ。
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ここで今一度、人間に埋め込まれたこころのことを考えてみよう。こころとは、神が設計し、制作したプログラムである。ところで筆者はSEをやっているのだが、一般的な話、SEが何か新しいソフトウェアを開発するときには顧客の要望を聞き、これからつくるシステムのアーキテクチャ、いわば、基調となる設計思想をよく考える。すべての設計、製造はそのためにあるのだ、という指針のようなものを考えるわけだ。
では、こころのアーキテクチャとはいったい何だろうか。第6章を読み進めていくと、それは次のようなことになると推測される。
生きること、死なないこと
人間は生きるように行動することを基本として設計されている。それは言い換えれば死なないように行動することでもある。なぜなら、生きることは死ぬことの否定であるから。
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改めてマインドマップを見てみよう。情念の根源は努力であり、それは生きるための努力である。その努力が、生きるために必要なものを欲するという形で現れた時、その努力は意欲とよばれる。意欲からさらに希望や愛、好奇心、たのしみといったものが派生していく。
同じことを、つまりは生きていく努力を反対の向きから言い換えれば、それは、死ぬことにつながることから逃げることとなる。その情念は嫌悪とよばれる。嫌悪からは恐怖や宗教、怒り、悲嘆が分化していく。
また、意欲も嫌悪もしないことを軽視という。軽視からは気前の良さや冷酷さが分岐する。
そして、ホッブズは、意欲したり希望をもったり、嫌悪したり、悲嘆したりすることを熟慮するといい、熟慮の結果を意志と呼んでいる。
ここまで駆け足で、どの情念からどの情念が導出されるかだけを紹介してきたから、実際にそれぞれの情念がどのように定義されるかはぜひ当著を手に取って読んでみてほしい。
ここまで述べてきたことから、『リヴァイアサン』を読むときには「意欲」や「宗教」といった語に出くわした時に気を付けなくてはいけない。私たちがそれぞれに思っているこれらの語の意味合い、ニュアンスで読解するのではなく、すでにこの第6章で定義がしてあるのだから、その通りの意味で読み取っていかなくてはいけないのだ。たとえば、第12章の「宗教について」は、当然、ここでの定義から論が出発していく。そのことを念頭におかなければいけない。そして、その定義はこころのアーキテクチャである生きること、死なないことに結びついているのだ。
第6章からはさらに、『リヴァイアサン』を読み進めるうえでの重要な概念が登場してくる。意欲する対象として善が定義され、善を予感するものとして美が定義される。善は第10章「力、値うち、位階、名誉、ふさわしさについて」で、力を定義するために用いられる。逆に、嫌悪の対象は悪で、その予感は醜である。また、そのときそのとき意欲することを手に入れることができる状況を至福と定義している。つまりは、善がいつもそばにある状況のことをしあわせと呼んでいるわけだ。至福は、第13章で、あの有名な主張、「各人の各人に対する闘争」を論じる際の前提である自然状態を理解する際に意識しなければいけない概念だ。
このように、第6章は『リヴァイアサン』でピボットのような役目を与えられているのだ。
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この第6章は『リヴァイアサン』を読むために大事というだけでなく、その考察そのものが興味深いと筆者は感じた。自分の情念、平たく言えば感情が、生きることの指針から分化していて、求めるか、避けるかの単純な指向性によって分類されることを考えると爽快な気持ちさえしてくる。自分の内側への見通しが開けてくるようなイメージである。それはまさに、ホッブズが序説で訴えていること、「汝自身を読め」ということを体験しているのかもしれない。もっといえば、『リヴァイアサン』1部は、自分自身を読むことで、人類を読むことを目指しているのだ。
「全国民を統治すべき人は、かれ自身のなかに、あれこれの特定の人ではなく、人類を読まなければならない。」(水田訳, 40p)
参考文献
水田訳:ホッブズ著、水田洋訳『リヴァイアサン』(岩波書店、1992年2月17日改訳)