『リヴァイアサン』を読む①~人間は生存プログラムを埋め込まれている~

問題提起の②の疑問で『リヴァイアサン』の構成、論の展開の仕方について見立てを書いた。見立てが合っているか、早速1部の詳細に立ち入ろう。

1部の考察対象は、序説に明示してあるように、人間である。よって1部の目的は「人間とはどのような存在であるか」という疑問に対する回答である。

簡便に、そして的確に1部の内容を理解したいが、1部は16章に分かれており、叙述は200ページ以上に及んでいる。人間という考察主題からすれば短すぎるだろうが、このブログで内容を伝えるためには、詳細を律儀に追いすぎて木を見て森を見ずにならないようにしたい。だから初めに、『リヴァイアサン』1部を読んだ筆者なりの、今風な要約を記述しよう。それは次のようなものだ。

人間とは、身体というハードウェアにこころというプログラムを備えた機械である。

もちろん、ホッブズが生きた時代にコンピュータは存在していないから、この断定はホッブズが思いつくようなものではない。しかし、もしホッブズが生き返って今のテクノロジーを見たなら、きっと納得してもらえると思うのだ。そもそもコンピュータというものが人間のこころを模倣して創造された機械であると考えられないだろうか。「こころ」と言うのに違和感があるなら、「脳」と置き換えてもいい。たとえば、対比式で表すと次のようになるのではないか。

プログラム→こころ(脳)

対比式の左辺は人間の創造物が属し、右辺は自然という名を冠する技術を持つ存在である、神の創造物が属している。ホッブズの人間考察は、人間のこころの網羅的な説明を目指しており、その試みは、一種のプログラム解析であると思えるのだ。

この要約を踏まえ、さらに内容理解の補助のために、次のような図を提示しよう。ちなみに、後述するが、この図はある文献を参考にして、筆者なりのアレンジを加えたものとなっている。

こころのモデル>

こころというプログラムは、人間という生き物を生きさせるため、言い換えれば、死なせないために、上図のような構造をしていると仮定しよう。人間に限らず生き物は、生きていく環境に存在する物体の光、音、におい、味、感触を五感で受容して、その受容に対して何らかの反応や行動を起こして生きている。こうした感覚を受け取るシステムを感覚面または反射面と名付けてみよう。

また、『リヴァイアサン』1部との直接の関連は見いだせないが、哺乳動物の場合は親からの刷り込みがあり、この刷り込みが無意識での行動選択を決定している。これを刷り込み面と呼ぼう。ここでは、生まれる前から備わるものではない、生まれてからの社会から影響を受けた無意識での行動選択を処理する面を意味している。

さらに上部にはイメージ面と呼ばれる、記憶と経験が格納されるシステムがある。これはある種、プログラムというよりメモリーに近いのかもしれない。

イメージ面の上にはことば面がある。イメージ面と直結しており、具体的にいえば母国語のことである。

最上部には、イメージに直結していない、論理的な言語である推理面がある。上部言語、メタランゲージとも呼ばれるものだ。

人間のこころは、この5つの階層からできていると考えてみよう。たとえば、「小説を読んで泣く」という一連の行為を分析すると、次のようになる。

小説を読んで泣いているその人は、小説という物体のページの上に書かれた「インクのしみ」を、まずは目という感覚器官から光の刺激として受け取る。感覚面に送られた刺激は、次にそれを「文字」として認識し、ことば面が働く。ことば面はイメージ面と密接につながっており、知っている言葉であれば、その人のこころには、その言葉のイメージが対応付けられる。また、小説には筋と呼ばれる論理展開があって、因果関係や時間軸の理解が必要になるが、この抽象的な内容の理解はことば面の上位にある推理面が担当する。そうして、論理と言語が小説を読む人に具体的なシチュエーションを想起させて、その場面を自分の記憶や経験と連動させることにより、その状況を追体験して「泣く」という行為、アウトプットにつながっていくのだ。

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補助のための図式に関する説明が長くなってしまった。『リヴァイアサン』の1部の理解に戻るが、ここで筆者が伝えたいことは、『リヴァイアサン』1部の5章までは、このこころモデルと符号しており、ほとんどこのモデルで説明ができてしまうということだ。

たとえば第1章では「感覚について」というタイトルで、五感の働きについて記述されている。

「感覚の原因は、外部の物体すなわち対象であって、それが、それぞれの感覚に固有の期間を味覚と触覚のばあいのように直接に、または視覚、聴覚、嗅覚のばあいのように間接に、圧迫するのである」(水田訳, 44p)

この記述からもわかるように、ホッブズも人間考察の出発点に、最下層面の感覚から出発している。「圧迫」といっているのは、今でいう「刺激」と置き換えればつじつまがあうだろう。第1章はこころモデルの感覚面の説明になっているのである。

第2章では「造影について」となっている。訳者の水田が注釈で言及しているように、この「造影」という語はimaginationの訳出で、像という観点に重きを置いた想像のこと、つまりはイメージである。造影に関する分類でも記憶や、複数の記憶としての経験が挙げられており、これはまさにイメージ面の説明になっている。また、造影はおとろえつつある感覚であると定義されており、感覚したものがイメージ面というメモリに格納されることとも合致する。

第3章では「影像の連続あるいは系列について」であり、思考の連続としての「心の説話」が考察の対象となっている。「心の説話」には導きのない思考系列としてさまよいが、導きのある思考系列として回想、慎慮、好奇心といった心のはたらきが挙げられている。これもやはり造影の連続であるからイメージ面の話となるだろう。

第4章は「ことばについて」である。これはその名の通り、ことば面の説明になっている。とくにホッブズが「ことばの一般的な効用は、われわれの心の説話を声のそれにうつしたり、われわれの思考の系列を語の系列にうつしたりすることであり…」(水田訳, 70p)と言及しているので、イメージ面とことば面との直接的なつながりを考えても齟齬はないだろう。

そして第5章は「推理と科学について」となっている。ホッブズは推理を次のようにとらえた。

「人が推理reasonするとき、かれがするのは、諸部分のたし算によって総額を概念し、あるいは、ひとつの額から他の額をひき算して残額を概念することに、ほかならない」(水田訳, 84p)。

またホッブズ曰く、この推理の水準を高めた先に人々が「科学」と呼んでいるものがある。彼の発言を踏まえるなら、推理とは足し引きであり、計算である。計算はことばの誕生によってはじめて発揮しうる能力であって、抽象的な思考を可能にすることについていっても、こころモデルの推理面と対応するのだ。

このように、ホッブズの人間考察の一部はこころモデルで置き換えうる。人間を考察したとき、その心の中で起こっている思考は下位である具象から上位である抽象までレベルがあり、それぞれのレベルの思考を処理する構造、面が人間の脳には存在している。驚くべきは、現代の脳科学や、それに模倣したであろう計算機科学による考察を、すでにホッブズが行っていたということだ。この事実こそ『リヴァイアサン』が古典であることの理由であるのかもしれない。

次回はさらに、この人間考察に踏み込んでみよう。まだ説明していない、ホッブズの6章以降の話である。ホッブズの6章は情念と呼ばれるものの記述になっている。じつはこの情念は、こころモデルのアーキテクチャ、つまりは、このモデルの基本を規定している設計思想に関係してくるのだ。その基本とは、生きることであり、死なないことである。この生存の切実性が今後、『リヴァイアサン』の作品を貫いていくテーマとなるだろう。

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さて、こころモデルとホッブズの人間考察の比較が一段落したところで、このモデルの参考文献を説明したい。このモデルは中山正和著の『増補版 NM法のすべて アイデア生成の理論と実践的方法』(産業能率大学出版部, 1980年6月30日増補版初版)からヒントを得た。過去にこの書籍を読んだことがあり、ホッブズの『リヴァイアサン』を読んでいる中で、このNM法の理論的土台となったサイバネティクスとの高い親和性に気づいた。NM法は創造的な問題解決のメソッドであり、政治哲学との直接の関連はない。しかし、人間には死なないように、生き続けるようにと埋め込まれたプログラムが備わっているのだという様な考えに至ったとき、どちらも同じことをテーマとしていたのだと分かった。ただ創造性開発へと発展するか、政治哲学へと発展するかの違いがあるだけだったのだ。

読者にもぜひこの本も併せて読んでみていただきたい。

参考文献
水田訳:ホッブズ著、水田洋訳『リヴァイアサン』(岩波書店、1992年2月17日改訳)
中山正和『増補版 NM法のすべて アイデア生成の理論と実践的方法』(産業能率大学出版部, 1980年6月30日増補版初版)

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