お金を稼ぐのが後ろめたいのは①

「財」とは生きるための条件である。

リチャード・ドーキンスが The Selfish Gene、邦訳『利己的な遺伝子』を世に問うてから40年以上経っている。彼によると、人間は遺伝子のビークル、つまりは乗り物でしかないらしい。そういった人間=機械論的な見方は、ホッブズが『リヴァイアサン』を著した17世紀から出発し、最近になって科学的にアップデートされたと言える。遺伝子レベルで生きることを強制されている、という意味で言えば、生きることは人間にかけられた一種の呪いなのかもしれない。とにかく、人間は生きようとする。あるいは、死ぬことを避けようとする。

しかし、人間は無条件で生きることはできない。生きるための条件を自分の意思、あるいは、庇護者の意思によって満たさないと生きていけない。日本で暮らしていると忘れがちだが、実際にそういう条件を満たせない人が世界にはいて、UNICEF等の機関が存在している。

生きるためにはいろいろな条件がいる。「食う寝る処に住む処」といった物質的な条件だけではない。たしかに、生きるか死ぬかの極端なゼロイチで考えるなら最低限物質的な条件が満たせればいいのかもしれないが、生きること、生活にもグラデーションがあり、レベルがある。どのようなレベルの生活があるのかということを知りたければハンス・ロスリングの Factfulness を読めばいい。1日2ドルの生活をレベル1として、それから指数的に増えていく裕福度をレベル4まで分類している。この生活のグラデーション、レベルは、「健康」と呼んでおこう。

では、生きること、健康でいることを考えたときに食料だけで十分か。そうではないだろう。厚生労働省の発表した統計を見ると、日本では昭和53年から毎年コンスタントに2万人以上が自殺している。これもある意味、生きるための条件が整わなかったと言えるだろう。食料という条件は整っていたにも関わらず、である。

人はパンのためにのみ生きるに非ずということである。創造性の充たされない人間は、生きがいを失う。狭量になり閉鎖的になる。愛を失い、そのために愛に飢える。(川喜田二郎『KJ法 混沌をして語らしめる』序文)

ここまでで、人間はとにかく生きるために色々な条件を満たす必要があることを見てきた。それは、大別したら二つあり「パン」と「愛」である。ここで人間が生きるための条件を「財」と定義しておきたい。

財=人間が生きるための条件

パンは物質的な財の象徴であり、愛は精神的な財の象徴である。「生きるために愛とお金、どっちが大事?」という質問はほとんど無意味で、しいて答えるなら両方であり、もっと言えば「それ以外にも色々な財が必要ですよ」だ。財は複数ある。(もちろん、お金は、これからの記述で導き出さなければいけない、今この時点では新しい概念だが、ここでは物質的な財の象徴として考えてもらって構わない。)ここで押さえておきたいのは

唯一絶対の財はなく、財は複数ある

ということだ。

「価値」とは数である。

ただ、「愛かお金か」クエスチョンは「どちらかしか取れない」前提なら無意味だが、「両方必要だが評価をするならどちらがより重要だろう」ということであれば、もしかしたら意味がある質問かもしれない。複数ある財に対して、財Aと財Bを比較して「評価」をするのである。ここで評価とは何か。評価とは、「価値」を付けることである。では、価値とは何か。価値とは数である。

評価とは価値を付けることであり、
価値とは数のことである。

ここで、「愛に価値をつけるのか!」というお叱りを受けるかもしれないのであらかじめ断っておきたい。たしかに愛を値踏みするというと一瞬ぎょっとするかもしれないが、そう昔ではない過去に『逃げ恥』というドラマが流行ったではないか。主人公のみくるが、結婚生活を時給換算していた様子はまさしく愛の値踏みではなかったか。もちろん、結婚をすぐさま愛と結びつけるのは早計だけど、人との関係性を打算的にとらえることはそれほど不思議なわけでもない。「金の切れ目が縁の切れ目」とも言う。

さて、評価とは何かに数を付けることだ、と定義してみたわけだが、この評価という営みは論理的に考えると不思議に思えるかもしれない。何かに数を付ける?それは一体、どういうことだと。

しかし、この評価という不思議に思える営みを人は自然に実践している。

たとえば、学校の内申書。ある特定の学期の学業的パフォーマンスに1~5の数字を割り当てている。よくよく考えれば不思議ではないか。ある子供の成績が4とは一体どういうことだ。テストの点数、理科のある分野の知識が76点という、その76という数字は、一体なにを表しているのだろう。

あるいはゲームで攻撃力が500、アジリティが270などという風に、様々な特性に数を付けたりする。そして強くなるために、その数をより大きいものに努力しようとするのはなぜだろう。ただの数に過ぎないのに。

最たるものがスーパーで見かける、食材に付いている値札である。牛乳が216円とはいったい何か。110円で買えるお菓子のおおよそ2倍の価値があるらしい。しかし、牛乳1Lとお菓子1個を見比べて、単位も大きさも性質も違うのに、それが2倍であるというのは少し乱暴ではないか。

しかし、これらは不思議であるかもしれないけれど、乱暴であるかもしれないけれど、それを人間は普通に、特に困ることもなく実践している。不思議で説明できないけれど、存在はしているのである。

確かに、そのような力を霊的な力として証明するのは、科学的とは思われない。が、霊のように見える力が存在するという事実を否認することも、非科学的である。(柄谷行人『力と交換様式』p. 47)

そして特にここで問題として取り上げたいのは、財を評価することである。財に数字を付けることから、「経済学」と呼ばれる学問の基盤が作られるのだと筆者は考えている。

価値はゆるやかに決定される。

ある意味で評価という営みはバーチャルだ。財に対して数を付ける。数という「道具」そのものが頭の中にしか存在しないものだし、バーチャルである以上、どのような数字を付けようがそれはその人の勝手でしょ、ということになりそうな気もする。

しかし、実際にはそうはならないだろう。そのことを考えるために、「交換」という要素を取り入れてみよう。

人は財をほかの人と交換することがある。一番基本的な形としては物々交換である。

筆者が小さいときに経験した物々交換は遊戯王カードだった。遊戯王カードは子供の時の精神的な楽しみとして、ある意味で財としての側面をもっていたのだ。遊戯王カードにはノーマルカード、レアカード、スーパーレア、ウルトラレアといった、カードのキラキラの仕方によったランク付けがある。そこで、友達とカードを交換する、ということがあったとき、ウルトラレアは、レアカード 3 枚と交換といった取り決めがあったりするわけだ。

ここで、ウルトラレア 1 枚と、レアカード 3 枚といった交換比率、いわゆるレートが存在する。このレートにおいては、ウルトラレアは 3 の価値が付けられ、レアカードには 1 の価値が付けられることで3=3 の等価交換が可能になる。ここで、ウルトラレア 300 とレアカード 100 と評価しても構わない。大事なのは、レートを満たすような評価であることであり、都合のいい数であれば問題ない。

今このレートは私と友達の間の小さな世界の、そして一回限りのルールであったが、もしこのトレードが何回も繰り返され、また、ほかの友達やクラスの間でも「まあそれくらいのレートが妥当だよね」という感覚が共有されていけば、それはある種、市場と言って差し支えない。その市場の中では、あるカードに対するある評価が妥当かどうか、ふさわしいかどうかという論理が働き、まったくとんちんかんな評価をして交換した場合は「え、まじ?そのカードめっちゃ価値があるのにノーマルと交換しちゃったの?」と馬鹿にされたりするわけである。評価という営みは一方的にできるわけではない。その評価がふさわしいかどうかという監視のロジックが働くのである。

こうして価値は、バーチャルなものとは言え、市場の中でゆっくりと、しかし確実にある値に落ち着いていく。そしてこの、市場において形成された価値のことを価格と言ったりするのである。

市場の中でゆるやかに形成される価値は価格と呼ばれる。

ここでもう一点指摘しておきたいのは、財に付けられた数字は、交換やレートといった文脈においては有理数として考えたほうが都合がいいということである。有理数とは比であらわされる数である。交換比率を考えるとき、AはBのX倍の価値がある、というようにいつも言えるようにしたほうがよい。したがって、評価という営みをここで再定義しておこう。

評価とは価値を付けることであり、
価値とは有理数のことである。

総和の見方で世界が変わる。

評価という営みを認めることができるなら、私たちはSUM、総和を考えることができる。私がもっている遊戯王カードのデッキの総価値を考えてもいい。なぜなら、デッキを構成する一枚一枚には、しかるべき理由を伴ってゆるやかに決定された有理数がさだまっていて、有理数は足し算することができるのだから。

さて、この遊戯王という身近なたとえから思い切り飛躍して、社会全体の富を考えてみよう。日本には2021年時点で1.25億人の人口があるらしい。その一人一人は財を所有している。つまりは、生きるために必要な条件を自分の意思で、あるいは、頼りになる人の助けによって獲得し、生きることを実現している。その財には価値が付けられている、すなわち、有理数が付けられている。数の大きさにひるまないのであれば、原理的には、日本人全体が所有している財の総価値が計算できるだろう。

問題はその総価値が一定で変わらないと見るのか、それとも、可変で増減したりするのかといった、総和に対する見方、スタンスである。

この総価値がもし一定で変わらないのであれば、お金をより多く稼ぐ人は非難されるべきである。なぜなら、全体が変わらないのに、その中でより多くを自分のものにしようとする人は、そのせいでだれかが少ない財で我慢しなければいけないことを考えない自分勝手な人だからである。

通貨の全体的な発行量を考えてみよう。日本銀行のHPを見てみると、日本で2022年の大みそかに流通していた貨幣は総計125.1兆円であったらしい。その金額の中で、より多くをとる人は、だれかの財をある意味で奪っている。

しかし、本当に総価値は一定だろうか。ゼロサムゲームなのだろうか。違う。それは「2022年の大みそかに」と言った時点でうすうす気づいてもらえているかとは思うが、可変なのである。日本全体の価値は、誰かが多く取ったからと言って、必ずしも誰かが少ない量で我慢しなくてはいけないとは限らない。私もあなたも多く取るという状況がありえる世界、プラスサムゲームなのである。プラスサムゲームの世界観においては、お金を稼ぐことは、自分も相手もより多くの財にありつける、善なのである。

この、富の総和をプラスサムとみる見方は、意外に受け入れられないかもしれない。しかし、それは、富の本質を貨幣にだけしか認めないからである。財は貨幣だけではない。本来は、マルクスが『経済学批判』で言っているように、商品の分析から始めなければいけないのだ。貨幣だけではなく、商品を考えることで、片手落ちの認識から脱することができる。

では一体、商品からどのように「経済」をとらえるべきだろう。そもそも、今まで気軽に言及してきた貨幣とはいったい何だろうか。それの答えは鈴木鴻一郎『経済学原理論』を読むとわかりやすい。次回はこの本を読んでみよう。

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