文化圏に遊ぼう~『葬送のフリーレン』を鑑賞する~

『葬送のフリーレン』について何か記事を書こうと思ったとき、次のような問題提起をした。すなわち、物語と鑑賞と後景はそれぞれが互いにやりとりをしていて、一つの文化圏を形成するのではないか、と。その中で遊んでみるのも面白いのかもしれない。しかし、その文化圏とはいったい何なのだろう。この記事では、これらのことについて考えてみよう。

物語の「馬」はどこへ進むか

まずは、物語そのものを見よう。物語の系、構造はどのようなものだろうか。また、諸要素の力学はどのように働いていて、全体としてどこへ進もうとしているのか。物語の系および展開を観察したい。この系ならび展開を、一つの全体をもった動的な生命を連想して、「馬」と呼んでみよう。これからしようとしていることは、物語という一匹の馬と、それが私たちをどこまで連れて行ってくれるのか、ということに関わる考察である。そのために、登場人物の関係図をまとめてみたり、フリーレンの世界の地理を整理しておいたりするのがいいだろう。

物語という馬が進行していくにつれて、ちりばめられたエピソードやフレーズといった景色が、全体としてどのようなメッセージをもつようになるのだろう。蒼月草のエピソードは、私に何を物語るのだろう。こういう視点は、「伏線のネットワーク」とでも呼べるだろうか。伏線、象徴・・・といったキーワードを念頭に置いておきたい。(あるいは、伏線をわざと無視することでリアリティを醸し出す、ということもあるのかもしれない。ドストエフスキーや和歌を連想した。)

物語の進行を考えるということは、劇で例えるのなら、場面転換の行方を想像するということかもしれない。一場面、あるいは、一幕を同定する手段があったら便利だろう。こういった考察を通して、最終的な行き先を想像することはできるだろうか。私は、終幕または物語の終わり方を予想することができるだろうか。

作品は生れ落ちたら、作者から独立して世界へ出てゆく。そもそも、作者からしても、作者の意図ですべてコントロールしたわけではなくて、書きながら、フェルンならどうするだろうとか、シュタルクならどういう決断をするだろうかとか、作品内部の構造に耳を傾けて作品作りを進めるのではないだろうか。そういった意味で、作者の意図を超えてストーリー自体が生きていく、ということが言えるかもしれない。すなわち、馬である。そのストーリー、生態系に耳を傾けよう。いわば、作品を いのち として見る立場である。

『葬送のフリーレン』という馬については、以下の事柄が系および展開を考察する契機になるだろう。

①エーラ流星:
エーラ流星の描写が印象的だった。また、この流星群が一話のメインであるとも思える。皮切りがエーラ流星だったと言えるだろう。このエーラ流星は何を象徴しているのだろう。もしかしたら、エルフの時間を図る砂時計であるのかもしれない。それ以上の意味は果たしてあるだろうか。

②時間差の効果:
エルフの時間を生きるフリーレンと人間との時間感覚の差は、クバールの回で面白い効果を発揮していたように思う。この効果を「時間差の効果」と仮に名付けておこう。時間の感じ方は、そのまま、生き方である。モモの話を連想した。時間の花。

③フランメの教え:
フランメとは、一体何なのか。何者なのだろうか。フランメは、問題に突き当たるだろうフリーレンのために天国へ向かうよう記した手記を残したが、天国に行くことが、本当にフリーレンのためになるだろうか。フランメは、どのように助けようとしているのか。本当に死者の魂と会話できるのだろうか。

④魔族との対決:
フリーレンは魔族と戦う。魔王討伐後の世界でも残党がまだいるのだ。人間対魔族の構図がいまもなおあるのだ。魔族という存在が、この物語の重要な要素であるといえないだろうか。

⑤勇者一行の回想:
作品は、勇者一行の思い出とフリーレン一行の現在とを行き来して進んでいく。勇者一行の回想のインサートが作品の基調をなしていると言っていいだろう。フリーレンは、過去と現在とをたゆたう。不思議な石によって過去にタイムスリップした場面なんてまさにその典型である(あずにゃんがうとうとして、夢と現実とを行ったり来たりしていたのを思い出した)。

⑥久遠の愛情:
フリーレンは勇者一行での旅路のところどころに織り込まれた、ヒンメルからの愛情を一つ一つ拾い、確認していく。ヒンメルの気持ち、思いが風景や場に刻まれている。「フリーレンはヒンメルからの愛情を一つ一つ拾っているのだ」という、YouTubeでみたコメントが思い出される。『葬送のフリーレン』は一人のエルフが、人間らしい感情を、愛を、理解していく物語であると、とりあえず要約できるかもしれない。(フューチャーマッピングを連想した。紆余曲折を描いて、その折々で過去の記憶を引き出すというその手法とよく似ているではないか。)

⑦フリーレンが愛情を理解する日:
この物語はじれったいと思うシーンが多い。ヒンメルの久遠の愛情は、遠回しすぎる愛なのではないか・・・いや、結構ストレートには伝えていたが、エルフの習性がそのじれったさを生んでいるのだといえるのだろう。フリーレンが、ヒンメルの気持ちを理解する日は、本当に来るのだろうか。理解したら、フリーレンはどうなるのだろうか。

よくよく考えてみると、もう死んだヒンメルの愛情を今更ながら、少しずつフリーレンに理解させる展開は、残酷ともいえないだろうか。この残酷さが、物語の淡さ、しっとりとした空気につながっているのかもしれない。

⑧天国:
最終的に、フリーレンは天国にたどり着くのだろうか。もし、たどり着いたとしたら、どのようなダイアログが交わされるのだろうか。

私たちは物語をどう鑑賞しようか

私たちは、物語という作品があるから鑑賞できる。また逆に、鑑賞されるから作品が生きるともいえる。鑑賞という手続きがあってやっと、作品が完成するのだ。ならば、私たちはどのように鑑賞しよう。どのように受け止めると、作品をより豊かに味わえるだろうか。

作品をどう味わうかという問題は、その作品をどう語るか、という問題でもある。『葬送のフリーレン』とは一体何か。この作品を語るなら、どう語るのがいいだろうか。何が語れるだろう。私はこのアニメをどう面白がればいいのだろうか。

『葬送のフリーレン』を観ると、なんといえばいいのか、なんか「しっとり」した感じ、しみじみと感じ入るものがある。あの「しっとり」感は一体何なのだろうか。この感じは、クオリアは、どこから来ているのだろうか。あるいは、この感じはフリーレンに故人からの愛情をいまさらながら、ゆっくりと受け取らせる、ある種の残酷性にあるのかもしれないことは、前見出しの「⑦フリーレンが愛情を理解する日」で述べた。

私はこの作品に良い評価を与えたいと思っている。感動したのだ。泣きもした。しかし、よくよく考えてみると、何がそんなにすばらしいのだろうか。この作品の光は一体何か、どのようなものなのか。『葬送のフリーレン』の内にある、私の心を捉えて離さないものは、いったい何なのだろうか。何が、私の琴線に触れたのだろうか。

加えて、自分だけではなく、ほかの人がどのように鑑賞するのか、ということも気になる。みんなは、この作品をどのように受け止めるのだろうか。そこに何か共通性はあるか。

たとえば、yoasobiは、『勇者』を作詞・作曲したが、曲を作るに際してまず『葬送のフリーレン』という物語を味わったにちがいない。この作品をどう鑑賞して楽曲を作成したのだろうか。

そもそも、この作品が話題になったのは、マンガ大賞に選ばれたからであった。受賞理由は一体何だったのだろう。何か、当時のコメントが寄せられていないだろうか。

私の感じ方と他人の感じ方はどのように違うだろうか。あるいは、同じだろうか。もし、共通するところがあるのなら、それはどのようなものだろうか。

また、人それぞれ感情移入する登場人物がいるだろう。私は、登場人物それぞれに対して、どのような思いを寄せるだろう。私は、どうしてフェルンを可愛いと思っているのか。可愛いさの型、みたいなものがあるのかもしれない。一方で、ヒンメルのナルシスト感はちらっと鼻につく。なぜだろう。

(ところで、私は初めてこの作品を見ようと思ったとき、「葬送」って変なの、と思った。葬送って、いったいなんだ。Slayerと英語では訳されていたが、なんだか、すこし気にかかる。)

物語の後景には何が広がっているか

物語の後景、すなわち、その作品そのもの以外の周辺的なことも気にしてみよう。たとえば、作者の思い、表現の良さ(デリバリー)または他作品との関係などはどのような様子だろうか。

作者はこれまで、どんな作品を作ってきたのだろう。バックグラウンドを知りたい。作品そのものの鑑賞に役立つかもしれない。どんな影響を受けて作られた作品なのかを知ると鑑賞の幅が広がるだろう。

また、『葬送のフリーレン』を見ていると、ストーリーやキャラクターから、他作品が連想されることがままある。シュタルクの頼りなさは、鬼滅の刃の善一に似ている気がしたし、過去との強い関連という意味では、一瞬、バックトゥザフューチャーも頭をよぎった。私は、類似した物語を知らないだろうか。

また、アニメ独特の表現の良さは、どのようなものだろう。表現技術がストーリーの中身を変容させることがあるのかもしれない。どのような表現技法が使われているのだろうか。スタッフは一体、だれなのだろう。はたしょう二さん、という名前が最近気にかかる。

表現技法という話に関連して、映像作品としてのアニメを考えたい。アニメで観るのと、漫画で読むのとでは、どのように違うのだろう。いわゆる、アニオリといわれるものは何かあるか。

シュタルク誕生日の回の、フリーレンがベッドから飛び起きるシーンは、なんかジブリっぽさがあるようにも思えたが、気のせいだろうか。アニメ制作委員会に、ジブリの関係者がいるのではないかという憶測もよぎる。

あるいは、アニメ制作での苦労話、よもやま話も興味がある。経済的な面、制作の上での制約の寸法であったり、あるいは、キャンペーンとかの商売上の展開を追ってみたりするのも楽しいかもしれない。

いずれにせよ、物語の後景を考えることで、作品の鑑賞がより豊かになるだろう。

しかし、忘れたくないのは、そういった鑑賞や鑑賞するコミュニティそのものが、物語の後景になりつつある、ということだ。いわば、その作品の文化が醸成されるのである。話を推し進めて、その文化の中で、もしその作品にいたく感動し、自分も作品を作ろうと行動する人は、その人が新たに物語の後見人として現れてくるのである。

このような文化圏、すなわち、物語ー鑑賞ー後景の全体から、まずは『葬送のフリーレン』という物語を鑑賞してみよう。

1件のコメント

  1. 自分も最近「葬送のフリーレン」を読み始めました。なんか「しっとり」した感じ、しみじみと感じ入るものがあるという表現は、まさに自分もその通りだと感じました。また冒頭の”物語の馬”という表現は、とても独特で素敵な表現であると感じました。このアニメ自体は初めは少し退屈感があると思っていながら見ていましたが、そのしっとり感がとても心地よく感じながら、だんだん仲間を増やしていくながらストーリーが展開されていくうちに、とても面白いアニメであると感じています。マンガも買ってみようかなと思います!!

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