自分に「いいね」すること~『コンビニ人間』考察~

承認する・されるということが、いわゆる「幸せ」の問題において大きなウエイトを占めるのだと思う。自分と他者との関係において、承認、すなわち、「好意的に見てくれているという感覚」が安心感を生むのではないだろうか。

このように言うとアドラー心理学を知っている人は異論があるのかもしれない。というのも、承認が幸せに積極的に関わるのではなく、むしろ、承認とは無関係に、自分の思いに従うことが幸せな生き方につながるのだと考えるだろうから。

しかし、他者の承認とは無関係に、というのは、自分自身の承認に従って進むのだと言えなくもない。ほかの人がどう思おうと、他ならない自分自身が「これでよい」と思える方向に進むのだ、ということが大事なのかもしれない。となると、これは自分自身の承認、YES、が必要なのだということになる。

そして、自分自身に YES が言えるようになるためには、親しい人から YES と言われた体験が必要だとも思えるのだ・・・

このような承認の話に思いを巡らせたのは、村田沙耶香著『コンビニ人間』を読んだからだった。芥川賞を受賞したこの作品は「承認」という角度から眺めることができないだろうか。『コンビニ人間』の主人公の古倉恵子は「少し奇妙がられる」人だった。世界にとって自分は異物であることを感じ取った古倉は、なんとか世界とのつながり方を模索する。

その模索の在り方は、他者からの承認が自分自身の承認へ旅立つ軌跡である。

それは一体どういうことか。物語を詳しく見てみよう。

1.世界との接続

物語を理解するときのヒントとして意味段落を考えるというのがある。意味段落というのは、おおざっぱな意味のまとまりであり、場面が変わる瞬間などで区切られる。『コンビニ人間』は一行空白になっている箇所が意味段落になっているから分かりやすい。本作は 27 個の意味段落でできている。

さらに、27 個の意味段落をより大きな意味で括ってみると 5 つのまとまりがある。そのまとまりの一つ目が「世界との接続」( pp. 3 – 38 )と名付けたものだ。

コンビニエンスストアは、音で満ちている。

物語は音から始まり、コンビニの朝が描写される。客が入ってくるチャイムの音、店内を流れる有線放送の音、店員の掛け声、かごに物を入れる音・・・コンビニという一つの世界が動き出す様子が音で表現されている。

主人公はこのコンビニのアルバイトで 36 才独身女性の古倉恵子だ。彼女は幼少時代から「少し奇妙がられる」子どもだった。死んだ小鳥を見つけたとき、ほかの子が「かわいそうだ」と言っている中で「焼き鳥にしよう」と言ったり、男の子同士が喧嘩して「誰か止めて!」と言っていたときにスコップで男の子を殴って止めさせたり。母親からは「どうすれば『治る』のかしら」と言われていた。

古倉としては合理的な判断だった。死んだ小鳥は生き返ることがない。父親は焼き鳥が好きだし、妹は唐揚げが好きだから喜ばせたかった。死んだ小鳥を弔うために花の「死骸」を添える友達が全く理解できなかった。男の子同士が喧嘩したときだって「止めて」と言われたから止めた。善意であり、合理的でもある。しかし、「普通」ではなかった。

そんな「普通」ではない古倉が大学生の時に始めたのがコンビニのアルバイトだった。コンビニにはあらゆることにマニュアルがある。マニュアルが「普通」を規定している。それどおりにやればよかったし、そうすることで客からも店長からも褒められた。承認されたのだ。

そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

「普通」ではない古倉が世界との正常な関りを持つことができたきっかけ、それがコンビニだったのだ。それはコンビニという機械の部品としてであったが、それでも正常だと承認された。機械として関りを持つことができた、ということで、この大きな意味の流れを「世界との接続」と名付けたい。

2.免疫への恐怖

既述したように古倉は 36 才独身女性でコンビニアルバイトだ。この設定に「えっ」と思ったり、「何か理由があるのかしら」と勘ぐった読者は世界の「普通」が分かっている。就職と結婚という二つの「普通」。「年頃」の女性は「普通」ならどちらかは満たしている条件。古倉はそのどちらも満たしていなかった。

この『コンビニ人間』というストーリーは 36 才でなかったら起こらなかっただろう。世界と接続できなかった 18 年間とコンビニを通して接続できた 18 年間が釣りあった瞬間であり、また、いわゆる結婚適齢期の 35 才を過ぎたタイミングである。このタイミングで世界の「免疫」機能が働き始めた。

免疫とは異物を排除する機能である。古倉は様々な形で免疫機能を目にする。コンビニに現れた、客にあれこれ注意する迷惑なおじさんが店長によって退店させられたり、新入りのアルバイトの白羽がクビになったり、あるいは、地元の友達のバーベキューに参加したときに、結婚する理由がよくわからないことを友達の旦那から「やべえ」とつぶやかれたり。世界にはその世界に適した「普通」があり、「普通」ではない存在は排除される。その様子が pp. 38 – 80 で描かれる。「普通」から外れた存在が排除されていく様子をみて古倉は恐怖する。だから、この意味のまとまりは「免疫への恐怖」と名付けるのが妥当だろう。

なんとか排除されないような形を模索するしかない。そのためにどうすればよいだろうか。そこで古倉が試したのが「迎合」だった。

3.ムラへの迎合

早々にコンビニアルバイトをクビになった白羽は古倉と同じく「異物」だった。定職につかず、童貞で冴えない 35 才。仕事もろくにできないのに偉そうな白羽に読者はきっとイラっとするだろう。しかし、このイラっとする白羽が古倉と化学反応を起こす。白羽が「ムラ」という考えを導入するのだ。

この世界は異物を認めない。僕はずっとそれに苦しんできたんだ。

僕はいつからこんなに世界が間違っているのか調べたくて、歴史書を読んだ。明治、江戸、平安、いくら遡っても、世界は間違ったままだった。縄文時代まで遡っても!

僕はそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ。

白羽の主張は被害妄想という感じで幼稚に思える。しかし、読者に問いたい。あなたはこの考えを否定できるだろうか。むしろ、共感できないだろうか。男性は童貞を馬鹿にされることがままある。女性にしても結婚というある種の「呪い」におびえてないだろうか。私は、白羽のこの主張が簡単に他人事だとは思えない。

古倉にしてもそうだ。今まではコンビニという機械に接続できていれば満足できていた。しかし、36 才で結婚「も」せずに正社員に「も」ならずにいる自分が世界から疎まれていることを感じ始めていた。古倉は妹や親に対しての愛情や好意はもっている。だからこそ、世界との接続を模索している。

そんななかで古倉が思いついたのは白羽との結婚だった。コンビニもクビになって行く当てのない白羽を家に泊めた。ただそれは「結婚」とか「同棲」というカモフラージュであり、白羽との性交渉はない。ただ世界からの免疫をかいくぐればよかったのだ。

このように、ムラの中へ、オスとメスの関係を装って世界とつながりつづけようとする古倉の試みが pp. 80 – 103 で描写されるのだが、それで古倉は幸せになっただろうか。『逃げるは恥だが役に立つ』という作品ではそこから、嘘の婚姻から本当の愛情へと移行するところである。しかし、古倉はそうはならなかった。

むしろ、古倉はコンビニから切断されて生きる意味を失ったのだ。

4.コンビニからの切断

古倉と白羽の同棲のうわさが広がるとコンビニは豹変した。二人のうわさに職場が沸き立ってしまったのだ。いままで合理的に動いていたコンビニの音に雑音がまじり、画一された「店員」という存在は、オスとメスにかわってしまった。

同棲の知らせに喜んだ妹は、姉のアパートで実態を知って発狂した。訳の分からない男と訳の分からない関係で同棲している姉は全然「普通」になどなっていなかったのだ。それから、白羽の弟嫁も借金の取り立てのためにアパートを訪れ白羽と古倉の実情に愕然とした。

世界はやはり異物を許さないようだった。

妹と弟嫁を納得させるために白羽は勝手に話を進める。二人は結婚するんだと、そして古倉はアルバイトをやめて定職に就くのだと言い張った。

そして、あっけなく古倉の 18 年間のコンビニアルバイトが終了する。古倉はコンビニから切断された。始終頭の中に流れていたコンビニの音も聞こえなくなった。コンビニで働くために健康を気にしていたが、働かなくなって生活リズムも崩れ、ムダ毛も剃らなくなった。

古倉にとって、生きるということとコンビニ店員であることはイコールだったのだ。

古倉はコンビニから切断された。その様子が pp. 103 – 143 で描かれる。

5.コンビニ人間再誕

古倉はコンビニとの接続を諦めてムラの中で生きることにした。コンビニをやめて、白羽が求人でみつけた派遣社員の面接に臨もうとしていたその日にターニングポイントがあった。付き添いの白羽が入ったコンビニに古倉も入ったのだ。そこで「コンビニの『声』が流れ込んできた」。

コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。この店に今何が必要か、頭で考えるよりも先に、本能が全て理解していた。

私にはコンビニの「声」が聞こえていた。コンビニが何を求めているのか、どうなりたがっているか、手に取るようにわかるのだった。

古倉は他店にもかかわらず、そこの社員のように店をととのえて、アルバイトの子たちを指導した。それに怒ったのが白羽である。お前、何してるんだ!何馬鹿なことをやっているのだ!白羽は異物を見るような目で古倉を見た。

しかし、古倉は気づいたのだ。自分は人間である前にコンビニ人間なのだと。

気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです。

そうして、コンビニという箱の世界に古倉は自分自身の誕生を見た。それは、世界の免疫に恐怖し、ムラへの迎合もチャレンジしてみた古倉がたどり着いた正解であり、コンビニ店員としての誕生だった。誕生といっても、初めて雇われたときから数えて二回目であるから再誕であり、また、コンビニという世界への再接続である。

私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

変であれ

物語はこれまで見てきたように、接続→免疫→迎合→切断→再誕(再接続)という道のりを辿る。もっと抽象化すれば、コンビニへの接続、切断、再接続がストーリーのあらすじであると言えるだろう。今まで心地よかったコンビニ店員としての生活に世界の免疫機能が働いた。それに対応するために古倉は代替としてムラを試したのだ。

これは見方を変えれば、他者からの承認から自己自身の承認への変化とも言える。古倉は、「普通」を願う妹に問い返した。コンビニのアルバイトを始めた時は、世間とのつながりが出来てめでたいと言っていたじゃないか。それなのに今はコンビニを辞めることがいいことだと言う。一体どうすればいいのか。どうしたら「治る」のか。私は治したい。どうすればいいか教えてよ、と。他者からの承認は何とも不確かで、心許ないものである。

古倉は家族を好意的に見ていた。承認していた。だからこそ、自分も世界から承認される存在であるように努力してきた。しかし、古倉は気づいたのではないか。世界が私をどう承認するかと言うことも生きる上である程度大事であるが、それよりも、むしろ自分自身が「これがいい」と思えることの方が大切であると。

その「大切である」というのは幸せを形作っていく上で有効である、と言う意味においてである。幸せというのは、平たくいえば「なんかいい感じである」と言うことではないか。

他者から見れば古倉の生き方は「いい感じ」ではない。むしろ異物な、変な、生き方である。しかし古倉はコンビニ店員として、コンビニの「声」を聞くのが本能的に心地よいのだと知った。それがたとえ変なことであっても。

物語は妙に前向きなメッセージが込められているように思う。それは「変であってもいいよ」と、読者の背中を押し、承認してくれるからなのかもしれない。

変であれ。たとえ世界から疎まれようと。

『コンビニ人間』は、そんな爽やかな方向性を感じた小説だった。

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