『ダンダダン』が面白いのはアクロバティックさらさらが不幸だから

他人の不幸は蜜の味という、なぜだろうか?他人の不幸と自分のそれとを比べて「ああ、自分はまだマシだ」と思えるからだろうか、比較したところで自分の不幸せが小さくなったわけでもないのに。事情はきっと違うのだ。むしろ「不幸」の価値をもっと積極的に認めてみよう、すなわち、不幸でないと悲劇が始まらないし、悲劇がないとカタルシスがないから面白くないのだ。悲劇やカタルシスについて歴史上一番早く、そして詳しく語ったのはアリストテレスだろう。そこで今回はアリストテレス『詩学』を引き合わせて『ダンダダン』の面白さを考えてみたい。

何が面白いのかをアリストテレス的に考える

最近、暇があれば『ダンダダン』を観ている。何回観てもなかなか飽きないのだ。こんなことを言うともし「論破王」のひろゆきだったら、「あらすじが分かっているアニメを何回も見るなんてバカなんですか?」と言われるかもしれない(これは自分の、まったくの想像だが)。しかし、やっぱり、何回も観たくなる。なぜだろう。

一つは Creepy Nuts の OP がイケてるっていうのがある。そもそも自分が『ダンダダン』を知ったのは Creepy Nuts 経由だった。『オトノケ』がこのアニメの OP に使われているということを知らないで、 amazon music で聞いていたのだ。それから、『ダンダダン』を知り、ウルトラマンオマージュの利いたアニメーションにすっかりハマってしまった。

あるいは、綾瀬桃というキャラクターが魅力的だということもある。性格がよくて、面白くて、かっこいい。そんなヒロインが今後どういったストーリーを展開していくのかが気になる。自分はすっかり綾瀬桃のファンになってしまったのかもしれない。

しかし、『ダンダダン』の面白さをもっとストーリーそのものに求めてみよう。いわば、ストーリーの構造、あるいはプロットと呼ばれるものに注目してみる。このプロットというのを考えるうえでアリストテレスの『詩学』が役に立つのかもしれないのだ。

今まさに放送しているアニメの考察に大昔の、紀元前のギリシア人の考察を使うというのは、ちょっと悔しいことでもある。しかしながら、「我以外みな師」であるとも言うし、何かをよく語ろうとするうえで使えるものは何でも使おう。それに、語る価値があるからこそ 2000 年を超えて伝えられたのだろうし。

「詩」とはアニメである

アリストテレス(紀元前384年 – 紀元前322年)は、古代ギリシャの哲学者であり科学者で、多くの学問分野の基礎を築いたことで知られる。その万学の祖たる彼は『詩学』において「詩」とはミーメーシスであると定義した。ミーメーシスというのは日本語だと「模倣」とか「再現」と翻訳される言葉で、いわく、人間は本能的に模倣を行い、それを通じて学び、楽しむのだと。彼によると、詩とは人生を模倣し、行動や性格、感情を再現するものだ。また、『詩学』を読んでいくと、アリストテレスのいうところの詩は、今日でいうアニメも包括しているのだということがわかる。

叙事詩と悲劇の詩作、それに喜劇とディーテュラムボスの詩作、アウロス笛とキタラー琴の音楽の大部分、これらすべては、まとめて再現といえる。しかしこれらは三つの点、すなわち、(1)異なった媒体によって、(2)異なった対象を、(3)異なった方法で再現し、同じ方法で再現しないという点において、互いに異なる。1

(1)の「異なった媒体」にアリストテレスはリズムと言葉と音曲があると言っているし、また、悲劇について論じる際には

悲劇ではまず、視覚的装飾が悲劇を構成する要素の一つでなければならない。

と述べている。リズムと言葉と音曲、そして視覚的装飾とは、今風に言えば、音楽(オープニングやエンディング、効果音)とアニメーションのことを指していると考えていい。こう考えるとアリストテレスの『詩学』は「アニメ学」と言ってもいいかもしれない(それは多分に言い過ぎだとしても、アニメについて考察するのに『詩学』を使ってみてもいい理由にはなるだろう)。

「ちんこ」は面白い

アリストテレスは詩(アニメ)は再現であると定義したうえで、何を再現するかで詩は分類されるという。

再現をする者は行為する人間を再現するのであるから、これらの行為する人々はすぐれた人間であるか、それとも劣った人間でなければならない。

ここで、すぐれた人間を再現することは悲劇に、劣った人間を再現することは喜劇に分類される。今回考察したいのは悲劇のほうであるけれど、喜劇の方のアリストテレス考も面白い。『ダンダダン』関連で気になるところをすくってみると、

喜劇はいまも多くのポリスに風習として残っている陽物崇拝歌の音頭取りからはじまったのである。

陽物というのは、男性器のことである。わんぱくな小学生が「ちんこ!」といってケラケラ笑うように、あるいは、野球のWBCで陽気なキューバ代表の選手たちがバナナを股間に突き刺して踊っていたように、「ちんこ」というのは陽気で楽しくて愉快なことなのだろう。そういえば『チェンソーマン』のオープニングでパワーちゃんも金の玉を転がしていた。言うまでもなく、『ダンダダン』もタマを探すストーリーであり、それがこの作品のケラケラ笑える要素、つまりは喜劇的な雰囲気を醸し出しているのだろう。

あわれみとおそれ

そういう喜劇的な面白さもあるが、しかし、今回注目したいのは悲劇的な要素の方である。悲劇とはいったい何なのだろうか。『詩学』を見てみよう。

悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。

まず、悲劇というのはすでに述べたように、すぐれた人間を、高貴な行為を再現するものである。そしてその行為は完結したものである。ここで彼の言う「完結」というのは、はじめ→なか→おわりの構造をもつものと簡単に定義される。

全体とは、初めと中間と終わりを持つものである。

『ダンダダン』もこの構造を持っている。ターボババアの憑いた地縛霊がテーマである第1回から第4回放送では、おおざっぱに言えば、桃とオカルンの出会い→ターボババアとの闘い→地縛霊の成仏という完結をしているし、アクロバティックさらさらが描かれる第6回と第7回放送では、白鳥愛羅の登場→アクさらとの戦闘→愛羅の生還とアクさらの消滅という展開を追っている(きっとアクさらは成仏したのだろうと思っているしそう信じたいが、まだ確信がないので「消滅」という言い方をしておきたい)。

このように、悲劇とは高貴な行為を再現し、また、はじめ→なか→おわりの構造をもつものなのだが、さらに悲劇の定義の中で気になるのはあわれみおそれという言葉である。それぞれが何を指しているのかを拾ってみよう。

あわれみは不幸に値しない(アナクシオス)にもかかわらず不幸におちいる人にたいして生じる。

おそれはわたしたちに似た人が不幸になるときに生じる。

ここで共通するのは「不幸」という単語である。悲劇とは「あわれみおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」のだから、あわれみか、おそれか、どちらを通過するにせよ不幸を通ることが悲劇の条件になる。

アクロバティックさらさらは、この両方だと言えるだろう。アクさらの炎(オーラ)が桃の超能力によって愛羅のに繋がれた時に桃が見たアクさらのヒストリーを考えてみよう。若い一人のお母さんの、娘を育てようとする真剣さは報われてほしいもの、すなわち、不幸に値しないものとして描かれていたと言えるし、また、そういったシングルマザーというのは「よくあること」といえば「わたしたちに似た」存在であると言える。

カタルシスとは何か?

これらのあわれみとおそれが浄化(カタルシス)を見ている人の心に起こさせる。しかし、このカタルシスとは一体なんだろうか。実はアリストテレスは、このカタルシスを当たり前のことと捉えていたのか、明確には言明しておらず、この言葉をどうとらえるかはいろいろな推測がある。古典ギリシア語のふつうの意味では「医療において身体の中から害となるものをとり除くこと」とされるのでカタルシスとは詩劇を鑑賞する人のおそれやあわれみを寫出(「しゃしゅつ」と読み、「流れ出る、流しだす」の意)するのだと理解したり、あるいは、悲劇は感情の過度や過少を浄めて「中間」に導く倫理的浄化なのだと解釈したりする。2

ただ、『ダンダダン』を視聴する上で感じる面白さや感動が寫出であるとか、中間なのだといわれてもあまりしっくりこない。自分としては、後者のカタルシス=倫理的浄化説を採りたいが、しかし、その浄化の仕方は「中間」ではない。それなら、カタルシスとはいったい何なのだろうか。

カタルシスの正体を突き止めるために、あわれみとおそれという感情に立ち返ろう。あわれみとおそれという感情がカタルシスを引き起こすのは分かった。では、あわれみとおそれという感情を起こさせる悲劇上の仕掛けは一体なんなのだろうか。そこで注目したいのは、逆転認知という言葉である。

悲劇が人の心をもっともよく動かす要素は、筋を構成する部分としての逆転(ペリペテイア)と認知(アナグノーリシス)である。

アリストテレスは上のように、悲劇が「人の心をもっともよく動かす要素」として逆転と認知を挙げている。それぞれ、どのようなことなのだろう。参照しよう。

逆転とは、これまでとは反対の方向へ転じる、行為の転換のことである。

認知とは、無知から知への転換 ー その結果として、それまで幸福であるか不幸であるかがはっきりしていた人々が愛するか憎むかすることになるような転換ーである。

悲劇上のこの二つの仕掛け、逆転と認知は、それぞれが別に働くものではなく、しばしば同時に、相互作用としておこるものである。

しかし、筋にもっともよく結びついた認知、すなわち、行為にもっともよく結びつく認知は、上に述べた認知である。じじつ、このような認知は逆転を伴うとき、あわれみか、おそれか、そのどちらかを引き起こすであろうー悲劇とはこういった行為の再現であるということが前提とされている。ー

上の記述からも分かるように、認知と逆転があわれみかおそれを引き起こすと言っている。すなわち、ストーリーが転換し、今まで知らなかったある事実が知られるようになったときに、あわれみやおそれが起こる。

壊れる瞬間こそが、最も美しい

ここで認知と逆転の話を分かりやすく、なじみやすいものにするために、岡田斗司夫の庵野秀明論を導入してみよう。庵野秀明は言わずと知れた『新世紀エヴァンゲリオン』の作者であるが、岡田斗司夫は自身で立ち上げたガイナックスという会社で庵野秀明とともに映画製作に携わっていた。そんな岡田斗司夫がエヴァを考察していた中で興味深いことを語っていたのでそれを見てみよう。いわく、庵野秀明の映像テーマは”破壊の中に見える本質”であると。

それと同じように(筆者注:宮崎駿の映像シーンと同じように)、庵野秀明が生み出すカッコいい破壊シーンというのも、同じように「壊れる瞬間こそが、最も美しい」と庵野秀明が思っているからこそカッコいいんですよね。庵野秀明自身の中に「壊れる様を見せることで、その本質が明らかになる」とか、「人というのは、それが壊れる瞬間にこそ、その存在を実感できる」というテーマを持っているから、表現がそちらの方に行くんです。

岡田斗司夫公式ブログ http://blog.livedoor.jp/
okada_toshio/archives/51546566.html

メカが破壊されたとき、その中身のシステムを構成していた部品が飛び散ることでそのメカの正体がわかる。壊れてこそ、本質を知れるのであり、その瞬間が美しい。じつはこういう形式はほかのアニメ作品にもある。世界的にも有名なものを挙げれば『鬼滅の刃』が筆頭だろう。鬼滅隊は鬼と戦うが、その鬼も前は自分たちと同じように人間だった。その人間の経歴、本質が、首を切られて灰となって崩れる時に描かれる。天元と戦った牛太郎は、戦っている時こそ醜く、憎い悪役だが、妹とともに切られてその過去が、本質が語られるとき、もはや彼のことを憎める視聴者はいないだろう。あるいは、『魔法少女まどか☆マギカ』でさやかちゃんが絶望してソウルジェムが汚れ切ったとき、そのときに初めて戦っていた魔女がじつは魔法少女だったことを知る。これも破壊の中に本質が見える例である。

この、破壊の中に本質が見えるという形式が、そのまま逆転と認知の仕掛けになっている。破壊というのは逆転であり、本質が見えるというのは認知である。『ダンダダン』でも破壊の時に本質が現れる。それはカニの正体が連続少女殺人事件の被害者であったと気づいたときだったり(アニメ版では「ここでお前くらいの女の子たちが乱暴されてバラバラにされて捨てられた」と表現していたが、漫画ではずばり「連続少女殺人事件」という単語が出てくる)、ターボババアがその霊たちを慰めていたりしたことである。これらの真相を知る瞬間というのは、カニが成仏してからのことだった。

そしてアクロバティックさらさらも例に漏れない。愛羅の炎につながれて彼女の経歴、本質が明らかになったとき、もはや彼女を憎いと思う視聴者はいない。アクさらに関する無知が知へと転換した時には、ほとんどの視聴者が彼女の味方になっている。

アクロバティックさらさらが壊れるとき、その姿がもっとも美しい。それは本質が知れるからである。そのときに逆転と認知がおこり、ゆえに、あわれみとおそれが起こる。したがって、不幸を通ってカタルシスが起こる。

ここまでくるとカタルシスの正体が掴めてくる。すなわち、カタルシスというのは、今まで敵だと思っていたり、面倒ごと、障害だと思っていたりした存在が「もう憎めない」存在になったときにそれに寄せる愛情であり応援なのだ。アクさらの消滅を見ていた視聴者は「彼女に幸せになってほしい」と願っただろうし、きっと涙も流しただろう。あわれみやおそれとは、裏を返すと「幸せになってほしい」と願う気持ちであり、その気持ちが極まると、邪念や混ざりけなく、彼女の幸せをただただ求める心情になる。

混ざりけがない、ということは、純粋であるということだ。この純粋なあり様に至ることをすなわち浄化、カタルシスというのである。何かが壊れた時、あわれみやおそれが起こり、視聴者は純粋に他者の幸せを願う心境になる。そして「ああ、自分にもそういう心根があるんだ」と思えることが嬉しいし、その嬉しさこそ作品のプロットが提供する醍醐味でもある。思うに、

どうか、誰も彼女たちを傷つけたりしない、幸せで優しい世界へ

という、この愛羅のセリフにカタルシスの内容が集約されている。というのも、不幸を通って他者の幸せを願う純粋さこそカタルシスにほかならないのだから。

  1. 松本 仁助; 岡 道男. アリストテレース詩学 ホラーティウス詩論 (岩波文庫) . 岩波書店. Kindle 版. ↩︎
  2. 脚注 1 の書籍の訳者注より ↩︎

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です