すべてはつぶつぶである
世界はつぶつぶである。歴史上しばらく、その一番小さい粒は原子だと思われていた。しかし、それよりも小さく基本的な粒が後に発見された。素粒子である。今日では、素粒子こそ、私たちをつくっている最小の単位であるといわれる。すべてはつぶつぶである。量子力学とは古典力学では説明できない、分子、原子、素粒子といった量子を研究するミクロの学問である。
少し前まで最小と思われていた原子、これを観察すると、輪郭が明らかではない、なんだか雲のような絵が出てくる。実際、それは電子雲と言われている。というのも、その雲を構成している素粒子は、すごいスピードで現れては消えを繰り返しているから、静的ではなく、移ろいやすいものであるのだ。私たちは、当然この記事を読んでいるあなたも、原子の集まりに過ぎないわけで、このスカスカでモワモワでゆらゆらしている雲の集合体である。だから粒とはいっても、丸いブロックを積み重ねているというより、エネルギーの濃い部分が目に見え肌に触れていると考えたほうがいい。

「国立科学博物館で学ぶ物理学 <シュレーディンガー方程式/原子の電子雲>」
http://wondephysics.web.fc2.com/physicsqc.html
ところで先に「すごいスピードで現れては消え」と書いたが、いったい、どこから現れ、どこに消えているのだろう。舞台に立つ人が隠れられるような袖があるのだろうか。そのことはまだよく分かっていないらしい。分かってはいないが、しかしそれゆえに、一つの仮説が立てられているそうだ。すなわち、粒は何もないところから生まれ、何もないところに消えていくのだ、と。この「何もないところ」はゼロポイントフィールド( zero point field : ZPF )と呼び慣わされている。これを ZPF 仮説という。
ZPF 仮説:素粒子は ZPF から現れ、ZPF に消えていく
なんだか狐に化かされたような気分ではある。それに、それこそ雲をつかむような話ですらある。しかし、このことは空を見上げた時のことを思えばイメージしやすいのかもしれない。つまり、空に浮かんだ水蒸気が雲になるように、ZPF に浮かんだ素粒子が物質になるのだ、と。このたとえに乗っかるなら、私たちはいわば雲である。そして、水蒸気の集まりでもある。と同時に、雲は空から生まれ空に消えてゆく運動の一つの形態にすぎないと見るなら、私たちは空でもあるとなる。したがって、このたとえから降りると、私たちは物質でもあり、素粒子でもあり、ZPF でもある。
このように ZPF 仮説を展開していくと、すべての存在はそれが原子でできている以上、物質層、素粒子層、ZPF 層の三つの層でできていると言える。しかし、どの層が他より優れているとか、より高尚であるというのではない。ただ、量子のふるまいを整合的に説明するために ZPF を仮定すると、そういう層があるというだけだ。
フォトンが意識を構成する
冒頭に「すべてはつぶつぶである」と書いた。しかしこの「すべて」というのは、思いとか感情、思考といったものを含むのか。『人生が一変する「量子力学的」感謝日記』の著者である村松大輔氏によれば、答えは肯定的である。たとえば、意識。意識はフォトン(あるいは「光子」)と呼ばれる素粒子であると考える。ここで一見関係のなさそうな量子力学と感謝日記とが交差する。というのも、フォトンの出す波が電子場を揺らし、電子場が揺れると素粒子がたくさん出発して存在が濃くなってくる。存在がある中心に向かってだんだんと濃くなるというのは、先に書いた電子雲が形成されてくるということ、つまりは、意識したことの実現となるわけだ。それゆえ、人生が一変しうるのだと・・・
なんだか話が怪しい方向へ進んでいるなと感じる読者もきっといるだろう。実際、怪しい方向へ進んでいるのである。理性の所管ではないような、どちらかというとスピリチュアルな、あるいはトンデモ科学の領域に入ろうとしている。だからそういう話に興味がない人はここまでで読了としても全然構わない。あえて読み進む人も、眉に唾してというか、だまされるのを覚悟して読み進めてほしい。ただ、だまされたところできっと損失はない。というのも、この記事が最終的に読者に薦める実践は、感謝日記を毎夜書こうというもので、失うものがもしあるとすれば、インクと紙と毎日5分くらいの時間だけだ。しかし、実践している私個人としては、それ以上の利益として趣味の良い習慣と精神衛生が得られていると感じているし、そう信じている。私としてはその信じるところに従って書き進めよう。
意識はフォトンであると書いた、そして、意識は実現するとも。つまり、フォトンを強く打ち出すと場が揺れ、素粒子が物質として実現していくのだが、フォトンを強く打ち出すその仕方が感謝日記なのである。感謝日記は高エネルギーで強くフォトンを打ち出し続け、感謝で場を揺らしていくことである。日記に書く内容は次の二つだ。
- 感謝行:今日を振り返って「ありがたいなあ」と思うことを書く
- 自分ほめ:今日を振り返って「よくやったなあ」と思うことを書く
ここで感謝というのが出てくるのは、そのフォトンが高周波数で高エネルギーであるからだ。感謝やゾーン(リラックスした集中状態)、よろこびやワクワク感は周波数が高く、他方、怒り、悲しみ、不安は周波数が低い。意識の実現には高いエネルギーが必要だから、感謝を使うのがいいということである。
貴い波で場を揺らす
既述した感謝というのは他者に向けられたものであるが、もう一つの自分ほめはいわば、自分に向けられた感謝である。えてして人は、他者のことはよく見えるが自分のことは見るのが難しい。それに自分をほめるのはどこか照れくさい。しかし、だからといって自分を粗末にしないほうがいい。それは結局、自分と他者は同源であり、自分を貶すことは他者を貶すことだからだ。
同源というのはどういうことか。これを考えるために ZPF 仮説に戻りたい。素粒子が、そこから現れてはそこへ消えていくそれを ZPF と言うのだった。この ZPF というのは「私の ZPF」とか「あなたの ZPF」とか言うように、家の敷地のようにあるわけではない。そんな線はどこにも見られないし引かれていない。ただのっぺりと、ここかしこに、もっといえば宇宙全体に広がっているに過ぎない。そこにたちまち素粒子が発露して中心性をもつとエネルギーの模様ができて、なんとなく一つの形を成しているように見えるかもしれないけれど、そこにあるのは本当はエネルギーの濃淡だけである。私もあなたも、星も花も鼻くそも哀しささえもただの量子、素粒子であり、その源は同じ ZPF である。先に物質層、素粒子層、ZPF 層の話をした。その見方を採用するなら、自分を貶すこと、自分にネガティブなエネルギーをぶつけることは、深く ZPF 層を通して宇宙全体にネガティブエネルギーをぶつけることになる。
すべては ZPF の一部であり、ZPF はすべてを生み出す根源側である。このことを著者はロマンティックに語る。ZPF の奇跡的な働きを通して、私たちは生きているのだ、根源側の ZPF は愛であり、すべての生命の源である、と。そして、私たち一人ひとりの魂は ZPF の結果であり、ZPF に動かされているのだ、とも。
ZPF 層まで潜ってそこから世界を眺めるなら、世界には特別、私とかあなたの区別はない。相手やこの世界は、自分が発し、返ってきたところの波である。とはいえ、他者から波を受けたり、世の中の大きな波を受けることもある。しかし、受けた波に飲まれなくてはいけないこともない。自分がしっかりした波を発振しつづけていれば、周りの波の影響を受けずに済む。現象を動かそうとしてもだめだ。現象を動かしたいなら、変えたいなら、自分の素粒子を整え、ZPF 層に思いをぶつけた方がいい。自分発信ならぬ自分発振。その仕方こそ、自分ほめ、すなわち、自尊である。
といっても、自分をほめることに抵抗がある読者もいるかもしれない。そんな時に役に立つイメージは「宝箱」のラベルである。人は往々にして、自分に「ゴミ箱」のラベルを貼る。価値がない、役に立たないと自分を貶す、その意識は宇宙に波紋を広げていく。その様子を他者から見たらどうだろう。「ゴミ箱」と書いてあるのだ。汚いものを、たとえば悪口などを、放っていくに違いない。だってそう表示してあるのだから。
そんな扱いを受けるのが嫌で、むしろ愛されたいのなら、そうではなく「宝箱」のラベルを自分に貼った方がいい。それを見た他者はきっと大切にしたいものを、丁寧に納めていくに違いない。結局、相手と自分との関係は、自分と自分との関係である。自分が自分をどう思っているかである。望むなら、「宝箱」のラベルを貼ろう。そのラベルこそ自分ほめである。
感謝行と自分ほめ。それは貴い波で世界を揺らすことである。量子力学の仮定を受け入れれば、そのイメージが益々豊かに強くなる。この仮説が別に奇妙奇天烈でもいいじゃないか。この仮説を抜きにしても、現に多くの人が感謝日記で人生を好転させているみたいだから。