執筆記録
2026-AUG-23 見出しと書き出し部分の投稿:
夏目漱石『こころ』を読んでの考察です。主張したいことと、それを説明するための見出し構成はできたのですが、肝心の本文をこれから執筆していきます。ある程度の期間かかりそうだったので、先にできた部分だけ公開します。AUG23
名古屋は大須のスターバックスで夏目漱石の『こころ』を読んでいた。いまさら、と思われるかもしれない。教科書にも掲載されるくらいだから、本来常識となっているべき古典である。この常識をしっかり読んだことがなかったので腰を据えて読んでみようと思って読み始めたのだが、『こころ』の主人公である先生が罪の階段を上り遂には死に至る過程の、その心の機微にふれ、ページを繰りつつ度々ため息がこぼれた。周囲から見れば本を読みながらいちいちため息する男は少し変に思われたかもしれない。
どうにかならなかったのだろうか。
というのが読後の感想である。先生が死に往く過程は必然性を伴って、ほかには選択肢がなかったのだと思わせられるような緊張感に漂っていた。悲劇は避けられなかった、しかし、それは本当だろうか。
先生は、自らを慕っていた「私」に対して、真剣に学ぶつもりがあるのなら、自分の暗い過去を語りましょうといった。もちろん、私たち読者が先生の過去を知りえたのは不可抗力であって、「私」ほどには責任を負わなくてもいいとは思うが、しかし、考えたくなる。先生の悲劇を回避する方法がなにかなかったのかと。
もしその方法があるとすれば、それは愛によってであると私は考える。かつその愛は、恋とは同義でない意味範囲での愛である。先生がもし恋でない愛を発揮していれば、悲劇は回避できたと私は主張する。そして先生の悲劇を回避することは先生が望むところの境遇である。つまり、先生の過去は参考になるのである。
もちろん、先生から学んだところのこの主張を先生の過去自身に適用すれば、作品の本体であるところの悲劇が成立しなくなってしまうので作品自体が否定されてしまうだろう。しかしそれこそ、先生の望みではなかったか。
この主張がいったいどのようなものか、それを説明するために以降の文章をつづる。その説明は、だいたい次のような段取りを踏もうと思う。
まずこの作品の性格として、明治時代を生きた当時の日本人がはじめて love の西洋概念と邂逅するというのがある。特に『こころ』は、プラトンの『饗宴』の理解なしでは深く読むことができない。ここに、ある文化がほかの文化を包摂しようとするプロセスがある。したがって、日本人がそもそもどういう民族であったかというのを、『こころ』を理解するために必要な分だけ垣間見たのち、『饗宴』におけるエロースとの関連を見ていく。すなわち、プラトンは『饗宴』の中で、イデアにいたるための助力者としてエロースの神聖性を突き進めたのであるが、他方、漱石はエロースの罪性として『こころ』を展開したのである。こうして罪について述べたのちに、次はもう一つのカギ概念である「淋しさ」を見ていく。罪と淋しさこそ、先生を死に追いやったものである。最後に、これら罪と淋しさのカウンターパートとして愛を導入する。しかしこの愛は、上にも述べた通り、エロースのもとで恋と同一視された愛ではなく、それとはほかの意味の愛である。
ちなみに、これ以降の引用は特別の記載がなければ夏目漱石の『こころ』からとっている。
明治期の日本にはまだ神話が色濃く息づいていた
『こころ』という作品は、明治時代に生きた日本人の夏目漱石が、プラトンの『饗宴』と出会ったときに生じた火花であると、詩的にはとらえられるかもしれない。さらにいえば、私たち日本人の精神性(ours)と西洋文明(theirs)との出会いの場である。このことを理解するためには当然、ours と theirs を、彼我の両方を知らなくてはいけない。この章ではそのうちの ours の方を見ていく。それはすなわち、今日の私たちが当然視している個性が重んじられる前の、家の時代であり、それらはさらに皇室、ひいては神話と結びついていた。家、皇室、神話。これらは先生が「理に暗い」といっていた事柄である。
明治期に日本人は自由恋愛に結び付いた結婚を経験するようになる
明治という過渡期に日本人は自由恋愛に結び付いた結婚を経験するようになる。過渡期というのは「これまで」と「これから」という性質の違う二つの雰囲気が共存していることをいうが、『こころ』では「私」の実家と東京との違いに象徴されていて、「私」の気風がすでに実家のそれとは違うことが作中描写されていた。
儒者の家へ切支丹の臭を持ち込むように、私のもって帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、何時かそれが父や母の目に留まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
引用の最後に「早く東京へ帰りたくなった」とあるように、もはや「私」は「これから」に属する人間になっていたことがわかる。
しかし「これまで」と「これから」とが違うというのは、いったいどのように違うのだろう。もとより色々なことが変わっていったのだろうが、そのうちの一つが結婚観である。それは先生の発言から読み取れる。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外に、何の不愉快もなく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、又東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧めることでした・・・父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰う、両方とも理屈としては一通り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には能く解ります。
先生にとって憂鬱だったのは、まだ先と思っていた結婚を叔父夫婦が勧めてきた事だった。いまでこそ私たちは、ほかならない自分の意思と意中の人の意思とで結婚は決めるものだと思うかもしれない。しかしこれは、当時の常識ではない。叔父夫婦は当たり前のように、もっといえば世間に通用する良心として、若い先生に結婚を勧めていたのだ。
結婚は親や親戚が決めるもの。
これが明治における「これまで」である。ならば「これから」はどのようなものか。それはもうすでに明らかなように、私たちにとってなじみのある「好きな人と自由な意思で結婚する」という様式、すなわち自由恋愛結婚である。もしかすると先生こそ、自由恋愛結婚のはしりであると言っていいのかもしれない。
K の来た後は、もしかすると御嬢さんが K の方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず制するようになったのです。果して御嬢さんが私よりも K に心を傾けているならば、この恋は口へ云い出す価値のないものと私は決心していたのです。耻を搔かせられるのが辛いなどと云うのとは少し訳が違ます。此方でいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私達より余っ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事ができない位私は熟していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だったのです。
ここで先生は「愛の心理」として両想いの人と結婚することがより高尚なことだと述べているが、このことこそ先生が「これから」に属する人間であることの証左である。しかし、K を出し抜いていざ静と結婚しようという段になると先生は静にではなくその母親に結婚の許しを乞うているわけで、これはどちらかというと「これまで」の風習であった。このように親が決める結婚から自分が決める結婚への移行期を生きた人として、先生や「私」が描かれていくのである。
当時の日本は家の時代だった、そして家は皇室と結びついていた
前節で見たように、私たちと『こころ』の登場人物との間には、ある程度認識のギャップが存在する。結婚は親が決めるものだと言われたらきっと、今の人たちは受け入れられないだろう。こうした違いを踏まえて、この作品は読まなければならない。そしていまひとつ把握しておきたいギャップは、天皇の存在、すなわち、皇室とのかかわりである。
親が決める結婚というのはもしかすると全世界どの民族でも、ある程度見られたことなのかもしれない。しかし皇室の存在は日本人や日本文化を他と峻別する固有の性格である。その皇室の影響力が目に見える形で日本全国津々浦々に響いていたのが明治時代であった。このことは、明治天皇の御病気の報知が「私」の卒業祝いを中止させたことにも表れている。
その日取のまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇の御病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経て漸く纏まろうした私の卒業祝いを、塵の如くに吹き払った。「まあ御遠慮申した方が可かろう」眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこう云った。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下のことを憶い出したりした。
今日を生きる私たち日本人でも、「私」の家族がとった決断はきっと理解できるだろう。しかし当時の日本人と皇室との関係はもっと深く、密接であった。結局、御病気の後まもなく明治天皇は崩御されたのだが、日清戦争および日露戦争で指揮を執った乃木希典大将夫妻が天皇の後を追って殉死したのである。
乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。「大変だ大変だ」と云った。何事も知らない私達はこの突然な言葉に驚かされた。・・・その頃の新聞は実際田舎ものには日毎に待ち受けられるような記事ばかりであった。私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事が出来なかった。
乃木大将の殉死、この知らせを聞いた日本人の反応の、おそらく典型的なものの一つが、「私」の実父の言葉により表現されている。
乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐ御後から
お祝い事を中止するくらいならその心情は、日本人ならきっと理解できるだろうと先に書いたが、ここまでくるとどうだろうか。天皇の後を追いたいと思うこと、そして実際にそうした日本人がいたこと、「私も」と思うこと、そうした思いは今日の私達にも理解できるだろうか。理解はできるだろう。しかしそれは、私たちの肌感覚として、わが身に置き換えてそう思える、というのではなく、当時の日本人は、私たちの祖先は、そうだったに違いないという、ある程度距離を置いた理解の仕方ではないだろうか。その距離こそ、『こころ』を読む際に気を付けたいさらなるギャップなのであり、ours の性質を知るための重要な手がかりでもある。
さらにいえば、あとにも説明するように、明治天皇の崩御こそ先生の死を決定したものであって、それ以外に、死のうにも死ねなかった先生の背中を押すものはなかった。皇室の存在、それこそが『こころ』の小説構成の要を支えていること、ここに一言指摘しておく。
明治はまだ迷信の豊かな時代であった
明治時代、その社会の基本単位は個人というより家だったことがこれまでの考察で分かってくる。結婚というのは個人の恋愛感情でつながるものではなく、家と家との結合だった。その家をさかのぼっていくと皇室やひいては日本神話につながっていく、というのが当時の国家観なのであり、よく家族国家観と言われる。
「近代日本において、家族制度との比喩によって国家の来歴・特質を有機的に説明する言説。その原型は、幕末水戸学の中に見出し得るともいえるが、それは比喩的な天下一家論に過ぎなかった。天皇が父親、臣民が赤子というように、日本国民は天皇家を総本家とした一大家族を構成しているという立論となるのは、『教育勅語』の発布(1890)など、国家体制の形成と保守化に相即するといえる。たとえば、井上哲次郎『勅語衍義』(1891)の一節、「国君ノ臣民ニ於ケル、猶ホ父母ノ子孫ニ於ケル如シ。即チ、一国ハ一家ヲ拡充セルモノニシテ、一国ノ君主ノ臣民ニ指揮・命令スルハ、一家ノ父母ノ慈心ヲ以テ、子孫ヲ吩咐スルト、以テ相異ナルコトナシ」はその典型としてしばしば引用される。家族国家観は、祖霊信仰を後景においた〈祖孫一体〉と〈忠孝一本〉という2つのレトリックにより、本来相容れないものが結合されるのだが、とりわけ日露戦争以降、社会の矛盾を糊塗するため、過度に強調されてくる」(見城[2001:90],https://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_kazokukokka.html)
この記事でこの国家観の是非を論じるつもりはさらにない。ただ今を生きる私たちの過去にそういった思想潮流があって、そのことを踏まえないと『こころ』の中で先生がどういうことに頭を悩ましていたのか、ということが見えてこないのだ。しかしまた、この「これまで」の世界の見方が克服すべきものであるという雰囲気も過渡期としての明治時代にあって、それを先生は「理に暗い」という形で暗に指摘しているように見える。このことは、叔父に財産をごまかされ、人の悪の部分が見えてきた先生が、すでに亡くなった両親に思いをはせているシーンから読み取れる。
私の性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変わったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処か心の奥で信じていたのです。尤もその頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から譲られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
明治時代はまだ、西洋文明に染まる前の、理に暗い時代であったといえる。もちろんこの「理」というのが一体何であるのかを詳しく見ていかなければ、理に暗いことも、逆に理に明るいこともそれぞれ何を表しているのかということは定かではない。しかし差し当たっては、「これまで」の、まだ日本人たちが日本神話と強い結びつきをもっていた神話的暮らしを暗い方とし、「これから」明治期の日本人が受け入れていく西洋文明を理性的に明るいとしても差し支えないだろう。この明暗がコントラストをなしていたのが明治時代であった。
さてこのように『こころ』を生み出した時代背景を見た時、日本人が受け入れようとした「これから」、理に明るい方は、果たしてどのような内容を持っているのだろうか。
『こころ』の基調には『饗宴』のエロースがある
次には theirs の方を見ていく。すなわち、プラトン『饗宴』の主題であるエロースこそが『こころ』における恋に相当するのであり、文字通りプラトニックな恋を念頭におかないと『こころ』は本当の意味では読めないのである。というのも、先生の発言「恋は罪悪ですよ」「そして神聖なものです」という謎めいた言葉はエロースの両義性を踏まえてはじめて理解されるのである。また『饗宴』では少年に向かう教育的な恋(パイデラスティア)や、あるいは婦人へと向かう肉体的な恋の理由が語られるのであるが、これらはそれぞれ、先生から「私」へ向かう恋、そして、先生から静へ向かう愛の儚さへと対応していくのである。
恋は罪悪であり、かつ、恋は神聖である
(執筆中)
先生と「私」とは教育関係として恋しあった
(執筆中)
夫婦関係は死に対する人間の軽薄さをハイライトする
(執筆中)
愛がプラトン『饗宴』的な love のもとに恋の別名になった
(執筆中)
肉体⇒経済⇒嫉妬⇒罪悪
上述したようにプラトンはイデアへ導く助力者としてエロースを描き、恋の階段を描いたのだった。しかし、それでは片手落ちだろう。エロースが美しさと醜さの中間者、両義性をもつ者であるのならば、醜さの方も描かなければ完全でない。これを描いたのが漱石だと言える。愛の醜さは、先生においては嫉妬という形で現れる。ところで、どうして誰かを愛する人は嫉妬せざるを得ないのだろう。もとよりそれは、私たちが肉の存在だからであり、静はイデアではなく、分有するということができないからである。肉体があるところには希少性の調停、すなわち経済があり、あるいは希少性をめぐる争いがある。そこで先生と K は三角関係に陥った。そして先生は K を出し抜く形で友人を裏切るという醜態を晒す。先生の言う罪悪とは、結局のところ、人間の弱さや醜さであり、また恋が階段状をなしている以上は罪としての階段も上らざるを得なかったのである。
経済から生まれる嫉妬をプラトンは描かなかった
(執筆中)
欲求であるところの愛の裏面は嫉妬である
(執筆中)
肉の存在⇒経済性⇒取り合い
(執筆中)
罪悪は人間の弱さ、醜さを指す
(執筆中)
先生は罪の階段を上り切った
(執筆中)
人は究極的には分かり合えない淋しさの中に生きていて、それはしばしば死の契機となる
罪の階段を上って先生が死んだことは上述したとおりだが、さらにまたこの恋ということを別の角度から眺めてみたい。すなわち、恋は淋しさでもあるということだ。私たちはこれまで、先生を死に追いやった原因を恋の階段、すなわち、罪の階段に認めていたのだが、作中の先生の述懐によれば、K についても先生自身についても、死の原因は淋しさであった。この淋しさというのが、作中を貫くもう一つのキーワードになっている。たとえば、淋しい先生は、会いたいと思わずにはいられないところに「私」の淋しさを認めていたし、逆に先生は「私」を信じて裏切られ、いまよりも淋しくなりたくないと思っていた。ところで、前時代的な、親が決める結婚においてはそもそもこのような問題は発生しない。相互の気持ちに関係なく、人と人とは半強制的に結ばれていく。そこに、気持ちとか心という厄介な問題は表面化しない。しかし、自由恋愛に基づく結婚においてはそうではない。自分が相手のことを好きでいて、かつ、相手が自分のことを好きでいさえすれば結婚が成立するような関係に当時の日本人は憧れを抱いていたが、根本的な問題として「相手が自分のことを好き」ということについては確信がもてない。確信が持てないものについて人は、「信じる」という行為で賭けに出るしかないのだが、先生が賭けに出ることはなかった。
淋しさ⇒不自然な暴力⇒死
(執筆中)
信じる、というのは見て確かめることのできないところから生まれる賭けである
(執筆中)
女は男に比べて演技ができる
(執筆中)
静は先生の理解者であった
(執筆中)
二十億光年の孤独
(執筆中)
先生は心のきれいであることを願った
罪と淋しさによって先生は死の淵に立たされたわけだが、しかし、救いはなかったのか。罪が許されたり、淋しさを埋める何かは現れなかったのか。実際にはあった。先生は心のきれいさに救いを求めたのである。ただ叔父に騙され、そして、自分も友人を騙した先生は、そのきれいさを自分自身に求めることはできなかった。それゆえ、先生は自分の妻、静に純潔をもとめたのだった。それは太宰治の作品に出てくる感情によく似ている。先生は妻の浄福に癒しを、言い換えればカタルシスをもとめたのだが、皮肉なことにその潔癖症が相互理解を欠如させ、さらなる淋しさにつながっていくのだった。
叔父に財産をごまかされる前の、純な自分に戻りたいと先生は願った
(執筆中)
先生は女の浄福にカタルシスを求めようとした
(執筆中)
つりあう力は静止する、先生は罪と恥の間に静止した
ここまで先生をめぐる罪と淋しさを調べ、そこから脱しようともがく先生が救いとして求めた心のきれいさゆえに、かえってもっと淋しくなるという状況を見てきた。先生の心はこういった状況にすっかり絡めとられてしまったと考えていいだろう。先生の心は弾力性を失ってしまい、その内面は意思も作用もない塊となってしまった。作中そのように硬直してしまった先生の様子がたびたび描写される。柔軟さを失った心にとって、勇気を出して自分の罪や好意を告白するということは、難しかったのである。そういった難しさが、先生の悲劇を必然的なものと仕立てていったのである。
塊というのは内側が構造ではなく、よって、作用も意思もないことである
(執筆中)
先生は素直に生きること、つまり、罪を認めることと恥との間に板挟みになり、立ち竦んだ
(執筆中)
弱者に向かう愛は『こころ』を否定する
ここまで見てきたように、先生の悲劇は必然的であった。あの状況ではどうにもならなかった、そうとも見える。しかし、本当にそうだろうか。プラトニックな恋、淋しさ、心のきれいさと今まで語ってきたものの、その出発点で忘れ去られたことはなかったか。というのも、愛と恋は時に重なることもあるというだけで、もともと違うものだった。後者は基本的に求める者だが、前者は与える者でありうる。愛の意味範囲の内、恋と同義ではない部分、たとえば弱い者を守ろうとする愛であったり、赦しを与えようとする愛であったり、そういったものが発揮されていれば、先生も、あるいは K も死なずに済んだのではないかと思うのである。人間には貴いところもあれば愚かなところも当然ある。貴さに注目すれば悲劇になるし、愚かさに注目すれば喜劇になる。先生がどうにかなった世界線があるとすれば、それは愚かさを愛し、悲劇を喜劇に転換したところにあるだろう。もし私が先生から学ぶことがあるとすれば、恋ではない愛の発揮についてである。
愛とは本来、弱い者へ向かう情である
(執筆中)
恋でない愛は『こころ』を否定する
(執筆中)
愛燦燦、人は滑稽で可愛いものである
(執筆中)