恋でない愛は『こころ』を否定する

明治期の日本にはまだ神話が色濃く息づいていた

明治時代、日本人は自由恋愛に結び付いた結婚を経験するようになる。当時の日本は、個人よりも家を中心とした社会だった。そして家は皇室と結びついていた。皇室というのは、神話にまで遡ることのできる家、familyである。

一方で、明治は西洋的な近代にも出会った時代である。自由、個人、恋愛。ヘレニズムとヘブライズムを背景とする西洋の思想が、日本の古い世界観の中に入り込んでくる。

明治という時代には、古い世界と新しい世界とがまだ重なっていたのではないか。迷信や神話的な世界観と、理性によって世界を捉えようとする近代とが同時に生きていた。そのような時代に、「愛」という言葉もまた、西洋的なloveと出会うことになる。

『こころ』の基調には『饗宴』のエロースがある

プラトンの『饗宴』では、エロースは罪悪であると同時に神聖なものとして語られる。人間を自分自身の外へと向かわせ、何かを求めさせる力である。

セックスには死の匂いがすると茨木のり子は書いたが、夫婦関係もまた、死すべき存在としての人間のはかなさを浮かび上がらせる。人間は有限な肉体を持ち、有限な時間の中で誰かを愛する。

もし恋をパイデラスティア的な教育関係として見るなら、先生と「愛」の関係もまた恋であったと言えるかもしれない。

いずれにせよ、もともと日本にあった「愛」という言葉は、西洋的なloveの訳語として使われるなかで、次第に「恋」の意味を帯びていった。恋としての、すなわちエロースとしての「愛」を、日本人は、そして漱石は、どのように受け止めたのだろうか。

肉体⇒経済⇒嫉妬⇒罪悪

プラトンはエロースの神性を語った。しかし、それだけでは片手落ちではないか。恋には、もう一つの側面がある。恋はまず、罪悪にもなりうる。

人間の肉体は有限である。誰か一人に向けられる時間も、親密さも、有限である。そういう意味で、恋愛にはどうしても希少性という経済的な構造が入り込む。

そこでは必ず、とりあいが生じる。

漱石がこの方面に進む美を欲求するところの「愛」の裏面には、嫉妬がある。先生は激しく嫉妬した。もし静を共有することができたなら、そもそも悲劇は起こらなかっただろう。

しかし、人間は他人を完全に共有することができない。人間は肉体を持ち、有限な存在だからである。そこに人間の弱さ、醜さが現れる。その醜さこそ罪である。真善美の反対に偽悪醜があるのだとすれば、先生はまさに、その「醜さ」を恐れたのである。

先生は罪の階段を上ることによって、恋の階段を上った。先生は確かに罪の階段を上って死んだ。しかし、もう一つ先生を追い詰めたものがある。それは淋しさである。

自由恋愛は、愛する自由を与える一方で、愛する相手の心を自分のものにはできないという事実を際立たせる。

人は究極的には、分かり合えない淋しさの中に生きていて、その淋しさはしばしば死の契機となる

Kも先生も、淋しさのために死んだのである。

淋しさ⇒不自然な暴力⇒死。

人は人を完全に分かることはできない。必ずどこかで、信じなければならない。「信じる」というのは、見て確かめることのできないところから生まれる賭けである。

先生は静を愛していた。しかし、静を愛しているからといって、静の心の奥底まで知ることはできない。静もまた一人の人間だからである。相手を愛することと、相手を完全に知ることとは別のことである。

私たちはいつも孤独の引力のなかで、二十億光年の歴史の中に生きている。

そんな淋しさの中で、私たちは何をよるべにして生きていけばいいのだろう。

そのうちの一つは、おそらく浄福、清らかさである。もっと平易な言葉でいえば、「きれいさ」である。

先生は心のきれいであることを願った

先生は、叔父に財産をごまかされる前の、純な自分に戻りたいと願っていた。妻に対しても、一滴のインクすら許さず、女の浄福にカタルシスを求めようとしていた。

しかし、ここに先生の悲劇があるのではないか。

先生は、人間の弱さを許すことができなかった。

財産を欺いた叔父を許すことができない。Kに対しても、自分の中に生じた嫉妬を許すことができない。そして何より、自分自身の罪を許すことができない。

先生は、人間の心に「きれいさ」を要求した。自分にも、妻にも、他人にも。

しかし、人間は完全にきれいにはなれない。

罪を認めてきれいに生きようとする力と、罪を犯してしまった自分への恥との板挟みになって、先生は全く石化した。動きのとれない先生の最後の一歩を踏み出させたのは、明治天皇の死であった。

では、どうすればよかったのだろう。

罪を、淋しさを、心の硬直を、どうすれば乗り越えることができたのだろう。

それを学ぶことが、先生の救いだったのではないか。

ここで必要になるのが、恋ではない愛である。

恋とは、相手を求める愛である。相手を自分のものにしたいと思う愛である。それゆえに嫉妬が生まれ、所有したいという欲望が生まれ、やがて罪にもなる。

それに対して、愛とは、相手の弱さを許すことではないか。

それは暗い愛の復権である。

まだ愛がエロース的な恋の別名になる前の原義の愛であり、それは弱者に向かう愛である。人間の弱さを見ても、それをただちに醜いものとして裁かない愛である。

「人は可愛いものですね」と許すことである。

もし先生が、叔父の弱さを許すことができていたら。もしKの弱さを、自分自身の弱さを、許すことができていたら。Kも先生も死なずに済んだのではないか。

しかし、そうなれば『こころ』の悲劇は起こらない。

悲劇が起こらないということは、『こころ』という小説そのものの否定である。

ゆえに、恋でない愛は『こころ』を否定する。


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