人生を変えるものとしての言葉

言葉と人生の関係

図書館へ行くと本棚から本棚へと何気なく歩くことにしている。ふと目に留まった本を開いて、意識に飛び込んでくる言葉を掬い上げては本を棚に戻す。そんなことでふとやってくるインスピレーションもあるからだ。

言葉が図書館には溢れている。筆者の彼女は、そういう膨大な情報量を目の前にすると「ウッとする」と言っていたが、確かに、全部を受け止めようとすればそうなるかもしれない。

思えば何百何千の、いやその数ではとても足りないくらいの人生が目の前に広がっているのだ。

そう、言葉は人生なのだ。それは人生の処世訓としてそうあるばかりでなく、事実として、言葉は人生なのだ。

というのも、誰もが言葉によって世界を認識しているし、もっといえば、言葉によってしか世界を認識できないからだ。人は言葉の獲得とともに生きていることの自覚をも獲得する。聖書に「はじめに言葉ありき」と書いてあるのはそういう理由もあるのかもしれない。

今回のテーマは言葉が可能にしている世界の認識についてである。その仕組みを論理学者の野矢茂樹から学ぼう。

猫は後悔するか?

野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社学術文庫)の第一章にあるのが「猫は後悔するか」というテーマである。

人間はあれこれと後悔する。こんな連載、引き受けなければよかった、等々。では猫はどうか。いや、別に猫にかぎらない。人間以外の動物は、後悔をするのだろうか。猫が鳥に襲いかかる。逃げられる。でも、惜しかった。そのときその猫は、「もう少し忍び足で近づいてから飛びかかればよかったにゃ」などという日本語に翻訳できるような仕方で後悔するのだろうか。

野矢茂樹. 語りえぬものを語る (講談社学術文庫) .
講談社. Kindle 版.

野矢茂樹はこの疑問に対して、猫は後悔することができない、と結論付ける。その議論の出発点は、「後悔」というのが「事実に反する思い」を含んでいるということだった。後悔というのは確かに、したことに対して「そうするべきではなかった」とか、逆に、しなかったことに対して「ああするべきだった」と思うことだ。事実とは違うことを考えていること、それが文字通り「事実に反する思い」である。

もし猫が「事実に反する思い」をもてたなら後悔することもできるが、しかし、野矢は、猫は「事実に反する思い」をもてないと論証する。

その論証は初心者でも非常にわかりやすい説明でまったく無駄がない。もしここでその詳細の説明をしようとすれば、著者のやった説明を拙い形で繰り返してしまうことになってしまう。だから、今回は重要なキーワードを三つ抜き出して、それを図にして、概要を述べるにとどめておこう。キーワードは;

  • 可能性
  • 分節化された世界
  • 言葉

である。図は下記を参照のこと。

「可能性」というのはすでに述べた、事実とは反することを思い浮かべることだ。事実とは違う、もしかしたらあったかもしれないこと、まさに「可能性」という意味で考えればいい。

「分節化された世界」の説明は著者の例示をそのまま引用しよう。

例えば白い犬が走っているという事実を、われわれは、〈白い〉という性質と〈一匹のあの犬〉という対象と〈走っている〉という動作といった要素から構成されるものとして捉えている。こうした構成要素を取り出すことを「分節化」と言う。

この考え方は KJ 法を開発した川喜田二郎も同じく説いていることだ。

われわれの世界、そしてわれわれを取り巻く世界は、考えようによっては連続している。自然はどこにも切れ目はないと言えよう。その切れ目のない自然の中から、われわれは、何かを注目することによって、あえてひと区切りの物事を切りとり、取り出す。

川喜田二郎『 KJ 法 混沌をして語らしめる』(p. 242)

このように、私たちが何らかの事実を認識するとき、その事実は世界から切り出されたものである、ということが言えそうだ。

そして最後に言葉であるが、言葉あるいは言語は現物の代理としての機能を果たす。言葉は組み合わせを試すことができる。例えば、〈机の上にパソコンがある〉という文を〈パソコンの上に机がある〉と組み合わせを替えてみてもいい。それは、実際に、本当に目の前のパソコンの上に机をのっけなくても言葉の上で替えるのだ。この組み換えができる、ということが言葉の特徴である。

野矢はこれらのこと、すなわち、可能性が開けること、世界が分節化されていること、そして、言葉があることが厳密に同じものであることを証明する。詳細は、やはり、この本を読んでほしい。この記事では、これらの事柄が全く同じことであって、それぞれ違う角度から眺めていることに過ぎないということだけ了承してもらいたい。

可能性=分節化=言葉 であることを受け入れたなら、「猫は後悔するか」という疑問に立ち返ることができる。後悔するということは、可能性が開けている存在のみが可能なことだ。しかし、猫は言葉をもたず、ゆえに、可能性も開けていない。したがって猫は後悔することが論理的にできないのである。

可能性としての言葉の応用

このようにみていくと、人間というのは本質的に、言葉と無縁に生きられない、ということになる。

人間の本質が言葉であること。そのことを積極的に応用している技術がある。

一つは KJ 法だ。KJ 法ではラベルにデータを書き写す。細かい作業手順や重要な注意は色々あるが、端的に言って、「ラベルに書かれたデータをあれこれ配置したり表札というラベルを加えたりして世界を把握しようとする」ものだといって差し支えないだろう。世界を分節化して、組み合わせを試すということを、自覚的にかつ視覚化して行っている技術だと言えるかもしれない。

もう一つは バイロン・ケイティ著『ザ・ワーク ー 人生を変える4つの質問』 で提唱されているセッションだ。ケイティは自らの鬱から脱した体験を「4つの質問」と「置き換え」に集約して一つのワークにした。その内容がいかに示すものである。

バイロン・ケイティ; スティーヴン・ミッチェル.
ザ・ワーク――人生を変える4つの質問 (p.22).
ダイヤモンド社. Kindle 版.

ここで特徴的なのは、自分が苦しめられている考え、それを表現している文をいろいろに置き換えてみることである。これはまさに言葉による世界の分節化機能と、その組み合わせ方のチャレンジを応用しているといえるだろう。

いずれにせよ、私たちの人生はその本質が言葉であるから、その人生における問題の打開も言葉の使い方が大きな役割を果たしている。言葉はすなわち人生である。その言葉との向き合い方がそのまま人生の模様をも変えるのだ。

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