生きることを温かく見守ってくれた
広瀬伍良さんへ
前奏①:不吉な塊(かたまり)
東京の街は喧騒と競争と忙しさでいっぱいだ・・・。
こんな詩の一節が、新聞を読んでいても目に入る今日この頃である。東京にほんとうの空がなくなってからは、もはや季節も消えうせ、人間の個性さえ顔からうかがえなくなり、存在するものは昼と夜と、それに忙しさだけになっていくようである。
『計画の科学 どこでも使えるPERT・CPM』1
筆者の彼女がよく「生きることが辛い」と言う。それに対して「食えなくなることもなくて、エアコンの効いた部屋に寝れるのに、何がそんなに苦しいの?イージーじゃん」とか、私は返すのだ。
しかし、冒頭の一節を思い出して考え直してみた。やはり、生きることは辛く苦しいことなのかもしれない。衣食住が満たされるからと言って万事解決なのか。喧騒と競争と忙しさに追い立てられて、時間に追い立てられて、あくせく走って、なのに気持ちだけ空回りしてみんな疲れているのかもしれない。でなければ、年に 2 万人も自殺する「平和な国」2の説明がつかない。
えたいの知れない不吉な塊が
私の心を始終圧えつけていた3
いわばこの苦しみや辛さは、「えたいの知れない不吉な塊」なのだ。
この「不吉な塊」は、複雑怪奇な現代を生きる私たちに覆いかぶさる。便利さと引き換えに私たちは地球的にこんがらがった世界を生きているのかもしれない。服を着れば生産された中国とつながり、牛肉を食べれば米国やブラジルとつながる。頭の中でさえ、テレビや YouTube や X でめまいがしそうな情報量の中で生きている。しかも、それらの生きる条件が網目をなすように関係しあっていて、いわば、関係網4が私たちに覆いかぶさっているのだ。その様子は暗雲がすぐそこまで迫っているようでもある。
前奏②:『モモ』と時間の話
あるいは、その「不吉な塊」は、「灰色の男たち」なのかもしれない。何の話をしているかというと、ミヒャエル・エンデ著の『モモ』5の話だ。
『モモ』というお話は、タイトルを飾っている主人公のモモが、灰色の男たちから、奪われた時間を取り戻す物語だ。灰色の男たちは人々の「時間の花」を言葉巧みに奪い取り、「時間貯蓄銀行」に保存する。貯めた「時間の花」は葉巻にされ、灰色の男たちはそれを吸って生きながらえている。
しかし、「時間の花」は本来、その持ち主から離れると枯れてしまうものであって、それを無理やりに葉巻にするものだから、灰色の男たちは個性も生きる意味もなくなって、ただただ概念のように人々の意識の隙間に存在しているのである。いや、本当は存在なんかしていないのだが、人々はそのあいまいな、意味の分からない男たちに支配されてしまう。モモは、その灰色の男たちから時間の花を取り戻すのだ。
ところで、ここで話題に出てきた「時間の花」とはいったいなんだろうか。そもそも、時間って、一体なんだろうか。それを考えるために前回の記事で問いかけたのが、あのなぞなぞ6だ。
答えから簡潔に言うと、一番上のお兄ちゃんは「未来」であり、二番目は「過去」であり、そして、最後のおちびちゃんは「現在」だ。
現在がないと未来も過去もない。しかし現在が存在するのは、未来が過去になってくれるからなのだ。・・・現在を見つめようとするとき、どうしても現在なんて見えなくて、思いを馳せるのは未来か過去かになってしまう。そして、未来と過去と現在とが治めている国というのが、そう、時間なのだ。
筆者はこの考え方が大好きだ。物理の授業なんかで、時間を t という一文字で置いて直線でしか表現できないアイデアより、このなぞなぞのほうがどれだけ豊かだろう。
『モモ』によると私たちの人生は、すなわち時間は、花なのだ。未来と過去と現在を通して、その場かぎり一生懸命に咲く。不吉な塊にも、関係網にも、灰色の男たちにも、この花を摘ませてはならない。
考察:『夜と霧』と時間の花
そして、とてもとても長い前置きになってしまったが、今回の主題はヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』7である。というのは、彼が経験したホロコーストは「不吉な何か」みたいな甘いお話ではない。歴史に覆いかぶさった非人間性と暴力の事実関係である。
ホロコーストとは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがドイツ国内や占領地でユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺8のことで、強制収容所にはのべ 20 万人が収容された。フランクルは被収容者の一人だった。被収容者は財産と尊厳を奪われ、ただただ、裸の体と生存だけが残った。人間は極限状態では自己保存のためアパシー、つまり、感情喪失の状態になる。
しかし彼は心理学者として、身体的・精神的に極限の状態においても、人間のあり方を観察した。観察の結果わかったのは、人間には本質的にユーモア、すなわち、自己を客観的に見て楽しもうとする心の働きが備わっているということだ。
そして、もう一つ、選択の自由も残っている。与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。それは、身ぐるみ剥がれて(全身の毛すら剃られた)、極寒の地で薄着一枚で重労働し、罵られ、明日ガス室送りになるかもしれないという恐怖の中で生きていても・・・である。
人間の心身は極限状態であっても順応しようとするし、中には人間性を失わずに内面的に深まる人もいた。これが、選択という最後の自由があることの証左であるとフランクルは語る。
ヴィクトール・E・フランクルは私たちに教えてくれる。どんなに苦痛に満ちた事実が覆いかぶさってきても、私たちの命は生きようとするし、ユーモアと選択の自由は奪われることがない。そして選択という、最後の自由の土壌には人間性の花が咲くのだ。その花は四種類ある。つまり、愛の花、未来の花、義務の花、そして意味の花である。
愛の花
どんなに困難で くじけそうでも
信じることさ 必ず最後に愛は勝つ9
『夜と霧』を読む前は、筆者にとってこの歌詞は白けていた。そんなきれいごとを言っても腹の足しにもならないと、自分は現実的なのだと高をくくっていた。しかし、フランクルの経験に照らすと、愛は現実的に、生存に関わっていたらしい。
日の出前の凍てつく風の中、収容所から「工事現場」へと向かうフランクルは隣を歩いていた仲間のつぶやきを聞いた。
「ねえ、君、女房たちがおれたちのこのありさまを見たらどう思うだろうね・・・!女房たちの収容所暮らしはもっとましだといいんだが。おれたちがどんなことになっているか、知らないでいてくれることを願うよ」
『夜と霧』「内面への逃避」p. 59
そのとき、フランクルは妻の姿をまざまざと見た。その姿とは言うまでもなく、肉体的な目で見える姿(「現存」=ダーザイン)ではなく、心の中の姿(「本質」=ゾーザイン)だった。
わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄り、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を創造するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
『夜と霧』「もはやなにも残されていなくても」p. 60
フランクルにとって、妻のゾーザインはいつも彼の心の中にあった。実際に、強制労働と罵倒と殴打を耐え抜いたのは愛だったらしい。それは歌詞の世界だけでなく、究極的な苦痛の中でそうだったのだ。
この、心の中の愛の花は何者も摘めないのだ。
未来の花
心の中にあって誰からも奪われない花は、あるいは、未来である。人は未来を信じることができて初めて存在できる。心理学者のフランクルにとってそれは、「強制収容所の心理学」だった。
そこで、わたしはトリックを弄した。突然、わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの舞台に立っていた。わたしの前には座り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される・・・
『夜と霧』「教育者スピノザ」p. 124
この未来がいつ来るかは分からない。ホロコーストは無期限であり、いつ終わりが来るかは分からなかった。
フランクルはラテン語の「フィニス(finis)」という語を引き合いに出す(p. 118)。この言葉には二つの意味があり、「終わり」と「目的」だ。人は終わりや目的を見出してこそ存在できる。勇気を持てる。逆に、それができなかった人たちは収容所内で破綻した。その証拠に、クリスマスに多くの人が死んだのだ。クリスマスにはこの暮らしが終わっているだろうと、そういう未来を想い描いた人たちは、それがかなわなかったときに死んだのだ。
未来を描くこと、いわゆるシミュレーションすることも誰からも奪われない。別に誰かに説明して同意をもらうなんてことは必要ない。フランクルのように、心の中でそういうトリックを使えばいい。このトリックは誰にとっても、心の中で自由なことなのだ。
義務の花
今まで述べたような愛の花と未来の花は、別に『夜と霧』の中だけではなく、ほかの文学や詩や、あるいは自己啓発本で書かれていることかもしれない。むろん、フランクルが経験したほどの切実性とはかけ離れているが、アイデア自体は「前からあった」と思えるものだ。
しかし、これから述べる「生きる意味」についての考察は、『夜と霧』にユニークなのだと思う。少なくとも筆者は、ほかに聞いたことはない。その考察とはつまり、「生きる意味」についての質問の、発想を逆転することだ。
わたしたちは生きる意味を問うのではない。
生きることから問われているのだ。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。
『夜と霧』「生きる意味を問う」p. 129
そう、私たちは質問者ではなく回答者だったのだ。私たちは、今この文章を書いている私も、今まさにこの文章を読んでいる貴方も、一瞬一瞬で生きる意味を、人生から問われている。
その回答の仕方は、コピペが通用しない。それは各自がまったくオリジナルに、そして言葉によってではなく行為で答えなくてはいけない、とフランクルは語る。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
『夜と霧』「生きる意味を問う」p. 129
私たちはその問いに対し、それぞれ独自の仕方で、行為によって答えなければいけない。これはレスポンシビリティ(責任)であり義務である。私たちは生きることから問われている質問に、答える義務がある。そう考えることができる。
「義務があるだなんて嫌だ。私は気楽に生きたい」
と思う読者もいるかもしれない。かくいう筆者も自分に甘いので、その気持ちも分かるつもりだ。あるいは、「義務なんてまっぴらごめんだね」といって手で払うのが、その人の回答の仕方なのだろう。
ただ、義務=苦しいこと、というのは一面的な見方であって、必ずしもそうではないのだろう。私たちは『走れメロス』を知っている。メロスが心の中で想起したのは、義務遂行の希望であり、喜びであった。
歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
『走れメロス』10
このように、義務の花は、義務遂行の喜びは、人を生きさせる力になりうるのだ。
意味の花
人間性には愛や未来や、あるいは生きる意味に答える義務の花々が咲き誇っている。しかし、しかし、やはりそうはいっても苦しいものは苦しい。フランクルだってそうだった。人間性を保てた時間よりも、人間性を失って退廃していた時間の方が長かったのだと彼は告白している(p. 140)。あまりにも、苦しみが強烈すぎた。
ただ、その苦しみが結果的にフランクルやその他の人々の人間性を消し去ることができたか。否である。人間はその苦しみにすら意味を見出した。
苦しむことはなにかをなしとげること
フランクルは生きることから問われている意味に回答する。生きることが苦しみや死を包括しているのなら、そして生きることの一瞬一瞬に意味を問われているのなら、どうしたって苦しみや死はなんらかの意味を有している。歴史的な悲劇、人間性の愚かさが露呈したホロコーストについても、それが人生である限り、この原則はゆらがない。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだいう意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性があるのだ。
『夜と霧』「生きる意味を問う」p. 131
生きることが苦しい。そう思う人は少なくないのだろう。ホロコーストの苦しみと比べても仕方がないし、比べようもない。あるいは、現代日本が豊かなのだからといって自分を慰めても、やはりそれは比較であって、唯一一回の人生にとっては意味がない。
だから、この唯一性と一回性を有した者として、その苦しみを引き受けるしかない。あるいは、それを引き受け、その苦しみに意味をもとめることが尊いのかもしれない。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
フランクルはそう語る。
わたしたちが経験したことだけではなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実の中へと救い上げられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去の中で、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。
『夜と霧』「医師、魂を教導する」p. 138
フランクルは教えてくれる。
人生が、その全ての時間において、私たち一人一人をみつめ、生きる意味を問いかけている。
それは厳密に、酷なほどに原則に従ってそうなのだ。というのは、フランクルが収容所から解放された時ですら例外ではなかった、ということだ。解放された仲間たちが経験したのは強度の離人症だったし(p. 149)、収容所にいた人々はすべて、これまで苦しんだことを帳消しにする幸せはこの世にないことを知っていた。生は、苦しみは、続いていたのだ。
しかし、ここで改めて、生きる意味に立ち返る。どんな瞬間であれ、それは解放後でさえ、人は生きる意味を人生から問われる。なぜ生きているか?それの答えを私たちは、一人一人独自な存在として、全人生で提出し続けるのだ。
終曲:個性の匂い
もし読者が生きる意味に迷うほど苦しむことがあったなら、『夜と霧』の話を、あるいは『モモ』を思い出してほしい。そしてこの物語を思い出しやすくするために、人生から問われる生きる意味を、あのなぞなぞで整理してみよう。
一番目のお兄ちゃんは問いかける。まだ起きていない、これからのことで、何かやりたいことはないのか、と。これからのことは誰からも奪われないし、幸いなことにあらゆることが未定であるから自由に思い描ける。君は何を想い描くのか。
二番目のお兄ちゃんも語り掛けてくる。苦しむこと、苦しんできたことそれ自体が、もうすでに立派なことなのだ。その苦しんできたことには必ず意味があるのだが、それは一体どのようなことだっただろう。その意味は永遠に保存される。経験も、誰からも奪われない。安心しよう。
そしておちびちゃんも最後に尋ねてくる。今君は、人生から、時間から何を問われているのだ、と。今この瞬間にも君は愛する人からまなざしを向けられているのだ。その問いに、あるいは、まなざしに、君はどう答えるのか。
時間のすべてに問いかけられて私たちの人生は意味を形成し、花々は咲く。その咲き方はまったく独自で、唯一性と一回性の匂いがする。その花はその都度その都度、今まで見たことがなく、そうでありながら、それこそ今までで一番きれいだと思える花なのだ。
見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。
『モモ』「モモ、時間の国につく」p. 242
確かに生きることは苦しいのかもしれない。しかし、まさにそのことに意味を求めて生きようじゃないか。野に花が咲くように、一生懸命に。
- 加藤昭吉『計画の科学 どこでも使えるPERT・CPM』2013, 講談社
PERTではネットワークと呼ばれる図を描き、工程全体の最重要経路を導き出す。その経路をクリティカルパスと言う。 ↩︎ - 警察庁WebサイトのPDF『令和5年中における自殺の状況』 ↩︎
- 梶井基次郎『檸檬』の冒頭。青空文庫で無料で読めるのでおすすめ。また、本サイトでも考察済み。 ↩︎
- 脚注 1 の『計画の科学 どこでも使えるPERT・CPM』の p. 16 に関係網という語が出てくる。すぐ下に出てくる絵も同著から引用。 ↩︎
- ミヒャエル・エンデ 著, 大島かおり 訳『モモ』2005, 岩波書店
副題は「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」 ↩︎ - 脚注 5『モモ』の p. 227 ↩︎
- ヴィクトール・E・フランクル 著, 池田香代子 訳 『夜と霧 新版』2002, みすず書房
霜山徳爾 訳の旧版が著名。この記事では出所の記載で旧版と新版を区別せず、単に『夜と霧』とする。 ↩︎ - Wikipedia 「ホロコースト」2024 年 8 月 5 日現在検索のもの。 ↩︎
- KAN 『愛は勝つ』 ↩︎
- 太宰治『走れメロス』青空文庫 ↩︎