晩酌のハイボールに小さな泡がプツプツと消えていくのを見ながら「そういえば、昨日の飲み会は楽しかったなあ」と思い返していた。前々職で一緒に働いていた、すこぶる頭はいいのに口の悪い後輩(後輩と呼ばせてもらうぞ)がセッティングしてくれて、元チームメンバー( F さん、S さん、後輩、筆者)で、ああでもないこうでもないと話をしたのだ。
聞くと、F さんと S さんが転職をするという。まあ無理もないよなあ、と思い聞いていた。日本のシステムエンジニアと言う、人月商売でシャカリキに働かされる職場だ。筆者は耐えられなくて、早々に逃げるように辞めた。二人とも才色兼備といった感じの人でチームの中心メンバーだったから重宝されたのだろう。重宝されて、吹っ掛けられた無理難題たちを捌いてきたにちがいない。
ともあれ、一つの会社を辞めて紆余曲折の道を行くそうだ・・・
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とまあ、こんな風に「そういえば」と思いを馳せることが、しばしばある。というより、そんなことばかりなのかもしれない。あるものを見てまったく別のものを想い起すこと。例えば、ハイボールの泡をみて冒頭の会話を想い起す、とか(その時に飲んだスパークリングワインがきっかけになったのかもしれない)。あるいは、TVに映ったハムスターを見て彼女のことを思い出すとか(彼女はデグーと言うペットを飼っている。厳密にはハムスターではないらしいが)。
こういった種類の思考が、文学的により美しい形で表現された作品を私たちは知っている。それは、サンテグジュペリの『星の王子さま』だ。作品に登場するキツネは王子さまに語り掛ける。
それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる・・・
『星の王子さま』1
ここでは( 小麦 → 王子さま )の想起が見られる。今までの話もこの形式で表現するなら:
( ハイボール → 転職話 )
( ハムスター → 彼女 )
となるだろうか。本来、互いに関係のない者同士が、類似やバックグラウンド、あるいは「そういえば」といった偶然のつながりを契機に、連想的に接続されていることに注目したい。
連想的な結合、あるいは、偶然の一致やひらめきを契機としたアイデアの生成が今回のテーマである。そして、もしそれが仕事や稼ぎにつながると聞いたら驚くだろうか。
「えっ、ひつじさんって稼ぎありましたっけ?ひつじさんが言っても全然説得力ないですよ」
と、口の悪い人は言うかもしれない。ええ、確かにそうですね・・・汗
といっても、何かイワクつきの壺を買ってもらおうとしているわけでもなく、何日もかけてなんだか怪しいイベントに付き合ってと言っているわけでもない。筆者としては「ぜひとも推したいテクノロジーがあるから一度試してみませんか」という、ささやかな提案がしたいだけだ。
連想的な接続を意図的に扱う技術について、お伝えしてもいいだろうか?
付き合ってくれる読者はつづきを読んでいただきたい。そのテクノロジーは、大きく2つある。両方とも日本人が開発したもので:
- 和歌
- フューチャーマッピング
である。
「しゃれにもならぬつまらぬ歌」
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
(花の美しさはむなしく色あせてしまいました。
私がうかうかと物思いにふけっている間に、長雨が降って)
腹の足しになるかどうか、ということはまず置いておいて、連想的な接続を意図的に活用しているものの一つに、1000年以上の伝統をもつ和歌(短歌)がある。
和歌と言うのは不思議な文学だ。「たらちねの」とか「ひさかたの」といった枕詞、すなわちレトリックがある。31音しか使えないのに、ご丁寧にそのうちの 5 音を意味不明の言葉で消費する。その意図とはいったい何なのか、といったことを考察するのが渡部泰明『和歌とは何か』2である。詳細は下記記事を参照されたい。
「花の色は」のこの歌は掛詞(かけことば)の説明で例示されている。ここで掛詞の役割を担っているのは四句の「ふる」と結句「ながめ」だ。掛詞は「一つの言葉が二重の意味で用いられているもの」であって「ふる」は(降る/〈時間などが〉経る)、「ながめ」は(長雨/眺め)のダブルミーニングになっている。
言ってみればダジャレである。「降る」と「経る」、「長雨」と「眺め」。古典日本語で音がたまたま同じだから成立している。そういう「くだらない」歌を、明治時代に短歌革新運動を起こした正岡子規は酷評した。当時、短歌と言えばこれがバイブルだと言われていた古今和歌集を子規は罵倒する。
「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」3
短歌と言うのは感情を述べるものであって写実である。リクツではないのだ。音の偶然の一致という、言葉遊びなんてくだらない・・・と子規は思ったのだろう。
筆者は高校生の時、『坂の上の雲』を読んで正岡子規や秋山兄弟の薫陶を受けていたから、すなおに短歌は写実なのかと思っていたし、古今和歌集はくだらないという先入観を持っていた。しかし、渡部泰明の説明を読んでいると、一概にそうであるというわけではないらしい。むしろ、昔ながらの和歌は世界のある一面を写し取る。その一面とは、世界の偶然性である。
掛詞は、偶然性の上に成り立っている。「眺め」と「長雨」、「松」と「待つ」などが同音なのは、たんなる偶然にすぎない。・・・中略・・・掛詞のリアリティは、言葉の持つ意味に依拠しているというより、言葉が存在していることそのものの重みによっている、と私は思う。風景とわが身が偶然に出会う。それは一つの事件である。その事件が存在した思みを、言葉の出会いの中に置き換えようとするのが掛詞なのであろう。
『和歌とは何か』
世界は偶然の連続である。たまたま教師だった人間がエンジニアをやるようになった。たまたま面白いメンバーに恵まれた。たまたま飲みに誘われた・・・もちろん、自分自身の、なんというか「自由意志」で自ら決める一面もあるにはあるが、「たまたまそうだった」という偶然性、偶有性がまったくないわけではない。
和歌の掛詞というテクノロジーは、世界の偶然性を言葉の偶然性に写し取る。それによって和歌らしさが醸し出されるし、その技術によって悠久の歴史が紡がれたのかもしれない。
国際的マーケッターの思考ツール
和歌の掛詞は、言葉の偶然性を用いて、31音という制限の中でリアリティを生み出すテクノロジーであった。しかし、歌を詠んでも生計が立つわけでもなく、キャッシュフローがよくなるわけでもない。
他方で、これから紹介するフューチャーマッピング4という手法は、もしかしたら仕事に、とくに企画やマーケティングで役に立つかもしれない。
この手法を開発したのは、国際的なマーケッターである神田昌典だ。神田氏は、日本にダイレクト・マーケティングの手法を導入して以来四半世紀、経営コンサルタントとして 2 万人以上の経営者を指導してきた。2018年にはマーケティングの国際的権威 Echo 賞の審査員にも選出されている。また、今ではビジネス現場でも当たり前に使われているマインドマップを日本で普及させたのも彼の業績だ。
ダイレクト・マーケティングにせよ、マインドマップにせよ、確かにその技術自体はアメリカから輸入されたものである。そういう意味では「新しい場所に古いアイデアをもってきた5」だけだと控えめに評価することもできる。もちろん、どこからもってこようが、日本経済に多大な貢献をしたことには変わらないが。
しかし、これから紹介するフューチャーマッピングは神田昌典のオリジナルである。日本人から画期的な思考ツールが生まれたのだ。フューチャーマッピングは、国際的なマーケッターが経験してきたプロモーション企画やセールスコピーから、有効だったものに共通するルールを抽出したフレームワークであり、思考法であるらしい。
では、それは一体どのような方法論なのだろうか。
フューチャーマッピング
百聞は一見にしかず。見せた方が早いだろう。というのも、実はこの記事もフューチャーマッピングで書いたものなのだ。それをお見せしたい。
フューチャーマッピングではまず、他者の幸せに思いを馳せることから出発する。この記事を考えた時に、筆者が想い描いた人は、既述のチームで一緒に働いていたベテランの I さんだ。ろくでなしの筆者を一番気にかけてくれた、面倒見のいい、スケベなエンジニアである(余談だが、F さんは I さんのセクハラに辟易していたらしい。飲み会の時に卑猥なことを言っていたらしく、あとで「大丈夫だった?」と聞いたら「ギリギリアウトでした」とのことだった。アウトらしいですよ、I さん)。
閑話休題。フューチャーマッピングでは想い描いた他者が 120% ハッピーになるゴールを想い描く。今回筆者は、I さんに孫ができて、息子さんのことを頼もしく感じて感動する・・・といったような姿を想い描いてみた。事実であるかどうかは関係ない。あくまで、筆者のなかのイメージだ。
次に、六マスのチャートを簡単に書き、右上の頂点から左下の頂点めがけて、気軽に曲線を引いてみる。固定観念が邪魔しないように、利き手とは逆の手で、そして手に任せるようにリラックスして曲線を引く。
この 曲線 こそ、世界の偶有性を写し取る、もう一つの手段となる。人生はどうしたって、直線的にはいかない。紆余曲折になって当然である。その当然さとすなおに相対して、偶有性を曲線でトレースする。
曲線が上昇する箇所はより満足できる方向へ、そして下降する箇所はより頑張れる方向へ物事が進んでいると考えてみる。すると、線がまさに曲がるところにアイデアが浮かんでくる。
そのアイデア同士を紡いで、曲線の下にストーリーを綴っていく。そのストーリーとはもちろん、I さんが物語のヒーローになって、ますますハッピーになっていくストーリーである。
アナロジーの力
しかし、ここで終わっては、当初の目的が達成されていない。すなわち、このブログ記事の構成を描くこと。それがまだだ。
ただ、この後のステップも非常に楽しいもので、童心に帰ってお絵描きをしているような気分になる。というのも、I さんがハッピーになるストーリーからアナロジーを使って解釈する、というのが次のステップなのだ。
たとえば、筆者は I さんがハッピーになるストーリーの〈はじめ〉の部分において、I さんがビールを飲んでいる姿をイメージしていた。これは、ブログ記事においては何を示唆しているだろう。
ここでアナロジーだ。ビールと言えば、麦。麦と言えば・・・ということで、『星の王子さま』が筆者の心に浮かんできた。このアイデアが浮かんでくるとあとはスラスラとシナリオが展開されてくる。『星の王子さま』の麦の話と言えば、キツネの語りだ。それは、まさしくアナロジーの話だったじゃないか!
さらに神田昌典は、ストーリーからシナリオへの解釈、すなわちアナロジーの方策に細かいヒントを提供してくれている。それは PRAISE と呼ばれるものだ。
- Play 言葉遊びをしてみる
- Reveal イメージ自らに解釈させる
- As is そのものズバリを考える
- First Impression 第一印象からつなげる
- Search 調査・検索する
- First Experiment 原初体験を考える
Play 「言葉遊びをしてみる」というのは、まさに和歌の掛詞のようなものだろう。偶然の音の一致を頼りにして、まさに遊んでみるのだ。
Reveal 「イメージ自らに解釈させる」というのは難しく感じるかもしれないが、別にそうでもない。平たく言うと、「しばらく放置する」ということだ。じっと見つめた鍋は煮えない、と『思考の整理学』の外山滋比古も言っていた。寝かせておくとアイデアは発酵する。
記事冒頭の転職話は Experiment つまり、飲み会と言う体験がアナロジーのカギになっていると解せるだろう。「原初」ではないが、一つ一つの体験、バックグラウンドも発想法として活用できる。
フューチャーマッピングでは、誰かを幸せにするストーリーを描き、そこからアナロジーを発揮してアイデアを生み出す。そのアイデアはもうそれ自体が富であると、神田氏は言う。
富とは、努力や労働時間が創り出すものではなく、ストーリーを描き出した瞬間に、出現するものである。
『神話のマネジメント』6
フューチャーマッピングの描き方については、最近YouTubeでもアップされたのでそれをご視聴いただきたい。
アイデアとイデア
フューチャーマッピングの段で説明したような経済的な成果だけでなく、哲学的な成果もストーリーとアナロジーが関与しているのかもしれない。というのも、ソクラテスのキー概念であるイデアは、アナロジーによって証明されたものだったから。
ソクラテスは語る。私たちは何かを見たり、聞いたり、あるいは別の感覚でとらえるとき、同時にほかのものを思い浮かべる。それを想起というだろう。
恋する人々は、かれらの愛する少年たちがいつも使っている竪琴とか、上衣とか、なにかそんなものを見ると、今僕が述べたこと経験するということは、君も知っているね。かれらは竪琴を認めると、その竪琴の持ち主であった少年の姿形を心に思い浮かべる。これが想起なのだ。
『パイドン』7
この想起はまさしく、『星の王子さま』の想起と同じだ。これをきっかけに、ソクラテスたちは形而上の梯子を上っていき、ついに永遠にて完全な実体であるイデアにたどり着く。イデアは天上の世界に位置を占めていて、同じく永遠で完全な神々と住まっているのだが、この話をしだすと別の主題を立てなければならない。読者としてはアイデアの遠景にギリシャ哲学があるのだと念頭に置いてもらえればいいだろう。
天上の物語
例の、聡明で辛口な後輩は気配りができる男で、ある日職場に星ひとみの占いの本を持ってきたことがあった。休憩中に、わいわいと盛り上がったものだ。「え、僕の星は何なの?」とか「おっ、あたってるじゃん」とか、そんな話に花を咲かせた。
占いだなんて当たるも八卦当たらぬも八卦、まじめになるものじゃないと思う読者もいるだろう。そういう筆者も、どちらかといえばその立場だった。しかし、見てしまうと気になるのが人の心と言うもので、だからこそ、そういう占いを見ないようにしていたくらいだ。
しかし、和歌とか、フューチャーマッピングという世界を知って考えが変容してきた。これらの技術は、偶有性を写し取り、解釈し、味わうものなのだ。そもそも生きることが計画のあてにならない、ギャンブルのようなものである。直感や偶然やでたらめや、あるいはひらめきが生き生きとしている世界である。その世界に相対して、真面目一辺倒じゃ辛くなる。
むろん、「真面目」な分析や吟味やロジックを手放せ、ということではない。それらの有効性は健在だ。そうではなくて、むしろ、それだけでは語りつくせないほどに世界が豊かだと言った方がいいのだろう。
思えば、星占いというのは、古代にバビロニア人たちが行った天体観測を、ギリシア人たちが神話と結びつけたものが発端らしい8。星の運行に神々を重ね、さらに天上の物語を地上にトレースしたものが占星術なのかもしれない・・・といえば、少々ロマンチックが過ぎるだろうか。しかし、妄信的になるのは危うくとも、アイデアの創出のためにツールとして使う分には、面白いと思うのだ。
All the world’s a stage.
ストーリーを描いて、そこからアイデアを生み出す。その考えをさらに推し進めて、人生そのものを一種のストーリーだと考えてみてはどうだろうか。それは例えば、シェイクスピアが演者に言わせたように。
All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts,
As You Like It
世界がすべてステージなのだ、そして、すべての人が演者である・・・とシェイクスピアは綴った。筆者はこの考え方が好きだ。私の人生を生きる主人公は、ヒーローは、ほかならない自分自身だ。ほかの人や出来事は、所詮すべて舞台装置とか主人公を引き立てる脇役に過ぎない。悲しいことも、痛い目に遭うことも、ハッピーエンドで掬われるための伏線なのだと考えてみる。そうすると紆余曲折が楽しまれる。
「うわー、なんて自信満々な、自己中心な考え方なの?自分以外はどうでもいいの?」
と思われるかもしれない。しかしそうではない。よく考えてほしい。私の人生の主人公は私であり、あなたの人生の主人公はあなたしかいない、というのは至極当然じゃないか。その当たり前を少し強調しているだけで、一人一人が「自分こそ主人公だ」と意識すれば、この世界のどの人生を採ってみても「見捨てられた人生」はいなくなる。一人一人が一つ一つを面倒見ているのだから。
さらに、人生で壁にぶち当たったときに、あえて他者の生きざまを考えることで局面を打開するアイデアも得られるのだ。他者のストーリーを描き、そこからアナロジーを得る。脚本のヒントもそこら中に広がっている・・・
なんだか書いていて、若干説教じみた匂いがしてきたと感じている。この辺でやめておこう。酔っぱらいながら語るとやっぱりよくないらしいから。
ともあれ最後に一言だけ。
曲線をゆく読者へ、この記事がいくらかでもエールになればと願って。
- サン=テグジュペリ 著, 河野真理子 訳『星の王子さま』 ↩︎
- 渡部泰明『和歌とは何か』(2009, 岩波新書) ↩︎
- 司馬遼太郎『坂の上の雲 (二)』p. 303(1999, 文春文庫) ↩︎
- 神田昌典『ストーリー思考 「フューチャーマッピング」で隠れた才能が目覚める』(2014, ダイヤモンド社) ↩︎
- デイル・ドーテン 著, 野津 智子 訳『仕事は楽しいかね?』(2001, きこ書房) ↩︎
- 神田昌典『神話のマネジメント』(2014, フォレスト出版) ↩︎
- プラトン 著, 岩田靖夫 訳『パイドン』(2018, 岩波文庫) ↩︎
- Arielle Guttman, Kenneth Johnson, Mythic Astrology (2016, Sophia Venus Productions LLC) ↩︎
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