渡部泰明『和歌とは何か』を読む①~和歌的レトリックは思いの先を行く~

数学でわからない問題があったときに、友達に聞くとすうっと線を一本引いてくれて、難しかった問題がするすると解けていく様子を見たことがある。答えを示すでもなく、ヒントという優しい形で教えてくれた人がいた。

今回、目指そうとするのは、そういった補助線である。渡部泰明の『和歌とは何か』は特別難しいというわけではないけれど、注意深く筋を追わないと迷ってしまうような印象があった。だから、下のような補助線としての図形を本書に添えて、和歌に対する違和感を小さくしていきたい。

和歌的なレトリックの中心選手は掛詞である。それは渡部が「掛詞こそ和歌のレトリックの中心となるものだから」(p. 59)と述べていることからもわかる。一つの言葉が二重の意味で用いられているものと簡単に定義されて、広義の掛詞と狭義の掛詞が登場する。

渡部の解説は、「呪文を装う言葉」としての枕詞および序詞から出発し、中心となる掛詞を通って、さらに、掛詞の発展形である縁語、本歌取りと進んでいく。

枕詞は呪文を装う

枕詞は、主として五音で、実質的な意味はなく、常に特定の語を修飾する。実質的な意味はない、というのが不思議なのだけど、しかし、枕詞は、概念的な意味ではなく、どちらかというと作用というか、音楽的な効果として働くらしい。本書では枕詞があるいくつかの和歌を引き合いに、仮に枕詞を除外したらどうなるか、という実験をしている。筆者もやってみたが、やはり、枕詞がないと和歌らしい心地よい響きが感じられないのだ。

(除外した枕詞を戻して読むと)五・七・五・七・七という音調が完成するのは当然だが、その上で、とくに五音・七音というまとまりがワンセットとなって山場を生み出す感じがつかめるだろうか。そして、枕詞の次に来る七音句が強調され、ぐっとせり出して来るように感じるられるだろう(p. 26, 括弧は筆者がつけたもの)

実際に、一つ、歌を読んでみよう。できれば声に出してみてほしい。

ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ

「日の光ものどかな春の日なのに、どうしてあわてて桜は散るのか」と詠まれたこの一首。ここで「ひさかたの」が枕詞であるようだ。「ひさかたの光のどけき」で山場があるイメージ、筆者は感じることができた。

この「分かった」は体験であって、ある意味、論理的ではないのかもしれない。「俺には分からない」と言われたら話が進まない性質のものであるが、渡部自身、この著作が一種の仮説であると断っている。和歌という新しい世界に親しんでみようというスタンスであれば、このまま読み進めてみよう。

この山場でリズムが生まれるのだと考えれば、和歌は一つの音楽だ、ということが言える。枕詞が五音である理由は、つづく七音とともに韻律の単位をつくるためである。和歌はsongとしての性格をもってるのだ。

また、枕詞には実質的な意味がないということだが、それは、枕詞が文脈から孤立しているということだと渡部は指摘している。文脈から孤立して、異質な存在としてあり続けるからこそ、文脈から意味が推測できないのだ。

意味から孤立して音楽の一韻律でありつづける枕詞は特定の言葉を修飾する。その言葉は被枕と呼ばれるそうだが、この被枕は、先ほど実際に体験したように、うやうやしく前面に押し出されて和歌の世界に登場する。被枕は神や地名、光、夜といった畏怖や尊敬の対象になる言葉が多いそうだ。

実質的な意味はもたず、ただ、被枕を登場させるためだけに使われる枕詞は、その、畏怖や尊敬の対象を呼び寄せるという性質から本書では呪文を装う言葉だ、とされているのだ。

序詞は懐かしさを醸し出す?

序詞は、自然物や風景を描写するひとまとまりの語句で、和歌の作者の本当に訴えたい部分、主想部とは直接にかかわらないという性質をもっている。

時鳥鳴くや五月のあやめ草
あやめも知らぬ恋もするかな

「ホトトギス、鳴くのは五月、五月はあやめ〔菖蒲〕、あやめ〔条理〕もわからぬ恋をした」という意味なのだが、主想部となるのは「条理もわからない恋をした」ということで、上句はただの迂回のようにも感じられる。

しかし、この余計に思える情景描写こそ、序詞の味であるらしい。「景物心情」と呼ばれるもので、主想部に個性的な風景のイメージがかぶせられることで、心情に個性的な色彩が加わっていく。

さらに、メインの訴えとは何ら関係のない、いわばただの偶然の産物と思われた序詞は、三十一文字という制限の中で終末が定められることにより、「ああそうなることが必然だったのだ」と思わせるような運命を感じさせる。そうした言葉の技法が、定型詩の性質とあいまって、迫真性を生んでいくのだ。

ただ、筆者は、渡部の言う「懐かしさを醸しだす」ということがいまいちよく分からなかった。たしかに序詞は情景を描き出すもので、懐かしさを感じる余地はあるのだが、必ず懐かしさを生み出す表現なのだというところのロジックが十分に追えなかった。ここは今後、和歌というものに取り組むときの、いつかは解く宿題にしておきたい。

掛詞は偶然を写し取る

掛詞は一語が二重の意味になっているものである。いわゆるダブルミーニングとか、あるいは駄洒落と言われるものだ。ただ、一語が二重の意味になっているだけのものは広義の掛詞であると説明され、狭義の掛詞としてはさらに、文脈も二重になっているもの、という条件が加わる。

なお、掛詞のレトリックは序詞を一つの発生基盤として『古今和歌集』で成長、確立したものらしく、それ以降、冒頭でも述べたように和歌的レトリックの中心的存在でありつづけた。今回上げた五つのレトリックすべてにかかわってくる、主要な技法である。

風吹けば波うつ岸の松なれや
ねにあらわれて泣きぬべらなり

「風が吹くと波が打ち寄せる岸の松だとでもいうのでしょうか、根が洗われ、声に出して泣いてしまいそうです」という意味。「ねにあらわれて」というのが、(根に洗われて、音に表れて)を掛けており、風景を描く文脈と、心情を述べる文脈に分離されている。ここで(根・音)や(表れる・表れる)という語句は偶然言葉上で一致しただけなのだが、その偶然性こそ大事であると渡部は語る。

掛詞のリアリティは、言葉の持つ意味に依拠しているというより、言葉が存在していることそのものの重みによっている、と私は思う。風景とわが身が偶然に出会う。それは一つの事件である。その事件が存在した重みを、言葉の出会いの中に置き換えようとするのが掛詞なのであろう。(p. 75)

この言葉に筆者は驚かされた。言葉で置き換えようとするものはただ単に意味や概念だけではなく、偶然性をも対象とするのだ。「なんだただの駄洒落じゃないか」と思ってきた筆者だからこそ、言葉の表現の可能性がそんなところに転がっていることは知らなかったし、その可能性が和歌にあったのだということに、驚いたのである。

どうやら和歌のレトリックはただの技巧に収まらないのかもしれない。自分の思い、言葉の選択の限界を押し広げ、違う世界を見せてくれるものなのではないか。思いを伝えるために言葉を使用するのではなく、言葉を使用したからこそ「ああこんな思いもあったのか」と気づかせてくれるようなマジックが、偶然性を写し取るテクニックに潜在しているのかもしれないのである。

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考察は②につづきます。

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