渡部泰明『和歌とは何か』を読む②~和歌的レトリックは文脈を穿つ~

考察①の続きです。

縁語は現在性を浮かび上がらせる

和歌的レトリックの系譜は、中心選手である掛詞から縁語へと移る。縁語は定義が難しく、和歌研究者の中でも具体例を使って説明しようとすると人によって違いが出てきてしまうらしい。それでも、典型的な例に限定して定義するなら、ということで渡部は縁語を①広義の掛詞であり、②文脈を超越するレトリックである、と定義している。

秋霧のともに立ち出でて別れなば
晴れぬ思ひに恋やわたらむ

「秋霧が立つのと一緒にあなたが旅立ち、お別れしたならば、心晴れない思いで恋慕いつづけることになるのでしょうか」という意味。ここでは「霧」と「晴れぬ」が縁語になっている。霧は晴れないものだからだ。

「晴れぬ」が意味的に「心が晴れる」と「霧が晴れる」に分裂していて、広義の掛詞になっている。このことが定義①を構成している。

さらに言えば、「霧」と「晴れぬ」のつながりが決して歌の文脈とは交わらないところが重要だ。確かに、霧が晴れないことは、心が晴れないで恋い慕うこととは文脈上関係がない。これが「文脈を超越している」レトリックであり、しばしば「連想による気分的な連接」であると定義されるものである。

縁語というのは、二つの内容を結びつけ、それによって今ここの場、という現在性を強く浮かび上がらせる、という機能を持つ。縁語は・・・中略・・・『古今集』から数多く見られるようになる。それは恋歌など贈答歌や、集団で何らかの行事を催している場で用いられた例が圧倒的に多い。つまり、現実を背景とし、その現実を詠みこもうとする行為に密接に結びついている。(p. 86)

渡部がそう説くように、縁語は和歌の中に文脈とは違う関係性を持ち出して現実性を強く押し出そうとする。よく「技巧を弄した」歌は真実性に迫っていないと思われがちだが、縁語こそ、現実性や真実性に迫るためのテクニックだと言えそうだ。

本歌取りは古歌の魅力を再生させる

本書では、縁語をさらに発展させた形式として本歌取りがあげられる。本歌取りとは、①ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、②なおかつ新しさが感じ取られるように歌を詠むこと、だ。

縁語では文脈を超越した、連想による気分的な連接が、文脈外にある関係だった。その文脈外の関係が、今度は古歌に求められる。実例を見てみよう。

駒とめて袖うちはらふ陰もなし
佐野の渡りの雪の夕暮れ

「私の上に降る雪を、馬を止め袖で払い落とそうにも物陰すらない。ここは佐野の渡し場、雪の中の夕暮れ」という歌意のこの一首は、次の歌を本歌としている。

苦しくも降りくる雨か三輪の崎
佐野の渡りに家もあらなくに

「うんざりだな、この土砂降りには。ここ三輪の崎の佐野の渡し場には、家もないというのに」

この二首は主題と言葉が共通している。

主題はともに「旅」であり、旅の途中で悪天候にあう、という場面が同じく描かれている。共通する言葉は「佐野の渡り」だ。その他、万葉集(先の歌の出典、筆者注)の「雨」は、定家の歌(後の歌、同じく筆者注)では「雪」になっているが、旅の中での苦しい障害、という点では変わらない。・・・中略・・・明らかに藤原定家が『万葉集』の歌をふまえたのだ。本歌取りしたのである。(p. 96)

さらに渡部は、本歌取りは読者によって完成する、と説明している。上の例でいえば、読者は『万葉集』の歌を知っているからこそ、定家の歌を意趣深く読むことができる。言葉の関係性が本歌に求められていて、本歌を知っている人たちで深い感動を呼ぶのだ。「ああ、あの歌を詠んでいるのね」という連帯感があってこその本歌取り、ということになる。

それだけではなく、本歌取りされる歌は、新しい歌に取り込まれることによって、新しい魅力が発見される。

本歌取りでは、従来それほど目立たなかった古歌を、鮮やかに蘇らせることすらある。これはおそらく、本歌と本歌取り作品との関係が、古歌から新作歌へという一方的なものではなく、お互いに影響を与え合う、双方向的なものだからなのだろう。(p. 125)

和歌的レトリックは文脈を穿つ

ここまで、和歌的なレトリックの働きをかいつまんで見てきた。枕詞、序詞、掛詞、縁語そして本歌取りといった和歌的な修辞法に一本の線が通った説明に筆者は爽快感さえ覚えた。しかし、まだ渡部の和歌論は止まらない。もう一歩推し進めて、これらのレトリックの本質を説いている。それは、和歌的レトリックが文脈に穴を開けるということである。

和歌的レトリックは、いわば文脈という意味のまとまりの世界を破って、穴をあけている。そしてそこに文脈外の関係を持ち込む。普通文章というものは、語句を組み合わせて一つのまとまりある世界を形作る。・・・中略・・・ところが、その文脈外の関係を担う言葉は、意味のまとまりを経由することがない。だからストレートに相手に届けられる。相手は、概念化を経ることなく、その後をその場で、直接身をもって受け取るしかなくなる。歌の言葉そのものが、発せられるやいなや、ただちに存在感を持って迫ってくる。(p. 132)

これを図解するなら、きっと、次のようになるだろう。

和歌的レトリックは、そのどれを見ても、意味を伝達するという観点からすれば非効率に思われた。しかし、それは、意味を完成させるというよりも、むしろ、意味に穴をあけて意味の外側にある世界から違う関係を持ち込むことだったのだ。その違う関係とは、枕詞や序詞の予感めいた情景、掛詞が作り出す一つの文脈とは別個の文脈、そして、縁語の連想的な気分や、本歌取りにおける古歌であったりする。

和歌的なレトリックは上記のような、意味を超えた関係を、文脈に穴をあけることによって歌の中に取り込むのだ。

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今回の考察はこれで終わりになる。編集後記として打ち明け話をすると、今回の考察はとても難しかった。というのも、渡部氏の和歌に対する情熱と造詣が素晴らしくて、ある意味「考察を考察する」筆者が途中で自分自身、馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。ここまで読んでくれた読者には大変申し訳ないが、筆者のつぎはぎの説明を読むより、実際に本書を購読されたほうがいいと思う。

ただ、ささやかながら、筆者の貢献としては図解があげられると思う。和歌的レトリックの系譜と、それで文脈に穴をあける様子を図示したものだけは、もしかしたら一顧の価値があるのではないかと信じている。

いずれにせよ、目からうろこが落ちるような、そして、和歌との壁を溶かしてくれるような渡部氏の著書『和歌とは何か』を読まれることを強く推薦しよう。

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