兄と飲んでいるとき「俺は大学生のときに酔いつぶれて新宿駅で吐いたことがある」と何やら自慢げに言うのを聞いて辟易した。呑気な日本だからそんなことができるのだろう。しかし奇妙なことに、「飲んで吐く」という汚いことが、プラトンの『饗宴』を良く理解するアイデアになりうるのだ。つまり、ソクラテスは『饗宴』においてイデアを吐き出したのだ。今回のエッセイで示したいのはまさにこのことである。
『饗宴』を知らない方に簡単に説明すると、この作品は『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に並ぶ、いわゆるソクラテスの四福音書1の一つである。「饗宴」というのは古典ギリシア語 Συμπόσιον に当てられた日本語で、音写は「シュンポシオン」、意味は「共に飲む」になる。その字の通り、ソクラテスはアガトンという悲劇詩人のコンクールの祝勝会で、アガトン宅に招かれた友人たちと酒を飲んだ。しかし、「昨日はすっかり酒浸りになった」一同は、その日は「演説を御馳走に時を過ごそう」ということになった。そこで演説の主題になったのが愛の賛美である。いわく、さまざまな神に神殿が建設されたり捧げものの儀式が行われていたりするのに、愛神エロスについてはそれがなされていない、だから、この神を美しく賛美しよう、と。演説は順に右廻りにファイドロス、パゥサニヤス、アリストファネス、エリュキシマコス、アガトン、そしてソクラテスとなった(しかし後で述べるように、演説の段になってアリストファネスのしゃっくりが止まらなくなったのでアリストファネスとエリュキシマコスの演説の順番が前後する)。
ここで、今回のエッセイの主張をもう一度確認したい。ここでの主張はソクラテスがイデアを吐き出した、ということである。彼は、飲んで吐いたのだ。というのは、演説者のそれぞれの主張を聞き(飲み)、終わりに近い方からおさらいしつつ演説した(吐き出した)ことになる。すなわち、ソクラテスは愛の賛美に際して、アガトン、エリュキシマコス、アリストファネス、パゥサニヤス、ファイドロスの順に論点を抽出してイデア論につなげたのだ(演説順だと吐き出し方はアリストファネス→エリュキシマコスとなるが、ここではしゃっくりによる逆転があったと考えてもらいたい)。その様子はちょうど、ゼウスの父クロノスが、自分の子に統治権を奪い取られるという予言を恐れ、生まれる子どもを次々と飲み込み、ガイアの謀計によって吐剤を飲まされて子神たちを吐き出した、そしてそれによって兄弟の順番が逆転した神話2のようである。
では一体、それぞれの演説者はどのような賛美演説を行ったのか。その内容を整理する必要がある。
なお、本エッセイでの引用は特に記載がなければプラトン『饗宴』を出典とする。それ以外についてはいちいちの場合において出典を記載する。
【ファイドロス説】エロスは最年長で、人々に勇気を吹き込む
不都合きわまるじゃないか、エリュキシマコス、詩人たちはほかの神々のためには讃美歌や謝恩歌を作っているが、あれほど古くて偉大な愛の神エロスのためには、今までに出た非常に多くの詩人の中でただの一人もかつて頌歌を作ったものが無かったということは
と主張し、この愛の賛美のいいだしっぺになったのはファイドロスだった。ファイドロスの主張のポイントは三つある。すなわち、
- エロスは最年長者だ。
- 少年愛としてのエロスほどに人々に勇気を吹き込むものはない。
- 少年愛に限らず、愛に与るものなら愛する者のために死ねる。
である。順に確認しよう。一つ目のポイントについては、比較的わかりやすい主張である。
エロスは偉大な神である、人間の間においても、神々の間においても、驚異すべき者とされている。それには幾多の理由があるが、なかんずくその発生の故に。けだし神々のうちもっとも古い者に属することは誉れであるからである
ファイドロスの主張から見て取れるのは、年長であるほど尊ぶべきという思想である。儒教の孝やユダヤ教の十戒の一つ「あなたの父と母を敬え」、アフリカの伝統宗教、日本の神道などでも見られる形式であり、比較的理解されやすい思想と思われる。ファイドロスはこう言ったうえでヘシオドスの詩を引用し、主張を裏付ける。
太初にまずカオス(混沌)成り出で 「さて次に成れるは 永えにゆるぎなき万物の座なる、広胸のガイヤ(大地)と エロスと。」
ファイドロス説によれば、エロスはカオス、ガイヤにつづく神格であるから、愛は、ゼウスやクロノス、あるいはウラノスよりも年配であり、それだけ偉い神格であるということになる。
このように現代の私たちにも通じやすい主張からファイドロスの賛美は始まるが、すぐ次の主張がおそらく、多くの読者にとって分かりにくい、そして、誤解と偏見を招く論点になる。なぜならファイドロスは、エロス最年長者論の後に少年愛のすばらしさを賛美するからだ。
他面、もっとも古いこの神は、またわれわれにとって最大福祉の源泉でもある。実際私は、早くも少年に当って立派な愛者(エラステース)をもつこと、また愛者にとっては愛する少年(パイディカ)をもつこと以上に大なる好事が在るとは主張し得ぬのである。というのは、いやしくも美しく生きんと欲するすべての人にとって、その全生涯の指針となるべきもの、それを愛ほどあんなに見事にその魂に植えつけることは、血縁にも、栄誉にも、富貴にもその他の何ものにもできないからである。
あとにも述べることだが、のちの演説者もこの点に否定的な意見を述べることがないので、この「少年愛」は、彼らにとっては特に疑念なく受け入れられる制度だったことがわかる。「少年愛」というこの言葉に言及すると、ともすると、性的指向性の話やLGBTQ+の領域だと思われがちだが、この方面から「少年愛」をとらえると理解の歪曲に陥ってしまう。というのも、古代ギリシアにおける「少年愛」はそもそも性的な愛が主ではなく、教育的・社会的つながりが主だったからだ。このことは Deegan もその論文 Higher love : elitism in the pederastic practice of Athens in the archaic and classical periods で述べているように「少年愛は、アテナイのエリート層の理想や自己認識を反映し、同時にその階級の支配を拡大する多面的な制度」だったのだ。ゆえに、少年愛は、むしろ「教育愛」と読み替えた方が誤りが小さいし、ここでは先入観を避けるため、原語 Παιδεραστία の音写、パイデラスティアという語を適宜使おう。このように少年愛を教育的側面で読んでいく。次は、直前の引用のつづきである。
ところがこの場合私の意味するものはいったい何であるか。それは恥ずべきことに対しては羞恥であり、称揚すべきものに対しては名誉慾である。なぜなら、これらを欠けば、都市も、個人も、偉大な、秀美な事業を成就することはできぬからである。したがって私は主張する.恋する男は、恥ずべき行いをするところとか、または誰かから侮辱を受けながら、怯懦の故にこれに反撥せぬこととかが暴露したとき、父親に見られるにしても、友人もしくは他の誰かに見られるにしても、愛する少年に見られたほどそれほどたまらなくは感じないだろう、と。
ファイドロスは、羞恥と名誉欲を「秀美な事業を成就する」原動力とみなし、それらが「愛する少年」の視線から来ることを主張する。これを先ほどのパイデラスティアが教育愛と読み替えられるべきである、ということと併せて理解しよう。つまり、指導者はその弟子から「恥ずべき行いをするところ」とか、「誰かから侮辱を受けながら、怯懦の故にこれに反撥せぬこととかが暴露したとき」に「たまらなく」感じる、ゆえに、指導者たる愛者は恥ずべき行いをせず、侮辱には反発する勇気を持てるのだ、とファイドロスは主張するのである。これは弟子が指導者の目線を気にするという方向においても同様であり、そしてこの勇気は、戦場においてよりその効果を発揮する。
今かりに何等かの方途によってただ愛者とその愛する少年とのみから成る都市または軍隊が出現したとする、そのとき彼があらゆる陋劣から遠ざかりかつ互いに名誉を競うこと以上に自分の都市を立派に統治する途はあり得ないであろう。またもしこのような人達が相携えて戦ったとしたら、たといその数はいかに少なくとも、必勝を期し得よう、ー全世界を敵としても、と私はいいたい。
この発言からも分かるように、少年愛という概念は性的な意味合いより、社会制度や都市国家の統治としての側面が強調されている。戦場において、死の恐怖をも克服する勇気を与えるのは愛であり、すなわちパイデラスティアであると、ファイドロスは訴えるのだ。かつ、パイデラスティア「のみならず」と彼は続け、愛の効用がパイデラスティア以外の人々にも及ぶと演説する。
のみならず、対手のために死のうと決心するものはただ愛する者だけである、しかも単に男のみならず、女をも含めて。この説に対してはペリヤスの娘のアルケスティスもまたヘラス人の前に充分な証拠を提供する。
ここで登場するアルケスティスというのはエゥリピデス作『アルケスティス』に登場する主人公で、東テッサリヤのフェライ市の王アドメトスの妃であった。アポロンはアドメトス王への親和の情から、誰か身代わりに出れば、彼を死から免れるようにしようと容認したのだが、その身代わりに立ったのがアルケスティスだった。彼女はこの勇気あるふるまいから神々に祝福され、冥府ハデスから帰されるという栄誉を得た、というのが、アルケスティスにまつわる内容である。さらに、このアルケスティスに加えて、英雄アキレゥスも、パイデラスティアの範囲外での愛の力の例示として話題にのぼる。
アキレゥスは、もしヘクトルを殺せば自分も死なねばならぬが、もし殺さなければ、故郷へ帰り、長寿を保って一生を終ることができるということを母から聴いてよく知っていたにも関わらず、なお勇敢にもその愛者パトロクロスの救援に赴き、その復讐を果たした後には、単に彼のために死ぬばかりではなくて、さらに彼の後を追うて死ぬことをすら選んだからである。・・・アイスキュロスが、アキレゥスはパトロクロスの愛者だったようにいっているのは無稽である、なぜなら、アキレゥスはパトロクロスのみならず、また同時にあらゆる勇士よりも美しかったし、まだ髭も無かった。
ここでは訳者の久保勉も指摘しているように、アキレゥスとパトロクロスは少年愛の関係性ではなく、ただ単に親友同士の関係であった。ここで「髭も無かった」という、一見すると面白くもない事実が、意外にパイデラスティアの要件を表していることに注目したい。これは次の演説者パゥサニヤスも少年愛について言及していることだ。
さらに少年愛そのものにおいてもまた人は純粋にこのエロスに動かされているものを識別することができる。事実これらの人は少年に智慧がつき始めるまではこれを愛することをしない、ところがそれはようやく髭が生えだす頃をいうのである。
このように、パイデラスティアは髭が生えだした頃の「少年」でないと、その対象にはならない(「少年」の範囲というのが、「小さい子」というよりむしろ「青年」に近いのだ、ということも、パイデラスティアの偏見をいくらか正すだろう)。以上のように、ファイドロスはエロスを、人々に勇気を吹き込む存在として賛美する。それは典型的にはパイデラスティアに関わる人たちに、さらには、パイデラスティアではなくても、女性や普通の親友関係にいる人にも、死へ向かう恐怖を克服する力、すなわち勇気を吹き込むのだと主張するのである。その吹き込み方というのは、上に述べたように、「恥ずべきことに対しては羞恥であり、称揚すべきものに対しては名誉慾」を駆り立てることによって、であるのだ。
【パゥサニヤス説】エロスの内ウラニオスをパンデモスから区別し抽出すべきだ
パゥサニヤスは、プラトンの別の対話篇『プロタゴラス』やクセノフォンの『饗宴』でも登場し、いつもアガトンの愛者として描かれる。自らがパイデラスティアの当事者であって、先のファイドロス説にも増して少年愛を推奨し、賛美する。ただその演説の仕方というのは、ファイドロスのように一緒くたにではなくて、パイデラスティアだけを他から区別し抽出して行うのだ。
ファイドロス、こんなに無差別にエロスを讃美せねばならぬという風に主題が提出されたのは好くないように思われる。というのは、もし実際唯一のエロスしか無いのであったら、それもよいだろうところが、それは唯一ではないのだ。すでに唯一でないとすれば、いかなる種類のものを讃美すべきかをあらかじめきめて置く方がいっそう正当であろう。… エロスを離れてアフロディテの無いことは、われわれ万人の知っているところである。もしアフロディテがただ一種であったとすれば、エロスもまた一種しか無いはずである。ところが実はあの女神には二種あるのだから、必然にまた二種のエロスがなければならぬ。… 一方は、思うに、年長で、母の無い、ウラノス神(天)の娘で、われわれはこれを天の娘とも呼んでいる。もう一種の年下の方は、ゼゥスとディオネとの間の娘で、われわれはこれを万人向きのものと名づけている。
美と愛の女神アフロディテには二種類あるのだから、アフロディテと切っても切れない関係にあるエロスにも両種あるのだ、という論法である。ここにエロスが二つに区別された。一方は「年長で、母の無い、ウラノス神(天)の娘」であるアフロディテに付き従うエロスと、他方は「年下の方で、ゼゥスとディオネとの間の娘」であるアフロディテに随伴するエロスである。後者をパンデモス(万人向きのエロス)といい、前者はウラニオス(天上のエロス)と呼ばれる。パゥサニヤス説では、ウラニオスがパイデラスティアを後見するのだと主張されるのだが、確かに、パイドロス説ではパイデラスティアを賛美した後に付け足すように少年愛以外の愛が賛美されていた。それに対しパゥサニヤスは愛を「無差別に」賛美するのは良くないのだといったうえで、少年愛のウラニオスとそれ以外のパンデモスというように線引きした。では一体、ウラニオスとパンデモスとはパゥサニヤスによってそれぞれどのように特徴づけされるのだろうか。
さて万人向きのアフロディテに属するエロスは真に万人向きのものであり、偶然のまにまに発動する.しかもこの種の愛に凡俗者流は惹きつけられるのである。ところがこの種の人の愛はまず第一に、少年に対すると同様に、婦人にも向けられる、次には恋に落ちた場合に、彼らは魂より以上に肉体を愛し、最後には、でき得るかぎり愚昧なる者を愛する
この発言から分かるように、パンデモスは「偶然のまにまに発動する」ような、つまりは、計画や意志力や理性には裏付けられていない神格であり、愛の対象が婦人、肉体および愚昧な者であるような愛である。ここで「婦人」が「愚昧なもの」と列挙されていることで、古代ギリシアの風習は女性蔑視に満ちていたのだと思われる読者もあるだろう。女性蔑視の観点はこのエッセイでは本流ではないので肯定も否定もしないで据え置くが、ただ『饗宴』において少年愛や精神的な愛ではない、婦人に向かう肉体上の愛が後述するアリストファネスおよびソクラテスによって、その愛の仕組みや価値が説かれることを記しておこう。他方、ウラニオスは
しかるに他のエロスは天の娘から出た者であるが、この女神は第一には、女性にあずからず、ただ男性のみにあずかり(これすなわち少年に対する愛である)、次には年長で、放縦に流れることがない。それだからこそこのエロスに鼓舞された者は男性に向うのであるが、それは彼らが生来強き者と理性に富める者とを愛好するからである。
から分かるように、男性、理性、強さに親和する神であるとされた。また、すでにファイドロス説の説明で引用したように、少年愛は髭の生えていない少年を愛さないのだが、これは対象となる少年にこれらの理性や強さの見込みがあるかの判定がまさに髭が生えるほどに成長しないとわからない、ということを指しているのである。裏を返すと、それほどまでにパイデラスティアでは理性や強さの側面が強調されたのであり、性的な側面はむしろ例外的で、あったとしても蔑視の対象となるようなものであったことが分かるだろう。
ここに、少年愛と異性愛とが、ウラニオスとパンデモスとの対応でもって区別された。しかし、パゥサニヤス説をよく理解しようとするなら、ただ区別するのにとどまらず、もっと踏み込んで、ウラニオスを抽出する必要がある。パゥサニヤスはとかくウラニオスおよびその支配する少年愛の美しさを強調し、かつ、少年愛の中でも美しいものとそうでないものとがあると、少年愛の美しさの条件を定めるのだ。
イオニヤの諸地方やその他ヘラス人が異邦人の支配下に立つ地域においては至る所、それ(筆者注:「それ」は「少年愛」を指す)は恥辱とされている。すなわちこのことは、異邦人の間では、僭主政治の立場から、智慧の愛求(フィロソフィヤ)や体育の愛好(フィロギュムナスティヤ)と同様に、恥辱と見られているのである。けだし若し臣民の間に雄志を抱く者が出現したり、または強固な友情と団結とが発生したりすれば、それは決して統治者の利益にならないからであろう。しかるにこれはあらゆる他のものよりも特に愛の産出するを例とするところのものなのである。
パゥサニヤス説は当時の各都市における少年愛の風習を論じ始める。少年愛が智慧の欲求や体育の愛好と共に並べられていることに注目したい。この記述からも、やはりパゥサニヤスも少年愛を基本的には賛美する立場なのだということが分かる、そしてそれはとりもなおさずエロスの賛美につながるのだ。少年愛について、少年が愛者の意に従うことを肯定的にとらえるか否かは、彼の外国における見聞によれば、次の三つに分かれるのだ。
- 無条件に善美である・・・エリス、ラケダイモン、ボイオティヤ(弁舌に拙い)
- 無条件に恥辱である・・・イオニアの諸地方、小アジアの全沿岸地域(異邦人の都市)
- ある条件で善美である・・アテナイ市
では、その条件とはいったい何なのだろう。パゥサニヤスは「愛する」とか「愛者に従う」ということそれ自体に美醜があるのではなく、どのような仕方で愛するのか、または愛者に従うのかと言うその「仕方」にこそ美醜があるという。それは例えば、
飲むのでも、歌うのでも、または話をするのでも、一としてただそれだけ取ってみれば美しいとはいえない、むしろその行動がいかになされるかによって初めてその性格もきまるものである
というセリフが彼の考えを裏付けているように。そしてその美醜を決めるのは、彼によれば、永続性の有無である。
悪しき者とは魂よりもさらに多く肉体を愛するかの卑俗なる愛者をいう。しかもその愛するのは永続する対象ではないから、彼自らもまた永続するはずがない。・・・これに反して気高き性格を愛する者は生涯を通じて変わることがない、それは永続するものと融合しているからである。
ここで、パゥサニヤスのエロスの分類を、さらに簡単な形で整理しなおそう。
- ウラニオス・・・永続する対象への愛
- パンデモス・・・永続しない対象への愛
このように、ウラニオスというのは永続する対象への愛なのであり、パイデラスティアを後見するものであるのだが、その中でもより「ウラニオス的」であるものを選り分けてそれをパゥサニヤスは明言している。(思うに、昨今の SDGs で歌われる「サステナブル」という概念は、古代ギリシア人とあまり違いがないというべきなのかもしれない。サステナブルというのは「長続きする」くらいの意味で、長く続くものほど良い、という概念なのだから。)
わが国の慣習に従えば、愛された少年が美しき仕方で愛する者の意に従おうと欲するとき、残された途はただ一つしかあり得ない。われわれの慣習はすなわち次のごとくなのである。愛者の場合に、愛する少年のためには自ら進んでいかなる奴隷的服従に甘んじても、それは阿諛ともまた屈辱とも見做されなかったとちょうど同じように、ただもう一つの自発的な奴隷的服従だけが屈辱でないと認められている。徳のためにするものすなわちこれである。
アテナイ市では条件的に少年愛の美醜が決定されるが、その条件こそまさに「徳」であったのだ。しかし、この「徳」というのは一体何なのか。それはここでは田中美知太郎の記述から「『よき人』の『よさ』を指すのであって、一般にものの優秀性、卓越性、有能性を示す言葉である」3と考えておこう。パゥサニヤスの主張する、アテナイ市において少年愛が美しいものとなるための条件は徳と一致する。それは次の発言からも明らかである。
愛された少年がその愛者に好意を示すことは結局称讃に値するものであるということを明らかにしようとするならば、われわれはこの二種の慣習を―すなわち少年愛にかんするものと愛智およびその他の徳に関するものとを―互いに結びつけなければならぬ。
ここにおいて純粋なウラニオスの抽出がパゥサニヤスによってなされた。すなわち、まずエロスを永続の観点でウラニオスとパンデモスとに区別し、さらに、ウラニオスの中でも徳と結びついているもののみを美しい習慣と見たのである。これが、ファイドロス説の愛論の整理に貢献したのだ。
【エリュキシマコス説】エロスは一般化できる
席順で言うと、パゥサニヤスの次はアリストファネスの番だった。しかし彼は、すでに冒頭で述べたように突然しゃっくりに襲われたので、医者であるエリュキシマコスがしゃっくりの治し方を教え、かつ、順番を替えてあげた。エリュキシマコスのパゥサニヤス説の評価は「美しく出発したが、満足に遣り遂げなかったから、私がぜひあの演説に結論を附加すべく試みる必要がある」と言っているように、おおむね賛同の意を示している。そしてこの「結論」というのがすなわち、二種のエロスの一般化である。つまり、エロスは人間の魂の内のみに存在するわけではないと。
エロスは単に美しき少年に対する愛として人間の魂の内に存在するのみならず、また他の多くのものに対する愛として、かつ他の事物の内にもあるもので、一切の動物の体内にも、大地の産出する植物の内にも、否、いわばありとあらゆる物の内に存在する、これはわれわれの専門の医学から得られた認識である、と。要するにこの神は偉大な驚嘆すべき神であって、人間の事といわず神々の事といわず、一切の上にその勢力を張っているのである。
ここで美しき少年という個別の対象から、愛が他のあらゆるものへも適用される、つまり一般化される。ところで、この美しき少年に対する愛というのはパゥサニヤスの言ったように美醜のべつがあった。徳と一致した愛が美しく、それ以外は醜いということだったが、その区別が他のあらゆるものの愛にもある。「一切の上に」愛があるのだとエリュキシマコスは主張したので、適当に一つの例をとりだそう。例示としてエリュキシマコスが挙げているのは、彼の専門である医術である。
さて、パゥサニヤスも今いったように、同胞のうちの有徳な人の意に従うのは美しく、放縦な人に従うのは恥ずべきであるが、同様に、肉体そのものの場合にもまた、すべて肉体のうちの優良素と健全素の意に従うのは美しくかつ義務に適う(そうしてこれこそ、医術と呼ばれるものなのである)これに反して不良素と病素に従うのは恥辱であり、いやしくも専門家をもって任ずる者は、その意に従わぬことを義務とする。なぜなら、医術とは、約言すれば、充足と排泄とに関して体内に起る愛的現象の知識であるからである
この「優良素と健全素」がウラニオスに、「不良素と病素」がパンデモスに呼応するのはいうまでもない。さらにエリュキシマコスはこの調子で、音楽や季節や卜占術(占い)もそうだと主張するのだが、これらの愛的現象の様子は医術のそれに準ずるのでここで詳しく述べることは避けよう。ここでは、エリュキシマコスがエロスを一般化するのだと理解すればいい。
このように、エロスの一般化の例示が卜占術まで来たところで、アリストファネスのしゃっくりが止まったようである。彼の主張はこれまでのとは毛色が違う、というのも、論点がパイデラスティアという古代ギリシアの慣習からセックスへと移行していくからである。
【アリストファネス説】エロスとは全一への憧れである
“better half ” という語を英英辞書で調べると、インフォーマルな名詞として「妻、夫、またはパートナー」と出てくる4、英語圏では比較的ふつうに使われる言葉だ。その言葉の源流がアリストファネスのこの話だと断定するには別に調べて示さなければならないだろうが、少なくとも考え自体は共通しているだろう。すなわち、人が人を愛し求めるのは失われた半身と一緒になり完全な存在になることを目指してのことである、という発想だ。では、「完全な存在」とは一体どのようなもので、どのような姿をしているのだろうか。アリストファネスはまず、人間の本性とその経歴を語る。いわく、人は太古、三つの性を持っていた。すなわち男男、男女、女女の三種であり、その姿は球体だった。というのも男男は太陽に、女女は地球に、そして男女は月にその出自が認められるから、ということだ。
当時各人の姿は全然球状を呈して、背と脇腹とがその周囲にあったそれから四本の手とそれと同数の脚と、また円い頸の上にはまったく同じ形の顔を二つ持っていた.そうして背中合せの二つの顔にただ一つの頭顱、それに耳が四つと、隠し所が二つ、そうしてその他はすべてこれに準じて想像し得る通りである。
太古の人間の姿を描写した YouTube の動画があるので、視覚的なイメージの助けのため載せておこう。
この動画から三種の性別の人間が描かれている箇所をスクショしたのが下図である(なかなかグロテスクな感じがするが、ギリシア神話のティーターンも相当奇怪なのでそう不思議がることでもないだろう)。
原始の人は凶暴な力と強さをもっていたので神々に挑戦をしかけたが、それゆえに神々は人を切断し、半分にして縫い直し、そして彼らを割符とした。それは人間を生かしながら凶暴性を失わせるためであり、もしこれでも止まないのならさらに真っ二つにしようと思召したのだ。この経歴ゆえ、アリストファネスいわく、今の人間は割符であり、つまりは、片割れなのだ。
かくてわれわれは、いずれも人間の割符に過ぎん、比目魚(ひらめ)のように截り割られて、一つの者が二つとなったのだから。それで人は誰でも不断に自分の片割れなる割符を索める。
ここで原始人間の性を思い返すと、それは男男、男女、女女があったわけだから、男男からは少年愛が、男女からは異性愛が、そして女女からは同性愛が生じる。人間は切断されてからというもの、半身を求め、過去の完全な姿に憧れる。それゆえ、人は「愛人と再会し融合し二つが一つになりたいという念願」を持つ。
さて人間の原形がかく両断せられてこのかた、いずれの半身も他の半身にあこがれて、ふたたびこれと一緒になろうとした。そこで彼らはふたたび体を一つにする欲望に燃えつつ、腕をからみ合って互いに相抱いた。
人がセックスに対して抱く欲求や情熱は、アリストファネスの物語から考えると、それは過去の完全な自己への憧れなのだ。そしてこの憧れこそエロスであるとアリストファネスは主張する。彼は、美神アフロディテの浮気相手アレスとの情事が夫ヘファイストスの企みによって衆知にさらされたことを引き合いに出し、どうして人が性愛に燃えるのかの理由にこう答える。
その理由は、われわれの原始的本性(原形)がこれであり、われわれが全き者であったというところに在る。それだからこそ全きものに対する憧憬と追求とはエロスと呼ばれているのである。こういう訳で、われわれは、それ以前には、前述のとおり、全一であった
したがって、エロスとは全一への憧れであると、アリストファネスは論じたのだった。
【アガトン説】エロス=コスモス
キリスト教世界において、新約聖書でイエス・キリストが十字架を背負って以来、神の「裁き」の側面よりも「愛」の側面のほうが強調されたように、アガトンはギリシア神話において「正義」から「柔和さ」への変遷を語った。アガトンによればエロスは最美、最優、最福の神であり、主宰ゼウスすらエロスの弟子であるという。
射術や医術や予言術を、アポロンが発明したのは、欲求と愛とに導かれたためである、したがってこの神もまたエロスの弟子であるさらに音楽におけるムーサ神達や、鍛冶術におけるヘファイストスや、機織法におけるアテナや、また「神々と人類との統治」におけるゼゥスもまた同様である。
エロスを賛美するにあたって、これほどの誉め言葉はないだろう。アガトンはこのように盛大に、そして、(日本語で読んでいるとよくわからないが)韻律を持ちながら、まさに「饗宴」にふさわしいエロスの賛美演説を行う。では、そのようにギリシア神話の頂点に君臨するエロスは、なにゆえにその地位に至ったのか。アガトンは、正しい賛美はまず褒めようとする対象の本質を語り、それからその賜物を語ることによってこれを行わなければならない、と言って、その言葉通りエロスの本質を語ろうとする。「語ろうとする」という歯切れの悪い言葉を使ったのは、それは最後の演説者のソクラテスからすると全然、本性の描写に至っていないからなのだが、とにかく、アガトンによるエロス像を押さえておきたい。
まずアガトンは、ファイドロス説の訂正を主張する、すなわち、エロスは最年長ではなく、最年少であると。
第一に、あの神は、ファイドロスよ、神々中の最年少者だ。この言葉に対する有力な証拠はあの神自らが与えている.それは彼が、疑いもなく迅速な少くとも必要以上に迅速にわれわれに迫って来る老齢から大急ぎで逃げ去るからであるそれは本来エロスの忌み嫌うもので、大分隔っていても、彼はなおこれに近づこうとせぬこれに反して彼は常住に青年と共にあり、しかも自らもまた若い。
アガトンはこう言って、エロスは最年少だから美しい、と述べている(もちろん、最年少の者が美しいことは自明ではないのだが、今はアガトンの説に従っていきたい)。ファイドロスはヘーシオドスの詩を証拠として提出したが、それではアガトンは何をもって、エロスを最年少としたのだろう。その理由には背理法が使われる、すなわち、もしエロスが最年長だったらその柔和な性質ゆえに神界に暴力はなくなっていただろう、しかし、実際には暴力があったのだから、エロスは最年長ではない、という論法である。この「暴力」には説明がいるだろう。このエッセイの冒頭にも述べたように、ギリシア神話ではゼウスの父親はクロノスだった。宇宙の支配権はさらにその父親のウーラノスから三代にわたって推移していて、どの代でも暴力によって統帥権が子に移ったのだ。クロノスはウーラノスの陽根を切断したし、ゼウスも十年間の戦争の末、ウーラノスをタルタロスに幽閉して世界の支配権を手に入れた。このように神界は暴力によって平定されたのだが、しかし、とアガトンは言うのだ。もし、柔和なエロスがいたのなら、そのような争いごとはなかっただろうと。
あの神は神々中の最年少者であり、かつ永遠に若く、またヘシオドスやパルメニデスが物語っている神々の間のあの古い事件はー彼らの物語るところが果たして真実ならばーアナンケ(必然)の所為で、エロスの所為ではない、と。何故といえば、もしエロスが神々の間にいたものとすれば、互いに去勢し合い、縛りあい、その他多くの暴虐を行い合うようなことはあり得なかっただろう。それどころかエロスが神々の上に君臨し始めて以来は、現今のごとく友情と平和とが支配したであろう故に。
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