井筒俊彦『意識と本質』 – カオス化と東洋哲学

コギト・エルゴ・スム、われ思うゆえにわれあり、を見つけたデカルトはきっと怖がりだったのだと思う。どんな懐疑主義者であっても疑いようのない命題を見つけた、それを見つけることに熱心になったということがその証左であるともいえるのではないか。有名な胡蝶の夢。ひらひらと楽しく、一頭の蝶として舞っていたつもりが、醒めてそれが夢だと気づく。しかし、よくよく考えれば、あれが夢でこれが現実だと思っている「これ」は本当に現実として、確かにここにあるのだろうか。だって、蝶として舞っていた時も、「ここ、この世界」を楽しんでいたのではなかったか。もし今私が急に起こされて、本当は犬だったのだと醒めたりしないだろうか。これはあなたも同じではないか。あなたは今、私の文章を読んでいて、目を離せば「この」世界があるつもりで思っているかもしれないけれど、どうしてそれが夢でなく、現実の、リアリティある世界だと言えるのだろうか・・・大体、こんな七面倒くさい人が現れたら相手にしないのがきっと良いことだ。追い出してピシャリと戸を閉めればいいのに、デカルトはそうしなかった。彼は横綱相撲を取る。現実もまた夢である可能性が捨てきれないとする懐疑論者を懐にいれたうえでこう言うのだ。「しかし、そんなあなたも、今まさにそう疑っているところのあなた自身として存在することは認めますね」と。こうしてどうしても疑いようのない一つの事実が成立した。「疑う」は「思う」に含まれている。一般に、「思う」ことの主体性、「思う」の主語は存在者として認められなければならない。

詳しいことは知らないけれど、そのあとの論の展開、すなわち、コギト・エルゴ・スムから導出されるその他の信じていい命題をデカルトは『方法序説』のなかで述べていたはずだ。ただ私の関心はここから別のところに移る。井筒俊彦の『意識と本質』である。これは私にとって、『方法序説』の続編、しかも東洋バージョンのそれにように思えた。つまりは、思うことの主体、その存在は必然に真であるけれども、客体はどうだろうかと。いわば「われ思う、しかし、何を思うのか」の「何」の部分、これは、文法的に考えれば目的語にあたる部分なのだろうけれど、この「何か」は果たして主体性と同じくらい必然的に存在するのだろうか。当たり前、常識的に考えれば、それは存在せねばならない。「われ思う、しかし、何ものをも思わない」なんてバカげたことがあっていいわけない。「思う」というのは、「何かを」思うのだろう。このことを、井筒は「意識」という言葉でとらえている。

 意識とは本来的に​「・・・​の意識」だというが、この意識本来の志向性なるものは、意識が脱自的に向っていく​「・・・」​(X)の「本質」をなんらかの形で把捉していなければ現成しない。たとえその「本質」把捉が、どれほど漠然とした、取りとめのない、いわば気分的な了解のようなものであるにすぎないにしても、である。意識を​「​・・・の意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意味論的構造そのものがそういうふうに出来ているのだ。  Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質」が捉えられていなければならない。Xを花という語で指示し、Yを石という語で指示して、XとYとを言語的に、つまり意識現象として、区別することができるためには、初次的に、少くとも素朴な形で、花と石それぞれの「本質」が了解されていなければならない。そうでなければ、花はあくまで花、石はどこまでも石、というふうに同一律的にXとYとを同定することはできない。  禅者のいわゆる(第一次的)「山はこれ山、水はこれ水」とは、このような「本質」から成り立つ世界。無数の「本質」によって様々に区切られ、複雑に聯関し合う「本質」の網目を通して分節的に眺められた世界。そしてそれがすなわちわれわれの日常的世界なのであり、また主体的には、現実をそのような形で見るわれわれの日常的意識、表層意識の本源的なあり方でもある。意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するところに生起する内的状態であるといわなければなるまい。

井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (pp.7-8). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

あまりにも当たり前な、常識的な世界である。山は山、水は水。そう「思っている」し「意識している」。その思いや意識の対象を井筒は「本質」と呼ぶ。意識は本質と共起するのだ。「兄」という概念が「弟」という概念を必要とするように、意識はその対象たる本質を必要するのが私たちの常識的な世界である。しかし、その常識が時に崩れるのが私たちの暮らしの面白いところである。その崩れ方はたいてい、吐き気の形でを催される。

 「存在」の深淵を垣間見る嘔吐的体験を描くとき、サルトルが、この「存在」啓示の直前の状態として言語脱落を語っていることは興味深い。  「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。」  絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦線に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。しかし前にもちょっと書いたとおり、およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。「忽ち一挙に帷が裂けて」「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、怖ろしいらな(存在の)裸身​(des​ ​masses​ ​monstrueuses​ ​et​ ​molles,​ ​en​ ​désordre​ ─ ​nues,​ ​dune​ ​effrayante​ ​et​ ​obscène​ ​nudité)」​のまま怪物のように現われてくる。それが「嘔吐」を惹き起すのだ。

井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (pp.9-10). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

私たちの意識、「思う」ことは、常識的には「思われる」ところの客体に支えられている。その客体、いいかえれば目標、を失ったとき、当然、支えを失った意識はぐらつき、どうやら吐き気という形で身体化されるらしい。「われ思う、しかし、何ものをも思わない」は「思う」という言葉の含意から考えて矛盾だし、よって否定される、それも吐き気という気味の悪い形で。しかしながら、その不気味な矛盾を止揚してきたのが東洋哲学であるのだと井筒は言う。

 これに反して東洋の精神的伝統では、少くとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に追い込まれはしない。絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的になされているからだ。いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現われる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現われている。

井筒 俊彦. 意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫) (p.14). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

この、東洋の精神伝統にはさまざまなものがあるけれど、思うにそれらは「世界は連続している」ということに収束しているのではないか。つまりは、私は星だし、花でもあるし、鼻くそでもある。あるいは憂いであり、ありとあらゆるすべてである。当然、私はあなたでもあるし、逆もそうだし、そこに区切れはなく、互いが互いに連続しているのだ。これは「世界は連続であるなんてことはない」という主張とすらも連続している。それを存在一性論的に「存在」と呼んだり、不二一元論的にブラフマンと呼んだり、あるいは大乗仏教的に空と呼んでいるにすぎないのだ。

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