知識とは論理により構成された世界である
知識とは論理により再構成された世界である。知識はデータ(i.e. 記述文)が秩序付けられ、その正当性が評価されたものである。いわば、良く再構成された世界である。清水義夫の述べた科学理論の図1の「科学理論」に知識という別名をつけるならその構造が明らかになってくる。

これは、独特な立場をとる人の一つを恣意的に取り上げたわけではない。哲学とは毛色の違う、地理学および民族学の学問の手法を確立し、それを一般的な問題解決に発展させた川喜田二郎も学問の方法をW型解決モデル2としてまとめている。

両者のプロセスに共通するのは、①世界からデータを取り、②そのデータを論理でつなぐことで学の成果を、すなわち知識を、得るということだ。これらのプロセスをもう少し詳しく見ると、まず①の世界からデータを取ること、というのは、川喜田に言わせれば単に「取材」ということになろうが、世界からその一部を切り取り、圧縮し、シンボル化することである。
われわれの世界、そしてわれわれを取り巻く世界は、考えようによっては連続している。自然はどこにも切れ目はないといえよう。その切れ目のない自然の中から、われわれは、何かを注目することによって、あえてひと区切りの物事を切り取り、取り出す。そしてものごとに、圧縮したひとまとまりの意味を与える。それはちょうど、KJ法の表札づくりに似ているではないか。その圧縮が極限までゆけば、しまいには単語とか記号とかいったシンボルを与えるところまでゆく。このようにして、〔切断→圧縮→シンボル化〕を行っているのである。そしてそのシンボル群を組み立てて、この世界を意味のある全体として掌握しているわけだ。3
ここでそもそも取材という営みが成立しうるのは、世界が分節化されているからであり、つまりは意識により線(i.e. エッジ)が世界に引かれているからである。そのように線が引かれてこそ、領域 domain が考えられるし、それにより集合論も展開されていくのである。
言語表現は、通常、語と呼ばれる記号をその構成要素としている。すなわち言語表現は、一語または複数個の語が並んだ形態を取っている。一方、こうした言語表現が表現する意味世界は、種々の集合(通常、「領域」(domain)と呼ばれる)から成り立っている。そしてそうした領域の成員(i.e. 要素)を、言語表現の構成要素である語がその対象として指示する、という関係になっている4
そうして得られたデータは、すでに記述文と言い換えているように、命題論理の素材たる要素式になっていく。命題論理とは、真理値をもつ文を、まさにその真理値にのみ注目して記号化により文を抽象したものであるが、その目的は端的に言ってしまえば、A→B の「→」をどんどんつなげていくことに他ならない。すなわち、推論である。しかし、推論をするにも「A」がないと始まらない。この「A」は何かしらの記述文を表しているのだが、その生み出し方を教えてくれるのが川喜田二郎の KJ 法であったというわけだ。
次に②の、データを論理でつなぐことについて。先に述べたように命題論理は真理値を保持した文同士の接続を考える。いわば、文と文の貼り付け方を考えているといっていい。ここで命題論理の関心はもっぱら真理値にあるから、文同士の貼り付け方は、その結合によって真理値がどう変化しうるのかということに注意しながら行われる。すなわち真理関数である。この真理関数によって∧(連言)、∨(選言)、¬(否定)、⊃(条件法)が定義されていく。さらに、論理の世界がシェファーストローク(i.e. Nand)で構築されることは夙に確立された事実であって、そのことを考えると否定と連言が論理学の中でより基本的なものであるということが言える。
ところでこの否定というのは、世界からある部分を切り取る際にも、集合論の丸い囲いのような境界線によって「ソレであるもの」を「ソレでない」ものから括り取る5のに必要なものである。つまり否定は単に命題の真偽を反転させるだけでなく、取材というプロセスでも知識の創造に必要不可欠な役割を担っていると言える。さらに KJ 法では、取材したデータ、意識の否定の働きによって得たデータを、いわゆる「同志集め」といわれるグループまとめを行うことで「表札」と言われる記述文を得て、さらにそれらでグループまとめを行う、という形でそのステップを何層にも重ねて抽象化された訴え(i.e. 記述文)を得るのだが、その同志集めは、あるいは、連言に依っているといえるだろう。このように見ていくと、KJ 法と命題論理はその厳密性にちがいはあるだろうが、近しい心の働きをしていると言えるのである。すなわち命題論理を亜論理、無論理にまで拡張させたのが KJ 法である。
私たちは線の引かれた世界を生きるしかない
ここで再び、清水義夫の科学理論の図に戻ろう。「所与 X」から始まり、それを観察記録し、仮説形成し、正当性をチェックしたものが知識となるのだった。その知識は実在の似姿としての性質をもっている。しかし、このプロセスの一番初めと終わり、「所与 X」と「知識」とは一体何なのか。ここに、論理がもはや論理でなくなりつつある領域、ある種、超越的な事柄が横たわっている。そこにあえて言語で踏み込んでいくなら(というのも私たちには言語しかないので)、「所与 X」とは論理により再構成される前の世界であり、「知識」とは論理により再構成された後の世界である。記号で表すなら、U1 : 「所与 X」、U2 : 「知識」となる。ここで U1 も実はすでに私たちが何かしら構成した世界なのだということを指摘しなければならない。私たちはすでに何かしら構成済みの世界、平たく言えば現実に生きているし、そこにしか生きられない。それはソクラテスが語った水に映した太陽のたとえでも印象的に言及される。
いま、よく注意しなければならないことは、ちょうど日蝕というものを観て、それを考察する人々が受けるような災難に、わたしも遭わないようにすることだ、と。というのは、その場合に、水とかそれに類するもののうちに太陽をの姿をうつして、それをみるようにしなければ、往々にして眼をそこねる者もあるからだ。それと似たことが自分の場合にもあると、わたしは思いいたったのだ。
そして、この肉眼でもって、直接に事物の方をみやるとか、また、感覚のおのおのでもって、事物にじかに触れようとするならば、そのときには、たましいは〔それ自身のみる力を奪われ〕、盲いになってしまうのではないか、とおそれたのだ。そこでわたしは、
ーことば(言論)へと逃れて、そのなかで、存在するものの真実を、考察しなければならないー
と思った。もっともこの比喩は、或る点では適切ではないであろう。なぜなら〔この比喩では〕、まさに存在するものは、それがことば(言論)のうちにおいて考察されるときには、それが実際のものごとのうちにおいてなされる場合とを比べると、何か間接的なうつしにおいてしか考察されてないのではないかということになるが、そのことには、わたしは断じて同意しないからだ。6
太陽は存在する事物(i.e. 世界)を、水は言語を表していることが分かる。存在する世界は直接見ることはできず、というより、「見る」という一種の観察が入った時点で、世界は何かしら写されたものとして現れざるを得ない。いわば、私たちが捉えようとする世界なるものは須く写しであり、特に、言語という代替物により構成されたものである。この原始的な、私たちと世界と言語との関係を野矢茂樹は「猫は後悔するか」という問題として提起し、その問題に対して否定的に答える7。すなわち、猫は後悔しない。というのも、「後悔する」というのは反実仮想であり、その営みは論理空間を開いている存在のみがなしうることである、しかし、論理空間と分節化された世界と分節化された言語とは厳密に同じ事柄であり、ゆえに、分節化された言語を持たない猫には論理空間が開けないからだ。ここで分節化された言語というのは、言葉遊びができる程度の高度な言語、あるいは、語結合の組み合わせを試行できるような言語と考えてよい。とにかく、私たちは純然たる世界を純なままに、間接的ではなしに、観察することはできない。それはすでに述べたように、観察ということがすでに言語による写像機能を含んでいるからであり、私たちは、観察以外に世界を認識するすべを持たないからである。
ゆえに、私たちはすでに世界を構成してしまった後から知的活動を始めなければならない。したがって知識を得るとか、そのためのプロセス(ex. 研究する、学習する)はすでに構成されている世界(i.e. 所与 X)を切り貼りし、新たに秩序付けたところの新世界をつくること、すなわち、世界の再構成であると言わなければならない。そして、論理というものが自覚的にせよ非自覚的にせよ A→B を扱うもの、つまりは含意を引き出すものである以上は野矢が指摘するように、私たちは「四六時中推論をする」ような論理的な存在なのである。8
述語論理は「本質」と「存在」の結合を写し取る
すでに繰り返し述べているように、私たちは知的活動を開始する前から、水に写した太陽を、言語に写した世界を構成しているのであり、それを世界了解とし、また、その構成の中に組み込まれて生きている。それほどまでに言語の働きは原始的・アプリオリ的で根深いものである。もし、生きている主体のうち論理を司る働きを意識と呼ぶなら、私たちの意識は言語と癒着しているように一見見える。しかし、必ずしもそうではないことが井筒俊彦『意識と本質』で語られる。サルトルの事例に見るように私たちは時折、言語脱落なる現象を体験する。しかも、ある種の「意識」でもってそれを受け止める。
「存在」の深淵を垣間見る嘔吐的体験を描くとき、サルトルが、この「存在」啓示の直前の状態として言語脱落を語っていることは興味深い。
「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向かって坐っていた。」
絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。9
言語が抜け落ちている、世界を分割し切り取る線が引かれていないのに成立している意識がここでは示唆されている。であるなら、私たちの意識は一体どのようなものであるのか。もとよりそれは、多層的なものであると、井筒は指摘している。表層的な意識(i.e. 顕在意識)と深層的な意識(i.e. 潜在意識)、東洋哲学ではその深層意識が開拓されている。井筒は言語の分節化機能と意識の多層性の観点で複雑広大な東洋哲学の世界を三つの類型に分類した。その分類の際に基準となるキーワードが「本質」である。すなわち、「本質」を認める立場の思想潮流の中で、それを受け止める意識の層のちがいによって、東洋哲学を共時構造化しようとしているのだ。ところで、この「本質」というのが、命題論理を拡張させたところの述語論理に意外な喰い込みをしているように私には見えるのだ。そのことを説明するために、まず「本質」について明らかにしておかなければならない。
「本質」とは一体何だろう。『意識と本質』の中で井筒は「本質」という語を西洋中世哲学の術語 quidditas に対応する語として用いる。quiditas はアリストテレスの「本質」 τὸ τί ἦν εἶναι およびイスラーム哲学での māhīyah に当たり、それらはいずれも「それは・何であるか・ということ」の字義となる。つまりは今日でいう「定義」に相当する。例えば道端を指さし「あれは何?」と聞く。それを知っている人なら「ああ、それはリンドウだよ」と答える。そこで世界からある一部を切り取り、「リンドウが咲いている」などという。ここでこの「リンドウ」という語が一般者あるいは集合として使われていることに注目したい。リンドウを「秋の花の中で最後に咲く紫色の花」と言ったり、あるいは、もっと厳密に学問的な定義ができるかもしれないが、いずれにせよ、唯一この一輪が当てはまるのではなく、周りに目を遣ればたくさんのリンドウが咲いている。目の前のただ一輪のリンドウは「リンドウ」の定義を満たす集合の一成員にすぎない。しかし、このリンドウは他のどれでもない、唯一一回限りのものとして「存在」しなければ、集合の一成員にもなれないのである。一般者としてのリンドウ、つまり、リンドウの「本質」はある「存在」をリンドウたらしめるが、定義だけでは一輪の花をも咲かせることはできない。そこには唯一一回性をもつ「存在」の原理も必要だ。このように見ていくと世界が二つの性格を私たちに示していることが分かる。すなわち、世界は「本質」の原理と「存在」の原理を併せ持っている。「リンドウが咲いている」の「リンドウ」は、まず、何ものかとしてこの世界にただ一個のものとして「存在」しなければならない。その上で「本質」がそのものを「リンドウ」たらしめているのである。このことをイスラームの哲学者は、「本質」をマーヒーヤ、「存在」をフウィーヤとして語った。つまり、世界は、もちろんそこから切り取ったところの記述文も、マーヒーヤとフウィーヤとの結合である。
さて、私たちは「本質」の述語論理との関連を調べたいのだった。以上で述べたマーヒーヤとフウィーヤという術語を使えば、述語論理は次のように説明できる。すなわち、述語論理は P : マーヒーヤと a : フウィーヤの結合として世界を写し取ろうとする。命題論理ではこれまで、たとえば「モーツァルトは天才である」という命題を単に A などと記号化し、その記号は世界がまさしくそのとおりであるなら真、そのとおりでないなら偽の真理値を有していた。しかし述語論理ではさらに文中の語結合に注目する。この例文では、唯一一人の「存在」、すなわちフウィーヤとして「モーツァルト」を小文字 a で記号化し、「天才」というマーヒーヤを大文字 P で記号化し、二語の結合として Pa と表現する。ここでマーヒーヤに当たる部分が述語「・・・は天才である」なので、述語論理と呼ばれている。では「リンドウが咲いている」は記号化するとどうなるのか。ここでは「リンドウ」が述語に当たるのだということに注意しないと間違えてしまう。というのも、「リンドウ」というのは「本質」、マーヒーヤであって、述語論理では述語の扱いになるからだ。ゆえに、たとえば「リンドウ」を G とし、「咲いている」を B とでも記号化しておこう。すると「リンドウが咲いている」は「あるものが存在して、それはリンドウでもあり、咲いてもいる」という風に述語論理が世界を写し取ることに気づくだろう。したがって記号化すると、
∃x ( Gx ∧ Bx )
となる。以上が述語論理の、「本質」論の立場からの見直しである。もちろん、命題論理を拡張したものが述語論理であったから、世界の再構成力は保持したままである。このように述語論理は世界の「本質」原理と「存在」原理を自然に写し取った上で世界を再構成し、よって知識を生成するのである。
- 清水義夫. 2013. 『記号論理学講義 基礎理論 束論と圏論 知識論』東京大学出版会, 349 ↩︎
- 川喜田二郎. 1986. 『KJ法ー渾沌をして語らしめる』中央公論社, 33 ↩︎
- 脚注 2 , 242 ↩︎
- 清水義夫. 2007. 『圏論による論理学 高階論理とトポス』東京大学出版会, 10 ↩︎
- 佐藤良明. 2022. 『英文法を哲学する』株式会社アルク, 218 ↩︎
- 松永雄二 訳. 1975. 「パイドン」『プラトン全集1』岩波書店, 290-291 ↩︎
- 野矢茂樹. 2011. 「猫は後悔するか」『語りえぬものを語る』講談社 ↩︎
- 野矢茂樹. 1994. 『論理学』東京大学出版会, 9 ↩︎
- 井筒俊彦. 1983. 『意識と本質』岩波書店 ↩︎