あなたはもしかしたら存在しなかったのかもしれない ~茨木のり子『歳月』を読んで~

死ぬことは必ず二人称として現れる、そんなことを『バカの壁』で知られる養老孟司は言っていた1。三人称の死、自分のよく知らない人の死は与り知らないし、知ったとしても死者〇名と数字に計上されてしまうような死である。一人称の死は、それを体験することができない。仮に体験したとしても、その体験譚を共有することはできない。私たちが向き合うところの死というのは、いつも二人称の死、平たく言えば、親しい人との死別である。ところでもし親しさというのが何かスタンプとしてあるなら、私たちはそのスタンプを捺された分だけ捺してきた人との死別を痛切に受け止める。その最たる例が夫婦ではないだろうか。

私はこれから、茨木のり子の『歳月』についてコメントしようと思う。この詩集は、銀婚の日もすぎて未亡人となった詩人が綴った詩である。しかし私は、この詩についてコメントすることに二つの理由でためらっている。一つは、詩に対してコメントするということがそもそも野暮ではないかということだ。もう一つは、独身の男が、まだ愛の秘儀に参加していないものが、愛や夫婦について語る資格があるのか、ということだ。後者についてはもう開き直ろうと思う。たとえ男女のことについてとんちんかんなことを言って笑われても、恥ずかしい思いをするのは私だけで済むから。前者について、詩というのは各々が各々の感受性で受け取って味わえばいいものである。ただ私は、その感受性にもある程度の共通性、人間として生きているゆえの相互理解があるように思っているし、それが共通言語になりうるとも思っている。また、感受性の差異があるならば、そこにこそ、より深い詩への理解があるのではないだろうか。したがって私は、笑われる覚悟とより深い詩の理解への希望とをもって後に続く文章を書こうと思う。

先に、死は二人称として現れること、そして親しさのスタンプのことを書いた。死は親しさから生まれ、その親しさの度合いが強いほど死は人を困惑させるものとして現れる。まだうら若い女性だった詩人はこのことを新婚の夜に予感した。

セクスには
死の匂いがある

新婚の夜のけだるさのなか
わたしは思わず呟いた

どちらが先に逝くのかしら
わたしとあなたと2

「どちらが先に逝くのかしら わたしとあなたと」という詩句を読んで、この会話が夫婦間の典型的な発話なのだということに今更ながら気づく。思えば夏目漱石の『こころ』でも先生と奥さんとがそういう会話をしていた。

生きることは死につつあること、という文句を時折耳にする。しかし夫婦に関してはこれに付け加えて、夫婦ともに生きることは別れつつあることと言えないか。「セクスには死の匂いがある」から始まるこの詩は「その時が 生木を裂くように」という行で結ばれる。ここで「その時」というのは「銀婚の日もすぎて 遂に来てしまった」という前連の主語となるものである。

しかし、お別れの日が来てしまったとき、その人との関係は果たしてそこで終わるのだろうか。もとよりそれは、そうではないことが親しさのスタンプによりありありと知らしめされる。

ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだやかに
執拗に
わたくしの全身を浸してくる3

「からだのあちらこちらに 刻されるあなたのしるし」とある。「刻されたしるし」ではない、「刻されるしるし」である。現に無視のできない効力をもつしるしとして「全身を浸してくる」のだ。しかもこのしるしが、ただの「あなたのしるし」なのではなく、親しみの、愛のしるしであることも同詩から分かる。

どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることも
これが別れなのか
始まりなのかも
分からずに

またもっと踏み込んでいくと、スタンプはただ全身に捺印されるだけではないことが後の詩篇で分かってくる。

朝な朝な
渋谷駅を通って
田町行きのバスに乗る4

その道、渋谷駅の通路の道すがら詩人は思う、

このなかに
あなたの足跡もあるのだ
目には見えないその足跡を
感じながら
なつかしみながら
この駅を通るとき

もはや「あなたのしるし」、愛されているしるしは「あなた」を連想するすべてのものに捺印されている。スタンプされ、それらが「ふわりとした重み」をもつ、リアリティのあるものとして「わたし」を浸してくる。詩人は困惑する。人生全体に捺された親しみのスタンプに体がけだるくなる。しかしその困惑の種は、愛の捺印のみにあるわけではない。これだけのありありとした実感を伴っているにもかかわらず、その捺印をする者がもはやこの世に居ないことである。

詩人の夫はすでに形のない者となった。形はないが、しかし、なにか流れるようなものとしてはあるのではないか。それは例えば、「純粋の原酒(モルト)」のように。

肉体をうしなって
あなたは一層 あなたになった
純粋の原酒(モルト)になって
一層わたしを酔わしめる

恋に肉体は不要なのかもしれない
けれど今 恋いわたるこのなつかしさは
肉体を通してしか
ついに得られなかったもの5

詩人の感受性は、命の形の有無へと向かっていく。思えば誰しもがもともと形の無い者だったのであり、それが有へ変わり再び無へ帰っていく。私たちはその有にしかなかなか関心を寄せないけれど、形の無いときこそ本来の私たちの姿ではなかろうか。形を失って人は一層その人になる、しかし、その人から寄せられる愛は形の有るときにしか刻印されないことも分かるのである。詩人は「かかる矛盾の門を惑乱し 涙し」つつ通ってゆく。そしてより純粋な存在の在り方、その真実を垣間見るのである。

あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気(き)がすうっと流れただけで6

親しみの刻印をする者がいなくなったと思っていた、別れた、引き裂かれたものだと思っていた。しかし、もしかしたら、本当はそもそも存在していなかったのではないか。しかもそれは「あなた」だけではなく「わたし」にも、あるいは生きとし生けるもの全体にも言えることなのではないか。

ただ透明な気と気が
触れあっただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消え失せてゆくような

しかしそれでは、形の無い命は、形が無いといえど存在しているならば、それはどこに住まっているのだろうか。それは詩人曰く「とてつもなく蒼いイノセントの世界7」である。詩人はその蒼い世界への旅を企てる。どうしたらそこへ往けるだろうか。それはあるいは、「夜の庭」に、「金木犀」が咲くころに「回転扉」として現れてくるかもしれない。

夜気に漂う馥郁の花の匂いに誘われて
あの世とこの世の境の
透明な秋の回転扉を押して
ふらり こちら側にあらわれないでもない8

「透明な秋の回転扉を押して」「こちら側にあらわれないでもない」人は、いうまでもなく夫のことである。ヘアトニックとシェービングローションをしばしば間違えて振りかける、ぼんやりとしたところのあった夫は、花の香に誘われてこの世に現れるかもしれない。その時が来たなら、きっと「わたし」もあちらの世界へ往くのだ、詩人はそう決意する。

隙をみて
やおらあなたの兵児帯(へこおび)をしっかり掴み
いっしょにくるりトンボを切って
今度こそいっしょに行くのです

このように見ていくと茨木のり子の『歳月』は、親しみから出発して、死を通り、私たちの本来の姿、「とてつもなく蒼いイノセントの世界」に住まう「気」へ至る一筋の旅であると言えないだろうか。その旅路が「天下国家に向けられていた眼が、愛する一人の男性に向けられたとき9」の詩情により掬い取られたのである。

さて、この旅路が老齢の一人の女性詩人により示されたことはすでに述べた。しかしこの旅路は、類まれな感受性の持ち主だけが歩める道だろうか。私はそうは思わない。その道のりを歩んだ先輩たちは沢山いたし、これからも多くの人が、この旅をしていくのだろう。茨木のり子自身もその道の後輩であった。というのも、古歌があるからである。

古い友人は
繃帯(ほうたい)でも巻くように
ひっそり言う
「大昔から人間はみんなこうしてきたんですよ」10

愛の道もその途上の困惑も詩人の専売特許ではない。ふつうのひとがふつうに通ってゆく道なのだ。その上で茨木は言う、

わたしの貧しく小さな詩篇も
いつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか

私は冴えない独身男である。しかしやはり、この詩篇に濯われたからこそこの思いを共有したくなったに違いない。

  1. 落合陽一『落合陽一 34歳、「老い」と向き合う 超高齢社会における新しい成長』(2021, 中央法規出版)の序章【特別対談 養老孟司×落合陽一】より ↩︎
  2. 茨木のり子「その時」、『歳月』(花神社、2007年)所収。引用は谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波書店、2014年)。他の詩も特別に注がなければ同書から引用している。 ↩︎
  3. 茨木のり子「夢」 ↩︎
  4. 茨木のり子「駅」 ↩︎
  5. 茨木のり子「恋唄」 ↩︎
  6. 茨木のり子「(存在)」 ↩︎
  7. 茨木のり子「道づれ」 ↩︎
  8. 茨木のり子「夜の庭」 ↩︎
  9. 脚注 2. の『茨木のり子詩集』における谷川俊太郎の前書きより ↩︎
  10. 茨木のり子「古歌」 ↩︎

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