恋は紫色をしている ~夏目漱石『こころ』を読んで~

プラトン『饗宴』を読むとき、彼は自分の対話劇が私に読まれることを想像していただろうか、と思うことがある。きっと想像していただろうと私は推量してみる。プラトンは、ソクラテスという師に出会った。プラトンの視点から描写されるソクラテス像のことをプラトニック・ソクラテスといい、淡々と歴史的事実により描かれるヒストリカル・ソクラテスとは区別されるが、さて前者のソクラテス像の内容はプラトンによれば「非常に神々しく、黄金のごとくに、また限りなく美しくかつ驚嘆すべきもの」1であった。プラトンは師に対してこのような感想を抱いていた。厳密にいえばこのソクラテス像の描写は作中のアルキビアデスの言ではあるが、自分では全く尊敬の念を寄せていないのにアルキビアデスにそのような台詞を割り当てるというのは考えづらい。人は美しい人や物、出来事に出会ったとき、それをただその場限りのものとして受け取ろうとしないだろう。願わくばその美しい思い出を保存して繰り返し味わい、あるいは、友人とも分かち合おうとするはずだ。プラトンはソクラテスとの思い出を保存して誰かと分かち合いたかったに違いない。その「誰か」というのは、世界中にたくさんいるだろうけれど、それは例えば私であり、あるいは夏目漱石である。

「ああ、漱石は『饗宴』を読んだのだな」と私の勘づいた箇所が『こころ』の「先生」の言葉にある。

とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ2

引用の前後を知りたい場合は青空文庫で『こころ』が読めるのでそちらを参照されたい。ただ、とりあえずは、全文を読まなくてもこの記事は読めるはずである。

恋は罪悪であり、かつ、神聖でもある。『こころ』という作品は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部に分かれていて、第一部に提起される先生の謎が最終部の先生の遺書において答えが明らかになってくる、という構図をしている。ゆえにこの台詞が第一部に登場してきて、解かれるべき謎として、矛盾しているけれども何か深淵なものに見えても何ら不思議ではない。その謎は遺書で答えが出てくると予想できるからである。しかしその答えを読んだとしても、もし『饗宴』を読んでいないなら、この謎解きに成功しないと私は思うのである。『饗宴』における恋を知らなければ、「今の妻に対して、学生時分に恋をした先生が、恋ゆえに盲目になって親友 K を裏切った、そうして罪悪感に苛まれて死に至った」という読み方に、往々にしてなってしまう。しかし先生の言ったのは違う。「恋をする人は罪を犯してしまう」ではない、「恋そのものが罪悪である」と言っているのである。それでいて同時に神聖であると言っているのだ。しかしそれでは、罪悪でもありかつ神聖でもあるところの恋とは一体何なのだろうか。もとよりそれは『饗宴』を知っている人にとっては何ら謎ではない。恋者エロスは美しいものと醜いものとの中間者であるからだ。

ところで、すでに私は漱石が『饗宴』を読んでいたというのをあたかも確定した事実のように話を進めてきた。このことについて、何らそんな証拠はないではないかと思われる人もいるだろう。ただ実際は、漱石の手書きのノートに『饗宴』の書き抜きが見つかっており、東北大学の総合知デジタルアーカイブに保存されている3。よって事実はあるのであって、さらに言えば、漱石は書き抜きをするくらいに『饗宴』に感銘を受けたのだろう、というところまで高い確度で推測することもできるのである。

さて、恋者エロスは美しいものと醜いものとの中間者であると先に書いた。しかし、それはどういうことだろう。それを知るためには『饗宴』を見ていくしかない。

『饗宴』はプラトンの他の対話篇でも見られるように二重伝聞の構成をとっている。ある日、悲劇詩作家のアガトンが詩の大会で優勝した。その祝勝の宴が連日開かれたのだが、その内の一日にソクラテスも出席していた。その時に語り合われたことを会に出席していたアリストデモスがアポロドロスに語り、時を経てさらにアポロドロスがその友人に物語る、という形式をとっている。このように複数の伝聞を通ることによって些末なことは忘却によって落ちていき、重要なことのみがハイライトされる。また、たとえ万一ソクラテスの発言に誤りが見つかっても、それに対する批判からは伝聞のベールによって守られることになる。そういった形でプラトンはソクラテスとの思い出を保管していたのだ。

では伝聞のベールをめくってソクラテスの出席していた饗宴での議論に入っていこう。出席者たちは連日の酒宴に疲れて、今日は互いに無理強いして飲ませる会ではなく、何か議論に花を咲かせようということになった。そのテーマに選ばれたのが恋の賛美である。古代ギリシアの神々には讃美歌や謝恩歌がつくられているのに「古くて偉大な愛の神エロス」のためには何ら頌歌がつくられていない。ある人は塩に対してさえその実益を誉めて詩をつくったこともあるのに、これでは大変不都合ではないか。「恋神」エロスを褒め称える言論を、テーブルの右廻りの順でしていこう、となったのである。

ちなみにここで、エロスが「恋神」なのか「愛神」なのかということが、つまりは恋と愛との違いというのが当然気になってくるが、これは古代ギリシア語の ἔρως を現代日本語に翻訳すると「恋」と「愛」のどちらにどのように対応していくのかという話になって、それだけで別にタイトルを立てて考えるべき問題だろう。差し当たっては、恋と愛とは相互に読み替え可能なものとして約束しておく。

さて、テーブルに座を占める論者のうち『饗宴』に出てくるのは 6 名。すなわち、

  • ファイドロス
  • パゥサニヤス
  • エリュキシマコス
  • アリストファネス
  • アガトン
  • ソクラテス

である。恋の讃美はこの順に為されていくのだが、やはり、最大の関心事はソクラテスが何を言ったかである。もちろん、ソクラテスの説はそれよりも前の論者の説を踏まえて行われるのであり、ゆえにファイドロスからアガトンまでの論をも押さえておきたいが、このことについては、もし興味があるなら、過去にまとめた記事があるのでそちらを参照されたい。

ソクラテス以前の論者の主張は総じて「恋神エロス」の偉大さを盛大に褒め称えるものであった。いわく、恋はその優美さでもって宇宙全体を調和させるのであり、それは美に向けられている。すなわち、恋は美への欲求であって、その神聖な営みに与ってこそ神々の世界も、したがって人々の世界も統治されてゆくのであると。

いかにももっともらしく聞こえる。また、恋は美しいものへ向けられる、例えば、美しい人へ向けられるというのも納得できるだろう。ソクラテスもそこに関しては同意した、確かに恋は美を欲求するものであると。しかしそうであるならば、とソクラテスは言う。もし恋が美の欲求であるならば、恋者エロスは神ではない。

というのも、欲求というのは本来、所有していないものに対する感情である。すでに持っているものを欲求するということはないのである。ここで異議を唱える人がいるかもしれない。例えば、現に健康な人が健康を求めてジムに通うということがありそうじゃないかと。ほかにも、すでに持っているものを欲求することがありうるのではないかと。しかし、その人が言っているのは、すでに持っているものを未来においても所有していたい、ということだろう。すでに健康なのにエクササイズする人というのは、今ある健康を維持したい、つまり、今の健康を未来においても所有したいということに他ならない。つまり欲求というのは、現在において欠けているもの、あるいは、未来において失われるかもしれないものを所有する方向へ人を駆り立てる感情である。ゆえに、あるものを欲求する者はまさにそのものを欠いている。

恋者エロスは美を欲求するものとして讃美された。したがって、美を欲求するということは、エロスは美について欠如しているのである。果たして美に欠いているもの、美しくないものを神と認めることができるだろうか。それはできない、とソクラテスは言う。ソクラテスのみならず、饗宴の出席者もそれは認めなかった。思うに、古代ギリシアにおいて、神は永久不変の真善美の所有者として認められていたのである。

美しくないのだとしたら、神ではないのだとしたら、エロスは人間に比すべき滅ぶべき、醜い存在なのだろうか。否、そうではないし、そんなことを言うのは不敬虔である、とソクラテスは言う。いやむしろ、そう主張するのはディオティマである。

ディオティマというのは一体何者か。『饗宴』の中に出てくる人物に対しては、その人が実在したのかどうかに関心が寄せられることがあるが、この人についてはよく分かっていないらしい。しかし作中では、ソクラテスに恋を教えた外国人の女性として、彼女はソクラテスの回想に登場し、ソクラテスはディオティマが教えてくれたことを再び物語るという体を取っている。いわば、ソクラテスのエロス讃美はソクラテス説というより、ソクラテス・ディオティマ説である。

ソクラテス・ディオティマ説によれば、エロスは神のように永遠の絶美でもないし、人間のようなか弱い、あさましい存在でもない。エロスはその中間であって、神霊(ダイモーン)と呼ばれるものである。

神霊は人間と神々との間隙を充たすメッセンジャーであり、人間から神々へは祈願と犠牲を、神々から人間へは命令と報償を伝達する。これにより神々と人間との通信が行われ、万有は調和するものとして現れる。ゆえに、ソクラテスは、恋は宇宙を調和させるものであるという前段の主張自体は認めるのだ。

しかしエロスは、恋は、美しい者ではない。それは、美を欲求しているのだから、したがって、美を欠いているのだから。しかしかといって、醜いというわけでもない、なぜなら、本当に醜い者というのは、美を欲求するということもできないからである。というのも、美というものが一体何であるのか、それを全く知らない者というのは、それが欠けているということすら分からないのである。それは例えば、無知な人のやっかいなところが、自分が知に欠けているということすら認識できずに知の探究へ歩めないことであるように。したがって恋は美と醜の中間者である。それは美しいとも醜いとも言える。つまり恋は、自分には美が欠けていると思えるほどには美しいが、まさに美が欠けているので醜いのである。

ここまでプラトン『饗宴』の理解が進めば、漱石『こころ』の先生の発言はもはや謎ではない。恋は罪悪でありかつ神聖である、というのは、罪悪は醜に、神聖は美に対応している。たしかに先生は一面美しい人であった。親友の K とはともに哲学・思想界に志を持ち、ゆくゆくは一角の人物であろうと誓い合った。また、将来妻になるお嬢さんに対する恋心は「肉の臭」を帯びない純粋無垢な思いだった。しかしその恋心が、その恋ゆえに、人間の醜さを露呈させることになる。K の恋心が先生の想い人である御嬢さんに向けられていることを知るや先生は激しく嫉妬した。その嫉妬を自分では片づけられない中、K から御嬢さんへの恋心を打ち明けられた先生は、だまし討ちのような形で御嬢さんとの結婚を取り決めて K を出し抜くことになる。過去に叔父から財産をごまかされて、人間というのはまったく浅ましく醜いものだと思っていた先生は、自分自身がまさに、その醜いものではないかと気づくのである。しかし醜さは恋から生まれたものだった。ゆえに、恋するものが罪を犯す、というのではない。恋というものは罪悪と神聖とをすでに両方とも備えているのである。

このように見ていくと、恋というものをプラトンはその神聖性として捉え、他方、漱石はそれを罪性として捉えたのだと言えそうである。というのも、プラトンはのちの論理展開として、恋の神霊エロスを真美到達のための助力者として讃美したが、漱石は恋をして K と先生に人間のつまらなさや醜さを見せしめて、二人を淋しさの裡に死に往くものとして描いたからである。

当然のことながら恋のどちらの方向への展開が正しいというわけでもない。本来的に恋というのはプラトンの描いたソクラテス・ディオティマ説のように神々しく美しいものでもありえるし、漱石が描くように嫉妬深く、醜いものとしても現れる。それはちょうど赤に青を重ねれば紫になるように、恋は中間色としてある。このように考えてみると、もし恋が目の前に立ち現れたなら、それは紫色をしているのではないかと思う。プラトンはそれから赤の成分を抽出し、漱石は逆に青の成分を取り出したに過ぎないのだ。

  1. プラトン『饗宴』(岩波文庫) ↩︎
  2. 夏目漱石『こころ』, 青空文庫 ↩︎
  3. 東北大学総合知アーカイブ, プラトンの『饗宴』の書き抜き,
    東北大学総合知アーカイブ ↩︎

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