未来についての基礎と実践

私はこれまでにいろいろな問題解決技法を探求してきた。それは、誰よりも怖がりだったからだと思う。これから先の人生どんな困ったことがあってもそれを乗り越えられるだけの力、工夫、たとえて言うなら、スペードのエースのようなものを持っていたかった。

そうしたときに、個々の問題をその都度解決していてはダメだと私は思った。むしろ問題のイデア、何ものかがある条件を備えた時にそれが問題である、といわれるところの条件こそ問題の共通性であると考えた。

さて、それは一体何だろうか。もとより、それこそ今回のエッセイの構成素の一つであり、それは、ありたい状況と今の状況との差異であると考えらえれる。

本当はこうありたいのに現にそうでない。問題というのは当然、悲観調を帯びる。したがってごく自然に、問題解決とは何か、ということも明らかになってくる。それは悲観的な「今のこの状況」から、理想的な「あの状況」への移行である。ゆえに問題解決というのは未来に属することである。というのも、理想的な「あの状況」というのは現前していないのであって、もしこの世界に立ち現れるとしたら、それは未来においてでしかあり得ないからだ。

問題解決は必ず未来に向けられている。ではその未来とは一体何だろう。そう考えると、私はちょっと答えに困る。しかし大胆に、「未来は存在しない」と言ってみようと思う。まだ存在しない世界、これから新たに生成されゆくだろうという予感が未来である。

しかしこの予感が暗い方向に向かっていることこそ問題の問題たる所以じゃないか。今のひどい状況がもっとひどくなりそうだと思うときに、人はなんだか嫌な気持ちになってくる。

ではこの方向をもっと明るい方向へ寄せることができないだろうか。このことを考えるために二つの用語を導入したい。それは自由と物語である。

最近私は、野矢茂樹の『自由への哲学的探求』1という本を読んだ。実は、「未来は存在しない」というのはこの本から得た考えである。未来は存在していないからこそ自由が成立しうる。というのも、何か自由に為した行為というのは、その行為がまだ未来のことだったときには実際にどうなっていくかは分からなかったのであり、他方、もはやその行為が過去になっているときには、「どうしてそうしたのか」その理由が問えるものとしてある、そうした性質のものである。前者において自由は未来へのまなざしのもとに必然性から逃れ、後者においてそれは過去へのまなざしのもとに偶然性から逃れている。野矢は、錯覚ではない、真の意味の自由が未来のまなざしと過去のまなざしが交差するところにあると言う。

さて、私は、あるいは私たちは、この自由に立脚しよう。明日がどうなるかは分からない。暗い予感も明るいそれもまだ何も決まっていない。どうするかは自由である。そうして問題解決が終わったときには「どうしてそうしたのですか」と理由が問われその意味を答えられるようなこれからの行為、問題解決が私たちの決断を待っているものとして目の前にある。

以上が問題解決に関わる自由について。では、物語はどう関わってくるのか。繰り返しになるが、未来は存在していない、していないからこそ自由がある。では、存在していない事柄に関してあれこれ言及するというのはナンセンスなのだろうか。もしソクラテスがいたなら、こんなことを聞かれるのではないかと想像する。「君は何ら存在しない事柄について何かを語ろうとすることが可能だと思うのかね。」それに対してきっと私はこう答える、「ええソクラテス、それは可能なのですよ。もしあなたが、神話について思いを馳せることを無意味なことと感じていないならば。」

ところで私は高校生のときに、ラグビーの先輩が「次の瞬間には死んでいるかもしれないと思って今を生きよう。今この瞬間を全力でプレーしよう」と語ってくれたことを思い出す。また、『嫌われる勇気』を読んだときに、ただひたすらに今をダンスするのだ、と書いてあったことをも思い出す。未来は存在していない、今しかないのだ、という言葉は、今を愛そうという気持ちを応援してくれる。

たしかに私はそう思って生きてきた。ただそうすると、未来だとか、あるいは計画というものをどう扱えばいいのか分からなくなってしまう。存在しないものを語ることはすべて無意味なのか。何ら存在しないものを語ることはナンセンスなのか。

しかしそれは意味あることである、あるいは、面白いことである。というのも、存在しないものは物語として語られうるのだ。

古代ギリシアに雷鳴轟くゼウスを頂点に神々の世界が組織された。切り落とされた神の男根が水に落ちてその泡からアプロディーテが生まれたとする珍話もある。そのことについて私はソクラテスに問うてみたくなる。「ソクラテス、あなたの信奉するアポロンもヘレネの神々も、果たして存在すると言えるのですか。いつ見ても、どの方向から見ても変わることのない真実在は現にあるのですか。むしろ私はこう思うのです。異邦人である私も興味深く受け取っている神々の物語は、まさに物語の中に語られるだけで、現実には存在しないのです。存在しなくとも、いやそうだからこそ、物語を語ることに価値があるのだと、そう思っています。」

例えば私はアニメが好きだ。しかしそのアニメの世界が残念なことながら現に存在しないことも知っている。ハチワレもルーデウスも暁美ほむらも本当にはいないことを知っている。それらは存在しない、しかし、それらは語られうる。

計画もそうである。こういった仕事がしたい、この大学に入りたい、売り上げをここまで上げたい、5年後には、10年後には、あるいは死ぬときはこうありたい…すべて今はまだ存在しない世界である。存在しないが別に語ってもいい。計画は物語である。

物語を描こう。「人間は計画する葦である」と加藤昭吉は言った2。それならば、「人間は物語する葦である」と言っても良さそうではないか。私たちは自由であり、自由に物語を描ける。

さて、問題解決、未来、自由、物語ということが一応一つの線で、それはか弱く頼りない線だとしても、つながったとしよう。では次に気になるのはきっと、その物語をどう描くのか、ということだろう。このことについていえば、先に名前を出したように加藤昭吉が海外からインポートしたPERT3というのが一つの計画技術ということになってこよう。PERTは明快な数学的基礎の上に築かれている。物語、あるいは計画を構成するのはやはり、どこまでいっても何かしらの活動、言い換えるとアクティビティである。アクティビティには開始条件と終了条件があって、それを論理的につないでいけば一つの大きなまとまりのプロジェクトが立ち現れてくる。しかもどのアクティビティが一番ネックとなりうるかというルート、クリティカルパス、も計算できるので、全体を見失わずに要領を得た手順を考えることができる、そういう効果が期待される。

しかしPERTは物語を描くというよりまさに計画といった方が良く、論理的により正確な手順を導き出すという性質が強いように思う。そうではなく、あるいはPERTのもう一段階前に、より自由な発想で問題解決シナリオを描き出す技術があってもいいと思う。そしてそれは、私にとっては、フューチャーマッピングである。

フューチャーマッピング、略して「FM」、は神田昌典が創案したもので、元は神話の構造から物語を「はじめ・なか・おわり」の構造をもつものと定義し、三幕構成をつくると物語が簡単に描けることを見出した4。

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またそれぞれの幕にもポジティブな面とネガティブな面があることに注目し、幕を上下に分割する。そうしてできた 6 つのマスに物語を描いていくことになる。さらにこのフレームに対し、右上の幸福な未来から左下の現在に対して曲線が描かれ、そこに現れた山谷こそ物語の豊かさを表現しているのだと神田は説いた。興味深いことに、自由について先に述べたときに引き合いに出した野矢も、自由な行為の意味を、可能な障害と調整の物語だと述べており、これはまさに、谷へ下がっていく流れが障害、山へ登っていく流れが調整であると言えないだろうか。

もちろん、これだけの簡単な記述でFMの技術を説明したとは思わない。このことは今まで引き合いに出したいちいちの書籍の内容についても同様である。ただ私としては、未来や、あるいは自由についての基礎と実践が結びついたこと、野矢の自由論と神田の物語論とが連絡したことが心から嬉しかったのだ。私が今回読者に伝えたかったのはこの喜びだった。読者にはこの喜びをより濃やかなものにしてほしいので、参考書籍を並べてこの記事を締めようと思う。

  1. 野矢茂樹『自由への哲学的探求』(岩波書店, ©2026) ↩︎
  2. 加藤昭吉『「計画力」を強くする』(講談社, ©2013) ↩︎
  3. 加藤昭吉『計画の科学』(講談社, 2013) ↩︎
  4. 神田昌典『ストーリー思考』(ダイヤモンド社, ©2014) ↩︎

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