「回収不能性」から読む空蝉から浮舟へ
『源氏物語』に描かれる女性たちは、多くの場合、男性との関係の中に置かれている。光源氏に愛される女性、妻となる女性、あるいは誰かの娘や母となる女性として、彼女たちは欲望、婚姻、家、血統などの関係によって位置づけられる。しかし、そのような関係によって女性の存在が完全に説明されているかといえば、必ずしもそうではない。
空蝉は光源氏の求めから逃れ、夕顔は男女関係の途上で突然失われ、紫の上は光源氏の人生に深く組み込まれながらも最終的には彼の手の届かない存在となる。女三宮においては、婚姻によって形成された家と血統の秩序が揺らぎ、浮舟に至っては、薫と匂宮という二人の男性との関係そのものから離脱する道が選ばれる。
これらの女性を「男性から自由になっていく女性たち」と捉えることは容易である。しかし、それでは『源氏物語』における女性のあり方を、現代的な意味での「解放」の物語へと単純化する危険がある。空蝉は社会から自由になったわけではなく、浮舟の出家もまた、世俗社会からの離脱という大きな代償を伴う。また、夕顔や紫の上の死を、主体的な「離脱」と呼ぶこともできない。
そこで本稿では、女性の「離脱」を、必ずしも女性自身による自由への意思としてではなく、女性が男性との関係によって完全には規定されないことが物語の中に現れる一つの形として捉え直したい。
そのために、本稿では便宜上、独自の分析概念として「回収」という語を用いる。ここでいう「回収」とは、女性を男性の欲望、婚姻、家、血統などの関係の中に位置づけ、その関係によって女性の存在を意味づけることをいう。そして、そのような関係の中に置かれながらも、その関係だけでは女性の存在を完全に説明することができない状態を「回収不能性」と呼ぶ。
本稿の目的は、空蝉、夕顔、紫の上、女三宮、浮舟という五人の女性を、この「回収不能性」という観点から相互に関連づけることである。そして、女性が完全には「回収」されないことが、単なる欠如や自由ではなく、むしろ女性を物語の中に強く残す契機となっていることを明らかにしたい。その文学的な現れを、本稿では「女性の輝き」と呼ぶ。
一 先行研究と本稿の視点
『源氏物語』における女性については、男性との関係の中で女性が置かれる社会的、心理的状況を明らかにする研究が蓄積されている。
「女の物語」に注目する研究では、空蝉、紫の上、浮舟など複数の女性を横断して捉え、女性たちが男性との関係の中で自己の位置を意識せざるを得ないことが論じられている。また、女性が男性の後見なしには生きにくい社会的状況に置かれ、男性との関係において「人わらへ」を恐れる存在であることも指摘されている。
紫の上については、光源氏との関係を単純な夫婦関係としてではなく、二人の相互理解の困難さという観点から捉える研究がある。そこでは、二人が互いに相手に深く結びつきながらも、他者の内面を完全に理解することはできないという問題が、物語の展開を生み出すものとして捉えられている。
また、婚姻研究の観点からは、紫の上を「妻」という制度的なカテゴリーだけによって規定することの困難さも指摘されている。『源氏物語』においては、女性の社会的な位置を制度上の名称だけによって確定することが難しく、その人物が置かれた具体的な関係や物語上の文脈を考慮する必要がある。
さらに、女性の美的表象についても、それが単純に女性自身の属性として描かれているわけではないことが論じられている。例えば「らうたげ」などの表現は、女性の美そのものだけでなく、その女性を見つめる光源氏の心理や欲望とも深く関係している。
これらの研究は、それぞれ異なる角度から、『源氏物語』の女性が男性との関係、婚姻、社会的地位、男性の視線などによって位置づけられる一方、それだけでは捉えきれない存在であることを示している。
本稿は、これらの問題を「回収」という一つの分析概念によって横断的に捉えようとするものである。すなわち、男性の欲望、婚姻、家、血統などによって女性を位置づけることを「回収」と呼び、それによっても女性の存在が完全には規定されない状態を「回収不能性」と捉える。
この視点に立つと、女性の「離脱」は、単なる男性からの逃走ではなく、「女性を男性との関係の中に位置づけようとする構造」に対して生じるさまざまな亀裂として捉えることができる。
二 空蝉――回収されない女性
「回収不能性」の最初の形として注目したいのが空蝉である。
「帚木」「空蝉」において、光源氏は空蝉を求める。しかし、空蝉は光源氏の求めに応じてその関係の中に収まることを避け、最終的にはその場から逃れる。
この場面において印象的なのは、空蝉そのものではなく、彼女が残していった衣である。
光源氏は女性を求め、その身体を自らの欲望の対象として捉えようとする。しかし、そこに残されるのは本人ではなく、衣という痕跡である。つまり、光源氏は空蝉を完全には「回収」できない。
しかし、空蝉はそれによって物語から消えてしまうわけではない。むしろ、光源氏にとって彼女は、その後も折々に思い出される女性となる。
ここには一つの逆説がある。
女性が男性の欲望によって完全に回収されないことは、女性の物語的な消失を意味しない。むしろ、回収されなかったことによって、その女性は記憶の中に残るのである。
空蝉は、光源氏の「女」になることによって存在するのではない。光源氏の求めに対して完全には応じず、その関係からずれることによって、かえって強い印象を残す。
したがって空蝉における「離脱」は、現代的な意味での社会からの解放ではない。それはあくまで、光源氏による欲望の回収からの離脱である。
しかし、その小さな離脱が、後の女性たちを考えるための重要な原型となっている。
三 夕顔――死による回収不能性
夕顔の場合、空蝉とは異なる形で「回収不能性」が現れる。
夕顔は光源氏との関係の中に入っていく。しかし、その関係が十分に確定される前に、彼女は突然命を失う。
ここでは、空蝉のような主体的な逃走は存在しない。したがって、夕顔の死を「女性の離脱」と直接呼ぶべきではない。
むしろ重要なのは、男性との関係によって位置づけられつつあった女性が、その関係によって完全に意味づけられる以前に失われるという構造である。
光源氏にとって夕顔は、愛する対象であると同時に、なお十分には理解できない存在として残る。
つまり、夕顔の場合には、
回収されないことが「逃走」ではなく「喪失」として現れる。
のである。
ここでは「回収不能性」は女性自身の行動によって生じるものではない。しかし結果として、女性は男性との関係だけでは説明しきれない存在として残る。
また、夕顔の死後、彼女の娘である玉鬘の物語へとつながっていくことも重要である。夕顔という女性は死によって消滅するのではなく、その存在が別の物語を生み出す契機となる。
この意味で、夕顔は「回収不能性」が女性の不在そのものによって物語を持続させる例である。
四 紫の上――最も深く組み込まれた女性の喪失
空蝉と紫の上を並べると、「回収不能性」の意味がさらに明確になる。
空蝉が光源氏によって十分に回収されなかった女性であるとすれば、紫の上はむしろ、光源氏の人生に最も深く組み込まれた女性の一人である。
幼少期から光源氏との関係を形成し、長い時間をともに過ごし、六条院の秩序の中でも重要な位置を占める。彼女は光源氏にとって極めて近い存在である。
しかし、近いことと、完全に理解できることは同じではない。
紫の上は光源氏の人生の中に深く組み込まれていながら、その内面を完全に光源氏へと開く存在ではない。そして最終的には、死によって光源氏の手から失われる。
ここに、空蝉とは反対方向から現れる「回収不能性」がある。
空蝉は、最初から完全には回収されない。
紫の上は、極めて深く回収されたにもかかわらず、最後まで完全には回収されない。
つまり、
「近くに置くこと」と「完全に捉えること」は同じではない。
このことが紫の上によって明らかになる。
むしろ、女性が男性の生活に深く組み込まれているほど、その女性を完全に理解し、保持することの不可能性が際立つ。
したがって紫の上の死は、単なる一人の女性の死ではない。それは、男性が女性を自らの生活、婚姻、家の中に位置づけることによっても、女性の存在そのものを完全には回収できないことを示す。
五 女三宮――婚姻と血統の攪乱
女三宮において、「回収不能性」はさらに別の形を取る。
女三宮は光源氏との婚姻によって、六条院の秩序の中に組み込まれる。
ここでは女性の位置づけが、単なる男女の恋愛関係を超えて、家や血統の問題へと広がっている。
しかし、柏木との関係によって、その秩序には大きな揺らぎが生じる。
女三宮から生まれた薫をめぐって、社会的な父としての光源氏と、実際の父である柏木との間にずれが生じる。
この問題を単純に「女三宮が男性を裏切った」と読むだけでは、その物語的な意味を捉えきれない。
ここで重要なのは、
婚姻によって女性を家の中に位置づけることと、血統を完全に管理することとは一致しない
という点である。
女性は婚姻によって「回収」されたように見える。しかし、その女性を介して形成される血統までは、男性の意図によって完全に制御できない。
女三宮において「回収不能性」は、空蝉のような逃走ではなく、
家と血統の内部に生じる攪乱
として現れる。
そして、この点は女性自身の主体的な「解放」とは区別されなければならない。
女三宮を「自ら婚姻制度から脱出した女性」と捉えるのではなく、むしろ婚姻制度そのものが女性を完全には規定できないことを示す存在として読むのである。
六 浮舟――「誰かの女」からの離脱
そして、この問題が最も極端な形で現れるのが浮舟である。
浮舟は薫と匂宮という二人の男性の間に置かれる。
そのため、彼女をめぐる物語は、
浮舟は薫の女性なのか。
それとも匂宮の女性なのか。
という問題を生じさせる。
しかし、浮舟の物語の結末は、この二択のどちらかを選ぶことではない。
彼女は出家する。
ここで重要なのは、浮舟が単に「一人の男性から別の男性へ移動する」のではないということである。
空蝉の場合には、
光源氏から逃れる
という形で「回収」から離れることができた。
しかし浮舟の場合には、問題はさらに深くなる。
「誰の女性なのか」という問いそのものから離れる。
これが浮舟の「回収不能性」の特徴である。
もちろん、出家をそのまま「女性解放」と呼ぶことはできない。出家は世俗的な人間関係からの離脱であり、そこには別の制約や孤独が存在する。
それでも、物語の構造として見れば、浮舟は「誰かの女」として自らを位置づけることを拒む方向へ進んでいる。
空蝉が男性の欲望から逃れた女性だとすれば、浮舟はさらに一歩進んで、
男性との関係によって自分を定義するという構造そのものから離れた女性
として描かれるのである。
七 空蝉から浮舟へ――「離脱」の反復と変奏
以上の五人を並べると、そこには一つの構造が見えてくる。
空蝉では、回収不能性は「逃走」として現れる。
夕顔では、それが「死による喪失」として現れる。
紫の上では、「深く組み込まれた女性の喪失」として現れる。
女三宮では、「家と血統の攪乱」として現れる。
そして浮舟では、「出家」という形をとり、世俗的な男女関係そのものから離れる。
この流れを、女性が次第に自由を獲得していく「進歩」と考えるべきではない。
むしろ、
女性を男性との関係の中に位置づけようとする構造と、その構造によって女性を完全には捉えきれないという事態が、人物ごとに反復され、変奏されている
と考えるべきである。
その意味で、空蝉と浮舟の間には直接的な因果関係を想定する必要はない。
空蝉から浮舟への展開とは、作者が「女性解放」という一つの思想を段階的に実現したということではなく、『源氏物語』という長大な物語の中で、女性と男性との関係が繰り返し問い直されていく過程として捉えることができる。
空蝉において、
「光源氏のものにならない」
という形で現れた回収不能性は、浮舟において、
「そもそも誰かのものとして生きることから離れる」
という形へと変奏される。
ここに、「離脱」の意味の拡大を見ることができる。
八 「回収不能性」としての女性の輝き
ここまでの議論から、さらに一つの問題が生じる。
なぜ女性は「回収されない」ことによって、かえって物語の中で強い存在感を持つのだろうか。
その理由は、女性が完全には説明されないからである。
例えば空蝉は、「光源氏に求められた女性」という一つの関係だけでは説明できない。
夕顔も、「光源氏の恋人」という位置づけだけではその存在を尽くせない。
紫の上も、「光源氏の妻」という制度的な位置だけでは理解できない。
女三宮も、「光源氏の妻」という位置からは、彼女をめぐる血統の問題を説明しきれない。
浮舟に至っては、「薫の女」あるいは「匂宮の女」という二つの位置づけのどちらにも完全には収まらない。
つまり、女性たちには常に、
男性との関係によって位置づけられた存在以上の「余り」
が残る。
この「余り」は、社会的には必ずしも自由を意味しない。
むしろ、その「余り」は苦しみや孤独、死、出家という形で現れることさえある。
しかし、文学的には、その「余り」こそが女性を物語の中に残す。
男性との関係によって完全に説明される女性は、その関係の中に吸収されてしまう。
それに対して、関係によって説明されながらも、なお説明し尽くされない女性は、読者の記憶の中に残る。
ここに本稿がいう「女性の輝き」がある。
したがって、「輝き」は単純に女性の美貌を意味するものではない。
また、女性が男性から自由になったことを意味するものでもない。
むしろ、
男性の視線や欲望によって見出されながら、その視線や欲望によってもなお尽くしきれない女性の存在が、物語上の魅力として立ち現れること
を「輝き」と呼びたい。
女性は男性の視線の外にいるから輝くのではない。
むしろ、男性の視線によって捉えられながら、その視線からなおこぼれ落ちるものがあるからこそ、輝くのである。
九 「女性の離脱」から「女性の輝き」へ
ここまで考えると、本稿の出発点であった「女性の離脱」という問題も、その意味を変えることになる。
空蝉は逃げる。
浮舟は出家する。
しかし、夕顔や紫の上は死によって失われ、女三宮は血統の問題を通じて婚姻秩序を揺るがす。
したがって、「離脱」を五人すべてに共通する行為として捉えることはできない。
むしろ共通しているのは、
女性が男性との関係の中に位置づけられながら、その関係によって完全には規定されない
という構造である。
「離脱」は、その構造が目に見える形で現れた一つの形にすぎない。
そう考えるなら、本稿の中心は「女性の離脱」ではなく、「回収不能性」に置かれるべきである。
そして、その回収不能性が文学的な意味を持つとき、それが「女性の輝き」として現れる。
このとき、「女性の輝き」は、女性が男性から自由になったという意味ではない。
むしろ逆である。
女性は男性との関係の中に置かれている。
その関係から完全に自由になることはできない。
それでもなお、
その関係だけでは説明できない。
この「なお」が、女性の存在を物語の中に残す。
『源氏物語』における女性の輝きは「収まりきらなさ」の中に宿る
本稿では、空蝉、夕顔、紫の上、女三宮、浮舟という五人の女性を、「回収不能性」という観点から読み直した。
本稿でいう「回収」とは、女性を男性の欲望、婚姻、家、血統などの関係の中に位置づけ、その関係によって女性の存在を意味づけることである。
しかし、『源氏物語』において女性は、そのような関係によって完全には説明されない。
空蝉は光源氏の求めから逃れる。
夕顔は関係の成立過程で死によって失われる。
紫の上は光源氏の人生に深く組み込まれながらも、完全には理解されず、最後にはその手から失われる。
女三宮は婚姻によって家の秩序に組み込まれながら、血統の問題によってその秩序を揺るがす。
そして浮舟は、薫と匂宮のどちらかの女性になるという選択を拒むかのように、世俗的な男女関係そのものから離れていく。
これらは、女性が次第に自由になっていくという単純な進歩の物語ではない。
そこに見られるのは、女性を関係の中に位置づけようとする力と、その関係によっても女性を完全には捉えきれないという事態との緊張である。
空蝉から浮舟へという流れは、その緊張が「逃走」「喪失」「死」「血統の攪乱」「出家」という異なる形で反復され、変奏されていく過程として捉えることができる。
そして、その「回収不能性」は、女性の欠如ではない。
むしろ、女性を男性との関係だけでは説明し尽くせないものとして物語の中に残す。
女性が「誰かの女」であることによって説明されながら、それでもなお「誰かの女」だけではない。
その説明しきれない「余り」が、女性を記憶に残し、物語を持続させる。
ここに、本稿のいう「女性の輝き」がある。
女性の輝きとは、女性が男性から自由であることではなく、男性との関係によってもなお尽くしきれない存在として残ることである。
空蝉から浮舟へ。
その間に描かれる女性たちは、男性の世界から完全に外へ出ることはない。
しかし、その世界の中に位置づけられながら、そこには収まりきらない。
『源氏物語』における女性の輝きは、まさにその「収まりきらなさ」の中に宿っているのである。