最近、人工知能について考えるようになった。
今回の記事は、誰かのために読んでもらう記事というより、筆者が自分のためにまとめたメモのようなものだ。
ここでは、AIとは何かということを、AI自身に回答させてみた。以下はそのまとめである。
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人工知能(AI)とは何か?ー 人工知能は、コンピューターが人間のような知能を模倣し、学習、推論、問題解決を行えるようにする技術です。(ChatGPT-4の回答)
人工知能はプログラミングである
線形代数、微積分、確率論や統計学といった数学の知識が当たり前のように要求される。AIの開発者はさらに、数学の一分野である計算機科学にも通暁している必要がある。思えば、ノン・フォイマンもアラン・チューリングも数学者であった。Rは統計分析とデータの可視化に特化した言語である。PythonはAI、特に、機械学習やディープラーニングの分野で広く使われているプログラミング言語である。
AIを理解するにはこのように、数学や計算機科学を理解したうえで、機械学習を理解しなければならない。機械学習は、学習アルゴリズムとも呼ばれる(アルゴリズムが機械学習であり、データ構造はNLPなのだろう、人工知能は。当たり前といえば当たり前で、人間のインプットは言語、すなわち、自然言語であり、処理は、神経系、ニューロンである。)教師あり学習、教師なし学習や強化学習といった知識が必要だ。(AIはプログラミングであると再定義してやる・・・アクセラレータみたいに。ダークマターの攻略。)
(機械学習は、明示的なプログラミングではなく、データを通じてパターンを学習する。機械学習では、プログラマはタスクを直接コード化するのではなく、アルゴリズムがデータから学ぶためのフレームワークを提供する。・・・しかし、「明示的な」プログラミングではないかもしれないが、やはり、プログラミングである。・・・たしか、パターンの認識こそが学習であった。これはLearn Betterより。規則性の理解と、その適用。論理・・・)
また、AIを理解するためには、データの収集、処理、分析および可視化の技術、すなわち、データサイエンスの知識も必要だ。(本当に、たくさんのことが前提として必要とされている。それらは巨大な体系をなしている。これは全部網羅しようとせずに、Pythonを体験する中で感じ取って、必要に応じて学べばいいのだろう。)
AIデベロッパーは、さらに、学習アルゴリズムの中でも特に深層学習(=ディープラーニング)を知らなければならない。(学際は、といえば、NLPと脳科学、つまり、人間の発達にかかわることがそれだ、ということになるのだろう。)
機械学習および深層学習を理解したというためには、具体的には、勾配降下法、損失関数やSVMといったアルゴリズムまたは概念がわからなければならない。
人工知能はあくまでプログラミングという計算機科学なので、結局は計算である。AIの芸当は、大規模なデータベースとコンピューティングリソースによって成り立っている。消費する電力も大量である。
ゆえに、AIの能力は依然としてその訓練データやアルゴリズムの限界内にあり、特に、創造性や深い理解を必要とする質問には完全に対応できない場合がある。AIはユーザーの内省や創造性開発を促すというよりも、客観的な情報を提供することに重点がある。創造性そのものではなく、創造性の補完である。
(しかしながら、深い内省や創造性開発よりも、コンビニ人間のような、機械として生きる愉楽もあるのかもしれない・・・しかし、それはKJ法の、生命論的世界観からは受け入れられない。僕はその立場では生きない。使うことには使う。しかし、それは方便としてである。)
機械はイデアを観想するか
1950年代、アラン・チューリングがチューリングテストを提案し、機械の「知性」についての議論が始まった。(「」つきにしたのはなぜだろう。)チューリングテストはいわば、ワインのテスティングみたいなことだ。天然より養殖がいいとか。そういうことなのかもしれない。安いワインのほうがおいしいと感じることもある。
ところで、創造性は、新しいアイデアや概念を生み出す能力、または、既存のものを独自の方法で組み合わせて新しい形を創出するプロセスを指す。(・・・この意味での創造性であれば、AIは人間を代替しうる。しかし、僕の知っている定義は、創造的行為だから、AIにはできない。KJ法。)また、創造性には、①新奇性、②有用性、③オリジナリティ、④柔軟性、⑤統合的思考といった特徴をもつ。・・・ソクラテスの問答法は、相手の創造性や自発性を刺激することに重点を置くが(生き方を迫る。言行一致)、他方、AIは、主にプログラムされた情報やアルゴリズムに基づいて応答する。(生きること、KJ法、ホッブズの感情についての考察・・・切実性、痛みを感じない。)
学習とはなんだろうか。AIは学習できているのだろうか。機会は本当に、学習できるのだろうか。知識を得ているのだろうか。知識とは、いったい何だろう。それは、イデアにつながるものだ。機械はイデアを観想するか。学習しているように見せているのだろうか。猿真似なのかもしれない。神の技術には、とうてい、届かないのかもしれない。時間を表現する時計と、時間を生きることとは違う・・・とか、そういうことだろうか。
良いプロンプトを、そして倫理を
AIにおける「プロンプト」とは、AIシステムに対して行われる入力や命令のことを指す(クレジットカードシステムを連想した・・・そうだよ、あくまでシステムなんだよな。それは有機ではなく、無機の。有機とか無機ってなんだ。命ってなんだ。動いているか、動かされているか。寝ることがあるのか。寝ないのが、機械が生物ではない証拠だ。)。良いプロンプトを書くためには、はっきりとした、一つの質問を、大切な情報を伝えて、簡単な言葉で尋ねること、だ。もし質問したいことが明確でない場合は、①趣味や関心を表現し、②あいまいさを認めて、③探求したい分野の範囲を特定し、④オープンエンドな質問をするのがよい。
AIが生成する応答や出力の質は、正確性、関連性、一貫性、理解可能性、応答時間あるいは個人化などの基準で評価しうる。プロンプトは、AIが適切な出力を生成するための文脈やガイドラインを提供する。ゆえに、プロンプトの質や具体性は、AIが生成する応答や質に大きく影響する。
ちなみに、AIの回答をほめることには直接のメリットはないそうだ。ほめても意味がない、ということはなんとも虚しい。(しかし、人工知能が生きていないこと、非生物であること、ゆえに、快不快がなく、感情がないことを考えると、確かに意味はないのである。そこに、ラポールはない。)
・・・AIを理解するためには、技術的な要件のみならず、エシックス、すなわち、倫理の考察が必要だ。AIの倫理問題にはたとえば、バイアス、プライバシーの侵害や出力の不透明性がある。私たちはAIをどう受け止めよう。いいプロンプトを、という楽観論だけでなく、懐疑論をも抱きしめよう。