「愛」とか「愛する」とか、そんな言葉を大真面目に語るのは何だか気恥ずかしい。
それに正直、愛に、あるいは人を愛する能力みたいなものに自信があるわけでもない。私の関心は自己中心なのがデフォルトだし、きっと、程度の差こそあれ、他の人だってそうだろうと思っている。しかし、考えてみればみるほどよく分からない。
愛って一体何なのだろうか。
いや、これは、本当に恥ずかしい問いかけをしてしまった。
ただ、愛とか云々を考えるときに思い浮かぶ言葉がある。西田幾多郎の哲学である。
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。
知は愛、愛は知である。
西田幾多郎『善の研究』第四篇「宗教」第五章「知と愛」( 青空文庫)
「知=愛」だと西田幾多郎は言う。もし仮にこれが本当だとしたら、人は、何かを知ろうとし始めたとき、同時に、それを愛し始める。
知ろうとしただけなのに?
そう、ただ知ろうとしただけで。それでいいんだよと、私はフリーレンに言ってあげたい。
フリーレンが人間を愛し始めるきっかけは、フェルンだった。
(今回は『葬送のフリーレン』エピソード3の、フェルン誕生日会の回を考察します。)
尾行劇
物資の補充にかこつけて、フリーレンはフェルンの誕生日会を準備する。フェルンは自分の誕生日会の準備とも知らずにフリーレンを尾行した。
フリーレンはフェルンにアクセサリーを買って、それから、おいしいスイーツが食べられるお店を下調べした。
今回のお話は、くすっと笑えて、のほほんとするシーンが多い。変なものを買ってくるフリーレン、フェルンに懐く黒猫、とてもスイーツについて知っているように思えない荒くれ風の冒険者・・・
ヒンメルやハイターの死といった切ないストーリーが一段落して、ほほえましい光景が繰り広げられたのだった。
愛が苦手なフリーレン
荒くれ風な冒険者に聞いたスイーツの美味しい店でフリーレンがメニューを選んでいたとき、フェルンはフリーレンの好みを言い当てた。「メルクーアプリンですよね」。そう言ったとき、フリーレンの心の中で勇者一行の記憶が重なる。
私はみんなのこと何もわからない
ヒンメルたちのことを知らない自分を、フリーレンは後ろめたく感じているようだった。
フェルンに誕生日プレゼントを渡す時も「ごめん」と言ってしまう。
私はフェルンのこと何も分からない。
だからどんなものが好きなのか分からなくて。
・・・このシーンのとき、愛情表現のもどかしさに鑑賞しながらやきもきしたことを覚えている。フェルンの誕生日をちゃんと知っていたじゃないか。髪飾りに選んだ蝶の意匠は、フェルンがハイターを喜ばせた時の魔法だったじゃないか。フリーレンはちゃんと、フェルンのことを見てきたし、知っているよ、と。視聴者ながらフリーレンに語りかけたくなってしまった。
フェルンは誕生日プレゼントを受け取る。人間のことに疎いフリーレンが、自分のことを知ろうとしてくれていた。知は愛である。フェルンは愛を受け取った。
きれいな髪飾り。ありがとうございます。とても嬉しいです。
本当に?
フリーレン様はどうしようもないほどに鈍い方のようなのではっきりと伝えます。あなたが私を知ろうとしてくれたことがたまらなく嬉しいのです。
知ろうとしただけなのに?
フリーレン様は本当に人の感情がわかっていませんね。
フリーレンは本当に人の感情が分かっていないみたいだった。
フリーレンがフェルンに渡したものは、ただの髪飾りなのではなく、愛情だったのだ。
フェルンは受け取った蝶の髪飾りを髪に留めて宿を発った。
本当に「知=愛」なのか
『葬送のフリーレン』の考察を始める前に、西田幾多郎の考えを引っ張り出してきた。知は愛であり、愛は知である、と。その考え方を適用した。
ただ、「もし仮にこれが本当だとしたら」という、歯に何か挟まったような言い方をしたのは、西田幾多郎の「知=愛」説は、『善の研究』だけからは論理的に導けないからだ。
西田幾多郎はおおよそ次の論理で「知=愛」を導こうとしている。
①知は主客合一である。
②愛もまた主客合一である。
③ゆえに、知=愛である。
純粋に論理的にみると、なんとまあお粗末なロジックである。もしこれが言えるのなら、
①猫は動物である。
②犬もまた動物である。
③ゆえに、猫=犬である。
が正しいことになってしまう。
「なんだ、間違っていると分かっている理屈で読者をだましたのか!」
と怒られてしまうかもしれない。しかし、私の本意はそうではない。
私は「知=愛」説が本当だったらいいなと思っている。それに、知と愛が同一のものであるとは厳格には言えないだろうけれど、近縁性は感じるのだ。
似たような言葉に「知は愛のはじめなり」という言葉がある。googleでこの言葉を検索すると、植物学では結構通用している言い習わしであるみたいだし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそんなことを言ったような言わなかったような、みたいな感じであった。
経験からも「知=愛」説は成り立っているような気がする。自己中心がデフォルトの自分が他者に関心を向けてその人のことを知ろうとしたとき、愛は始まる気がするし、愛が濃やかになるほど知ることも多くなるような気がする。
西田幾多郎『善の研究』の、ほんの数ページのロジックから論理的に真であることが導けなかっただけで、経験的には暫定で正しいものとしていても害はない気がする。
ともかく、私として述べられることはこれぐらいだと思うので、あとは、愛に通暁している読者に考察を任せるとしよう。
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