前回までに、人間はこころを埋め込まれた機械であることを書いた。そのこころというプログラムはいつも生存を指針としていて、生存するための努力は、生きることに役立つことを意欲し、死につながることを嫌悪することによって人間のふるまいを決定している。
続く第7章から第12章でホッブズは、一人の人間という個体の解析から、人間同士の関わりへの考察に移行しているように見える。つまり、社会の考察である。一個のPCを考えるフェーズから、PC同士の通信を考えるフェーズに移るといえばいいかもしれない。
ここで、「社会」という語に筆者なりの定義をしておきたい。確か何かの書籍で読んだような気がする定義なのだが、出典を思い出せないので、もし知っている読者がいたらコメント等で教えてほしい。それは次のような定義である。
社会とは、自己と他者である
平たく言えば、社会とは「わたしとあなた」なのである。この定義で重要なのは、社会とは、大人であることとはまったく関係ないということだ。「社会人」という言葉があるが、その意味での社会ではない。自己がいて、一人でも他者がいて、その間の関係、通信を考えるなら、それはすでに社会であると考えよう。わたしとわたしの友達にはその間でもう友という社会が存在しているし、養育する母親と養育される子供とは、そこにももう親子という社会が存在している。
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人間同士の通信を考えるうえで中心的な役割を担うのは第10章の「力、値うち、位階、名誉、ふさわしさについて」である。生々しい話ではあるが、社会を、人間同士の通信を考察するためには、どうしても力関係ということを考えざるを得ない。とくに、『リヴァイアサン』が国家について考察していることは、力を合成して一個の人格として作られたものが国家である、ということだから、そもそもその力が何かということを考える必要がある。
それゆえに、ホッブズもこの章の冒頭から力を定義している。
「ある人の力とは、(普遍的に考えれば)、善だとおもわれる将来のなにものかを獲得するために、かれが現在もっている道具である」(水田訳, p.150)
ここで、善という用語は第6章で定義されていることを思い出そう。善とは次のようなものである。
「だれかの欲求または意欲の対象は、どんなものであっても、それがかれ自身としては善とよぶものである」(水田訳, p.100)
この『リヴァイアサン』という著作においては、人間という機械が生存のために欲求、意欲する対象はすべて善である。そして、善を獲得するための道具が力であると、ホッブズは定義しているのだ。
ここからホッブズは、力という定義を満たすものを数え上げていく。たとえば、次のようなものはすべて力として列挙されている。
召使、友人、気前のよさと結びついた財産、力があるという評判、人気、成功、和戦の処理において慎慮を有するという評判、高貴の身分、雄弁、容姿
召使と友人が筆頭に上がっているのは、ホッブズが、力の最大のものは合成された力であると考えているからだ。あとに続く力は、そういった召使や友人を集めるマグネットとしての性質が力の定義を満たしていると考えられている。のちにリヴァイアサンを創造することを考えると、力の合成は社会においてしばしば発生する現象として念頭に置いておくべきである。
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力の合成という、物理学らしい概念が導入された。それが何かしらの計算であるなら、力というものが数値として認識されていてもおかしくない。実際、ホッブズが次に述べるのは価値であり、値うちである。
「ある人の価値 Value すなわち値打ち Worth は、他のすべてのものごとについてと同様に、かれの価格であり、いいかえれば、かれの力の使用に対して与えられる額であり、したがって絶対的なものではなくて、相手の必要と判断に依存するものである。」(水田訳, p.152)
ここで、価値が「相手の必要と判断」によって決まること、つまり、価格の決定が相対的なものであることに注目しよう。人間は社会において、他者の力の価値を見積もり、また同時に、自己は他者によって価値を見積もられている。お互いに値踏みし、評価し合うやりとりが社会には存在していて、また、この値踏みの仕方は相手を高く見積もるか、低く見積もるかの、いずれかのやり方に従っている。
「われわれがたがいにつけあう価値の表明は、ふつうに、名誉を与えることおよび不名誉にすることと、よばれることである」(水田訳, p.153)
たとえば、ホッブズによれば、相手に対してよく考えながら話し、礼儀をもつことは、相手を立腹させることへの恐怖のしるしとして相手に名誉を与えることになる。逆に、軽率に話すことは不名誉にすることとして例示されている。他にも何が相手に名誉を与えることになり、何が不名誉にすることなのかが列挙されているので、詳しくはぜひ『リヴァイアサン』を読んでみてほしい。
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人間同士の通信の考察はさらに続く。力が定義され、名誉を与える行為と不名誉にする行為とが列挙されると、次にはふさわしさが考察される。これは、見積もった額が適切であったかを反省する概念である。
「ふさわしさ Worthiness とは・・・中略・・・かれがそれにふさわしいといわれる、そのことがらについての特殊な力または能力である」(水田訳, p.163)
つまり、付けられた値うちに対して、まさに、その価格がふさわしいかと、力を吟味するのである。これは、値踏みの行為が相対的であり、時によって力の価格が変動することの別の見方であると言えるだろう。
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このように社会の中では、力を合成したり、評価しあったり、評価した額がその力にふさわしいかを反省したりといった通信が各個人間で行われている。この通信がなければリヴァイアサンは誕生することがなかったし、よって、平和という概念もことばも存在しえなかっただろう。
しかし、通信がいままで述べてきたようなものであるとして、人間のふるまいの中で何が名誉を受け、力を合成、集積することになるのだろう。それを考えるヒントは知性の限界であり、その向こう側にあるくらやみ、非知性であるところの宗教である。このことに関する記述は次回の投稿に譲るとしよう。