『リヴァイアサン』を読む④~非知性は名誉を得る(2)~

『リヴァイアサン』第12章の「宗教について」というタイトルを見たとき、正直、読み飛ばしたいと思った。宗教というのが何か縁遠く感じたのだ。

自分の宗教のことを問われたことが人生で一度だけある。大学生で講義をさぼって公園にいたときに、大学の近所に住むおじいさんに聞かれたのだ。今年で喜寿だと言っていた。「君、大学生か」と声をかけられて、しばらく、公園に咲いている桜の話をしたり、彼の昔していた仕事について聞いたりしていた。そんななかで、彼は唐突に質問してきた。「君は、自分の宗教はなんだと思う」。

自分の宗教はなんだろうか。読者ならどう答えるだろうか。日本人なら仏教か、あるいは、神道と答えるのが妥当そうだ。しかし、「宗教」なるものが私の生活に関係しているかとまじめに考えると、どうも答えが腑に落ちない。

自分の宗教の在り方について問われるのは、これが二度目であるような気がする。しかし、ページをめくってみれば、「宗教」と呼ばれるものが意外に身近であることを知った。むしろ自分も、周りの人も明示的に「宗教」が何かを語れなくとも、「宗教の種子」はもっているし、それを育てている人がむしろ多い気がしたのだ。今回は、そんな遠くて近い宗教について触れたいと思う。

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宗教については、やはり第6章に定義が書いてある。ホッブズに見習って、定義から出発しよう。

「心によって仮想され、あるいは公共的にみとめられた物語から造影された、みえない力への恐怖は、宗教とよばれる。公共的にみとめられない物語からのものは迷信とよばれる」(水田訳, p.106)

宗教と迷信に共通するのは、ホッブズによれば「みえない力への恐怖」であることがわかる。そして同じく第6章をみると、恐怖とは一種の嫌悪であることがわかる。

「対象による害という意見をともなった嫌悪は、恐怖とよばれる」(水田訳、p.103)

ここで「みえない」と呼んでいるのは、特に知性という目で「みえない」ものであると考えよう。ホッブズは第7章「論究の終末すなわち解決について」や、第8章「ふつうに知的とよばれる諸特性と、それらと反対の諸欠陥について」、第9章の「知識のさまざまな主題について」と三章にわたって人間の知的なあり方について描写している。

たしかに、人間と動物とを分け隔てる決定的な特徴として知性があって、こころモデルのことば面、そして推理面こそ人間の人間たる理由があると思える。それはホッブズも第6章のところで

「なぜか、およびどのようにしてかを、知ろうとする意欲は、好奇心とよばれ、それは、人間以外のどんな生きた被造物にもないようなものなのである」(水田訳, p.106)

と言っているように、人間固有の性質である。第一部で人間を考察すると謳っているホッブズにとっては、この知性の在り方の詳細を追わないわけにはいかないのだ。

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しかし、ホッブズはその知性の限界を的確にとらえていた。好奇心という意欲にしたがって知識と呼ばれるものを追い求める人間は、結局、知識を得ることができないのだ。それはなぜかというと、人間の知識を求める行為の結果はかならず「意見」で終わるからである。

「知識への意欲に支配されたすべての論究 Discourse において、最後には、獲得または放棄による終末がある。そして、論究の連鎖のなかで、どこであれそれが中断されるならば、そこにそのときの終末があるのである。

「もしその論究が、心だけのものであるならば、それは、そのものごとが、おこるだろうとかおこらないだろうとか、あるいは、それがおこったとか、おこらなかったとかいう、かわるがわるの思考からなっている。それだから、ある人の論究の連鎖を、どこであれあなたが切断すると、あなたはかれを、「それがおこるであろう」あるいは「それがおこらないであろう」、または「それはおこった」あるいは「おこらなかった」という、ひとつの仮定のなかに、残すのである。それらはすべて、意見とよばれる」(水田訳, p.117)

論究、すなわち、知識の探求は、中断すればその成果が意見となってしまう。「それならば、中断せずに最後まで進めばいいではないか」と思う読者がいるかもしれない。しかし、「最後」まで進んだ論究の成果は「判断」であり、判断もまた一種の意見なのだ。

「過去と未来についての真実の探求における最後の意見が、論究する人の判断あるいは決定的で最終的な判決とよばれる」(水田訳, p.117)

とホッブズが言っている通り、最後に得られるものも、判断という名の意見なのである。そもそも、有限の命しかない人間にとって「最後」とは一体何だろうか。なぜ、なぜと人の好奇心はとめどないが、人はどこかで、「なぜ」という問いをあきらめざるをえない。諦めが悪い人が学者になり、潔い人が大人になるだけで、どこかで問いには限界が来てしまうのだ。

また、ホッブズによれば最終的な判断すら、その論究が定義からはじまっていなかったり、途中で誤謬、エラーがあったりした場合は判断から意見に格下げされてしまう。人は知識をもつことはできず、どこまで行っても意見で終わってしまう虚しさと対峙しなければならないのだ。

「どんな論究であっても、すぎさった、あるいは来るべき事実についての、絶対的な知識をもって終結することはできない」(水田訳, p.118)

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そんな、知性の非力さから宗教が生まれる。知性が光だとすれば、宗教はくらやみであり、くらやみは世界に絶えない。そのくらやみの中でもとりわけ深いものは「死」である。いまだに人間は、死について何かを知ることができていないし、経験することすらできていない。

「この永続的な恐怖が、くらやみのなかにあるかのように、原因についての無知のなかにある人間に、つねにつきまとうのであって、それは対象としてなにかをもたないわけにはいかない。したがって、見えるものが何もないときは、彼らの運命の善悪はいずれについても、責を帰すべきものは、ある見えない力または動因である」(水田訳, p.183)

このみえない力を人はしばしば幽霊とよぶ。人間以外の動物はこころモデルの推理面が発達していないために、かならず自分の命が死で終わることを推理できないが、それができてしまう人間にとっては、それはいつまでも照らせない闇として、あるいは幽霊として私たちを恐怖させるのである。

そして、死を恐怖する人間はそれぞれに何かしらの崇拝の対象をもった。それはある人たちにとっては、ギリシャ神話や日本の神道のように多神教的であり、みえない力としての霊、神々が人と住まう世界観である。そしてある人たちは、ホッブズも含まれるが、超自然的な、唯一絶対の存在としての神を信仰するようになる。

その崇拝の仕方というのは、たとえば、

「贈物、歎願、感謝、身体をひくくすること、謹厳な行動、まえもって考えられた語、かれらのよびかけることによる誓い」(水田訳, p.186)

がそうである。そしてこれらの行為はすべて、対象を名誉にすることであり、そのみえない物事が持つ評価することなのである。宗教はみえないを用いて、を合成することがしやすいのである。

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おもえば「政教分離」という言葉がある。これはまさに、廊下を走る人がいないと「廊下をはしるな」という規則が生まれないように、宗教と政治とがともに、の合成にかかわることであるからこその注意喚起なのではないだろうか。昨今の統一教会に関する話題でも、しきりに宗教と政治との癒着が問題視されてきた。しかし、古代中国の政治が亀の甲羅の模様による占いで行われてきたように、また、カエサルがいざというときにサイコロを振ってみえない力に頼ったように、そもそも宗教と政治は密接にかかわっているのだ。それは、知性の向こう側である宗教が、力を集めやすい性質をもつことによるのである。

振り返ってみれば、人はみえない力に恐怖して、知的とはいえない事柄に前兆を求めたり、偶然な出来事から未来を見ようとしていないだろうか。人はどうでもいいこと、たとえば星であれば星占い、血液型からは血液型占い、手のしわからは手相占いをするし、また、わりばしがまっすぐに割れたか割れなかったかで吉兆を予感したり、黒猫が横切ってぞわぞわしたりしている。それは、ホッブズのいう「宗教の種子」の一つである、前兆を信じる心からきている。

「幽霊についての意見、二次原因の無知、人びとが恐怖するものへの帰依、および偶然のものごとを前兆とおもうことの、これら四つのことのなかに、宗教の種子があり、それは個々の人のさまざまな想像、判断、情念のために、ひとりの人が使用する諸儀式の大部分が、他の人にはこっけいであるほどに、さまざまな儀式へと発展してきたのである」(水田訳, p.108)

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このようにして非知性であるところの宗教は名誉を集積し、ある存在として人間の目に映る。今日でも、イスラームやキリスト教、仏教を国教として掲げている国が存在しているし、宗教と政治が重なっていない国でもわざわざ「政教分離」を唱えなければいけない。筆者のこころの中を覗いてみても、やはり宗教の種子は存在しているようだ。公園で出会った彼にもう一回出会えたらこう答えてみよう。

「僕は正直、宗教というかくばった言葉では自分の心をとらえていません。ただ、死ぬことが怖い気持ちはよくわかりますし、今日の運勢すら、今朝のニュースで見た血液型占いのことがすごく気になっています」

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