『リヴァイアサン』を読む⑤~リヴァイアサンがいないからロシアを止められない~

ロシアとウクライナの軍事衝突を報道するニュースが日常の一部になって久しい。実家に帰ると父は「なんか、嫌だね。テレビを見るたびに落ち込む」と言って、枝豆のさやを吐き出していた。画面の向こう側の戦争とこちら側の平和との対比がいびつに思える。

ホッブズによれば、人間のデフォルトは戦争であり、戦争ではない状況が平和である。「平和とは・・・である」というように積極的に定義するのではなく、「・・・ではない」と消極的に定義していることに注意したい。

戦争は、たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、戦闘によってあらそおうという意志が十分に知られている一連の時間にある。・・・中略・・・そのほかのすべての時は平和である。(水田訳, p.211)

であるならば、どうしたら戦争から脱却できるだろうか。どうしたら両国のあらそいがなくなるのだろうか。今の世界情勢をみたなら、きっとホッブズならこう答えるはずだ。

ーそれは、君たちが国連と呼んでいるコモン=ウェルスが唖(おし)だからだよ。リヴァイアサンが不在なんだー

人数より少ない饅頭は争いを生む

『リヴァイアサン』の第一部は人間の考察であり、こころが埋め込まれたハードウェアこそが人間であることを私たちは見てきた。人間は、生存を基本的な設計思想とするプログラムに基づいて生きているのだ。さらに考察は進み、単独の人間ではなく、複数の人間が互いに価値を値踏みしあう関係性、すなわち社会も見てきた。

第13章で語られる「人類の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」も当然、人間の本性を踏まえたうえでの議論となっている。その議論の出発点となるのは、の希少性であり、身もふたもない言い方をすれば、人数より少ないお土産を持ってきてしまったときのぞわぞわ感である。

休みをとってどこか旅行に行ってきたとき、職場の人におみやげをもって帰るとする。そのときに気になることは、できるだけ傷まないものであることと、職場の人数ではないだろうか。職場の人数よりも少ないおみやげ、たとえば少ない饅頭を買ってしまうと、そこには不和が生まれてしまう。

この話は饅頭だからまだ可愛い。別にその日の饅頭がなくても人は生きていけるから、場合によってはだれかの「俺はいらないからみんなで食べていいよ」の一言で済むかもしれない。

しかし、もっと切実な状況だったらどうだろう。たとえば、同じ饅頭でも、社会全体が飢えていて目の前のその食料が生死を分けるとしたらどうか。そこには、争いが生まれ、敵が生まれるのではないだろうか。

もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受できないとすると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主としてかれら自身の生存であり、ときにはかれらの歓楽だけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか屈服させるかしようと努力する。(水田訳, p.208

人間は共通の権力なしに生活しているときは戦争と呼ばれる状態にある

生きていくために必要な資源、あるいはホッブズが定義するところの、が十分にないとき、そこには争いが生まれ、敵が生まれる。

人びとが、かれらすべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である。(水田訳, p.210)

その結果、生存のプログラムを埋め込まれた人間は暴力を使用してでも生きようとする。暴力というのは例えば、強奪であり、殺人である。ここで注意してほしいのは、強奪も殺人も、それがただちに不正だとか悪になることはないということである。

というのも、国家がなければ法はなく、法がなければ正も不正もないからだ。国家、共通の権力がないところでは、生きるためにはどのような行為でも許される。それは現代の無法地帯や、あるいは、敗戦後の日本の状況を想像すればわかりやすいのかもしれない。共通の権力がない社会は、奪うことが不正ではない社会なのである。

共通権力がないところには正不正がないが、それだけではない。奪うことが不正でない社会には所有権がないし、所有権が保証されない社会では労働の果実が保証されないから労働の意欲も起きない。

人間は生存することを目的としたこころを埋め込まれているが、皮肉なことに、生きるための資源すなわちが足りていない社会においては戦争の原因となり、むしろ死へ向かってしまう。

どうしたら戦争状態を否定することができるだろうか。どうしたら平和へ向かうことができるだろうか。こころというプログラムは精巧にできていて、需要よりも供給が少ない社会で自ら生み出した矛盾を止揚する可能性も持ち合わせている。

人びとを平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとに対する意欲であり、それらをかれらの勤労によって獲得する希望である。そして理性は、つごうのよい平和の諸条項を示唆し、人びとはそれによって、協定へとみちびかれうる。(水田訳, p.215)

ホッブズによれば、社会に生きている人間が平和(=戦争状態が否定された社会)にいたるには、理性が発見した平和の諸条項が必要である。そして、この諸条項は自然法と呼ばれている。

基本的自然法:平和を求めよ、叶わないならば争ってもよい

生きるために殺しあう状況を脱するための法則を、人間たちは理性によって発見した。その法則の第一のもの、一番の基本は、次のようなものである。

「各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それにむかって努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい」(水田訳, p.217)

この法則は前半と後半に分かれている。前半は「平和をもとめ、それにしたがえ」ということであり、自然法の要約となっている。後半は「われわれがなしうるすべての手段によって、われわれ自身を防衛する権利」のことを言及していて、生存するための権利、すなわち、自然権の要約となっている。

ここで注意すべきなのは、自然法も自然権も「自然」と付いているから、なんとなく両者とも平和に向かう観念だと勘違いされがちなことである。自然法はたしかに、平和に向かうために理性が導き出した一般法則だから問題ないのだが、自然権はむしろ「暴力」と読み替えたほうがホッブズの主張に近いだろう。それは、ホッブズが次のように主張していることからも伺える。

著作者たちがふつうに自然権とよぶ自然の権利とは、各人が、かれ自身の自然すなわち自身の生命を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、かれがそれに対する最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。(水田訳, p.216)

ホッブズは自然権を文字通りの自由、生存するためにはどんなことでもおこなってよいこと、さまたげるものがないことと定義している。「どんなことでも」の中には当然、暴力も含まれているのである。

人間の状態は各人の各人に対する戦争の状態なのであり、・・・中略・・・したがってそういう状態においては、各人はあらゆるものに、相手の身体に対してさえ、権利をもつのである。(水田訳, p.217)

ホッブズの示す基本的自然法はいたってシンプルで、かつ含蓄に富んでいる。基本的自然法は平和を求めよと訴えるだけでなく、平和を獲得する希望がないときのことまで考え、そのときは生き抜くために何をしてもいいと主張しているのだ。

第2の自然法:相手も望むのなら、必要なだけ、自然権を捨てよ

ただ、基本的な自然法は「平和をもとめよ」と目的規定するだけで、どのように求めればいいかを教えてくれない。平和をもとめる具体的な方法、その大綱を教えてくれるのが、第二の自然法である。

「人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、ほかの人びともまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人びとに対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのとおなじ大きさの、自由をもつことで満足すべきである」(水田訳, p.218)

ここでは、ある程度自然権を捨てることが主張されている。ここで自然権を「生存するためになんでもしてよい自由、わかりやすい例としての暴力」と理解したことを思い出そう。戦争状態を否定することに必要なこと、それは極論すれば暴力を捨てることである。自然権を無制限に発動することをやめて、生きるために必要な、そして、相手も「確かにそうだね」と納得する分だけもつことが平和への道であると自然法は教えてくれる。

自然権という「生きるために何でもしていい自由」に、お互いに納得しあえるような制限を加えるのである。人はある程度自由を捨てることによって戦争状態を脱する可能性を勝ち得るのである。

しかし、お互いにこれだけ自由を捨てようね、と約束をしたところで、相手がそれを守らなければこちらは捨て損であり、相手に屈服させられる可能性が発生してしまう。守らなければ痛い目に合うような、共通の恐怖がぜひとも必要だ。お察しかもしれないが、その共通の恐怖こそ、共通の権力であるリヴァイアサンである。

厳密にいうと、人々は、自然権を捨てるのではなく、ある一つの人格に自由を譲渡し、共通の権力を作り出すのである。その共通の権力は、国家と呼ばれ、あるいはコモン=ウェルスと呼ばれ、あるいは当著のタイトルのようにリヴァイアサンと呼ばれている。この共通の権力、共通の恐怖に、「お互いこれだけの自由を譲渡しようね」という契約を守らせる番人の役割をもたせ、戦争状態を否定しようとするのだ。

ロシアは何をすてるべきか、ウクライナは何をすてるべきか

枝豆の平和の向こう側では、今この瞬間でも血が流れているのだろう。戦争を否定するにはどうすればいいだろう。『リヴァイアサン』を踏まえて、自分なりに考えてみた。

自然法が求めるところによれば、平和を実現する方法は自然権を捨てることである。問題は何をどれだけ捨てればいいのかということであり、何を諦めるかである。

たとえば、ロシアはもともとのウクライナ領土から撤退する。もちろん、そんなことができたらそもそも軍事衝突なんて起きなかっただろう、なんて夢見がちな意見なんだろう、と言われることは承知である。ただ、ウクライナ領土からの撤退を約束させる交換条件と、その約束を実行させるシステムさえあれば、現実的な損得勘定の中で交渉のテーブルに座らせることができるのではないだろうか。

その交換条件として、ウクライナはロシアに対して一切の弁償を求めない、などを条項として取り込めないだろうか。また、仲裁国を立て、ロシアーウクライナをめぐる諸外国の経済制裁の取り消しを国際的な条約として取り決めることはできないだろうか。戦争の否定は、いかに仲裁国を立てて、平和協定の条項を決めるかにあるだろう。その条項は、両国が、お互いにどの利権を捨てるかを定めればいいのではないだろうか。

国際連合は声が出ない

しかし、やはり問題がある。協定をつくったところで、それを破った時の恐怖が、共通の権力がないのだ。確かに国際連合というものがあり、安全保障理事会がある。ただ、安全保障理事会において常任理事国の反対票は拒否権と呼ばれ、国際連合を唖(おし)にしているのだ。

もし数が三つまたはそれ以上(の人びとまたは諸合議体)というように、奇数であるとして、そこにおいて各人が、一つの否定意見によって、残余の肯定的意見のすべての効果を除去する権威をもつならば、この数は、代表ではない。・・・中略・・・それはしばしば、そしてもっとも重要な場合に、唖の人格となり、他のおおくのものごとについてとおなじく、群衆の統治について、とくに戦時には、不適当となるからである(水田訳, p.267)

その拒否権をもっているのがロシアであるから、さて、やはりロシアは諦める理由をもたないだろう。国家によらない、何か別の共通の権力を持つ方法は・・・

いや、やはり画面のこちら側で、親父とハイボールを飲みながら考えることではなかったかもしれない。酔いでいい気分のはずなのになんだかモヤモヤしてしまった。チャンネルを変えてくだらないバラエティでも観ていたほうがよかったのかもしれない。

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