『リヴァイアサン』を読む⑥ー猫がリヴァイアサンになる未来ー

丸と四角の眼鏡をかけた、成田悠輔という人のファンだ。そもそもこの『リヴァイアサン』という流行りもしない本を読み始めたのは成田悠輔から出発した芋づる式の関心だった。成田悠輔が学生時代に関わりをもっていたという柄谷行人に関心を持ち、その人の著作に『力と交換様式』というものがあって、その中の記述でホッブズの『リヴァイアサン』が言及されていたから筆者はこの本を読もうと思ったわけだ。

そして『リヴァイアサン』の書評は、不思議と、成田悠輔『22世紀の民主主義』との関連に行き着いた。『リヴァイアサン』の第一分冊に関する考察は今回が最後になる。人間の本性に関する考察は、ここで述べる代理理論によってリヴァイアサンの誕生につながっていく。そして、このリヴァイアサンの素材は必ずしも人である必要はなくて、別に猫でもいいのではないかと思えるのだ。

代理理論は「人」をつくる

『リヴァイアサン(一)』の第16章「人格、本人、および人格化されたものについて」は次のような回りくどい定義から始まる。

人格PERSONとは、「かれのことばまたは行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらのことばまたは行為が帰せられる他人またはなにか他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制的に代表するものとみなされる」人のことである。(p.260, 水田訳)

注意深く読まないと、なんのことだかよくわからない。筆者はこの文章の意味を理解するのに3日ぐらい時間がかかった。字面を追うより、下のように図解したほうがわかりやすいだろう。

オレンジ色で塗られているのが人格PERSONである。上の図を簡単にP図と呼ぶことにしよう。P図左側の人格は、自分のことばや行為が自分のものとみなされていて、この人格を自然的人格とホッブズは呼んでいる。自分の言動が自分のものとして考えられる、いたって「自然的」な状況である。

しかし、この章において、第二分冊との関連で重要な役割を担うのはむしろP図右側の方である。ある人がほかの人の言動を代表する状況において、オレンジ色のかれは人為的人格と呼ばれている。この人為的人格は特殊なことではなくて、私たちの生活の中でしばしば目撃される。

たとえば、生まれて間もない赤ちゃんやこどもの親である。民法3条の1では「私権の享有は、出生に始まる」と規定されており、こどもは生まれた瞬間から生存する権利を有するとみなされている。しかし、まだ小さいこどもたちは言語能力が発達しておらず、生活能力もないので保護者がいなければその権利を使用することができない。こどもたちの権利は親権を行うものが代表して、つまり、代理して行うことでやっと実現されるものなのだ。

他にも、認知症になって自分では正常な判断ができない、財産の管理ができない人には成年後見人といわれる人たちが、行為能力を失った人の権利を守るために代理で行為を行うということがある。このように、言動に責任を求められるほどの理性がないとみなされる人は、代理人によって生きていく権利が守られていくのだ。

ここで、この人為的人格に関わる状況を、新しい用語を導入して理解しなおそう。

人為的人格のうちのあるものは、かれらのことばと行為が、かれらが代表するものに帰属する。そしてそのばあい、その人格は行為者であって、かれのことばと行為が帰属するものは、本人であり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威(オーソリティ)によって行為するのである。(p.261, 水田訳)

つまり、代理してものごとを行う人を行為者と呼び、代理者の言動の本来の帰属先、すなわち所有主を本人と呼ぶのだ。このP図であらわされた関係とその仕組みを簡単に代理理論と呼ぶことにしよう。

無生物も人格化されうる

代理理論で注目したいのは、本人はヒトじゃなくてもいいし、もっといえば無生物でもいいということだ。人格の定義で「真実にまたは擬制的に」とあったことを思い出そう。擬制的、つまりは、フィクションでもいいのだ。

擬制(フィクション)によって代表されることができないものは、ほとんどない。教会、慈善院、橋のような無生物は、教区長、院長、橋番によって、人格化されうる。(p. 261, 水田訳)

「人格化する」というのはP図において「代表する」と置き換えていい。というのも、ことばをもたない本人は、行為者に代理される、代表されることによって、人に格(あたい)するものとして社会に認められていくからだ。

「フィクションによって代表されることができないものはほとんどない」とホッブズがいうように、神という存在であっても人格化されうる。

真実の神は、人格化されうる。たとえば、まず、モーシェによって人格化されたのであり、かれはイスラエル人たちを、かれ自身の名において、「これをモーシェがいう」といってではなく、神の名において、「これを神がいう」といって統治したのである。(p. 264, 水田訳)

理解を深めるために、さらに具体例を追加しよう。私たちの生活に身近な、無生物でありながら本人として扱われるものに会社がある。

会社は会社法第3条に記載があるように、ある所定の手続きにしたがってつくられた法人格である。会社の本質は資本であり、いわば会社とは、資本が人格化されたものだといえるだろう。しかし、資本それ自体はものを言えないから経営者が代わりに裁判内外の行為を行っていくのである。

   

代理理論はリヴァイアサンをつくる

このように幅広いレンジで対象をとりこむ代理理論は、群衆を、あるいは社会を対象として人格化を実現していくことも可能である。

人間の群衆は、かれらがひとりの人、あるいはひとつの人格によって、代表されるときに、ひとつの人格とされる。・・・中略・・・そして、群衆はとうぜん、ひとつではなく多数であるから、かれらの代表者がかれらの名において、いったりおこなったりするすべてのことについて、かれらはひとりの本人として理解されることはできず、おおくの本人たちとして理解される。(p. 265, 水田訳)

まさにここで群衆を代表しているものが代議士であり、日本でいう議員である。代表者は、群衆の中のひとりひとりの本人から投票という形で同意を受け、本人たちを代表して行為する。また、同意を集めるということはホッブズが定義するところのを集積することでもあり、ゆえに、代表者は一般人よりも多くの権利権限を使用することが可能になる。

ところで、『リヴァイアサン』を読み始める前の問題提起で筆者は、リヴァイアサンと人間の関係性について対比式という形で表現しておいた。それは下のような式である。

人間の技術 → 神の技術
リヴァイアサン → 人間

リヴァイアサンは人間をまねてつくられたものであり、人間で構成されていて、人間によってつくられる、巨大な力をもった仮想上の生き物であるとホッブズは序説でのべていた。その理由は代理理論で語られる。つまり、人間が、多数の人間を代表することによって、多数の人間があたかも一個の人格として行為しているのである。その人為的人格は多数の人間の同意ゆえに、強大な力を持ち、人々の自然権の委ねる先としては都合がいいのだ。

猫がリヴァイアサンになる未来

『リヴァイアサン』の第一分冊の考察はこれで完了した。人間の本性の考察から、一個の巨大な人格形成の可能性を示唆したところで、内容は第二分冊に移っていく。

だから考察としてはこれで終わっていいのだけど、今日の民主主義との不思議な関連に気づいたのでそれを書き留めておきたい。民主主義の、これからの日本の行く先についてである。

筆者に『リヴァイアサン』を読む契機を与えてくれた成田悠輔の著書『22世紀の民主主義』の副題は「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」である。成田は「民主主義はデータの変換である」(p.164, 成田) と定義している。つまりは、なんらかの民意「データ」を変換して、たとえば、立候補者・政党の勝敗といった社会的な意思決定を出力する装置として民主主義をとらえているのだ。

その民主主義は、そのシステムが初めてデザインされた古代ギリシャからなんら変わっていないことに成田は疑問を呈している。一人一票の多数決で代表者を選び、その代表者があらゆる政治的イシューに的確な解決策を与えるという仕組みそのものに無理があるのではないか、と問いかけるわけである。

成田が提示する新しい民主主義は、無意識民主主義と名付けられるシステムである。それは、今まで投票という形でしか代表されなかった民意を、もっとバラエティ豊かに集積し、個別のデータ同士を突き合わせることで立体的になった民意を政策決定に生かすというものである。その民意の集積はアルゴリズムによって自動で行う。

しかし、政策決定を人間ではないもの、アルゴリズムにまかせるのは心理的に抵抗がある。責任主体を求める群衆のために「いざとなればふと我の意識に戻ってフルボッコにできるサンドバックやマスコットとしての政治家が必要」と成田は訴えている。いわばキャラクターとしての政治家である。しかし、ただ単にキャラクターとしての役割しか求められないのならば、その政治家は別に人でなくてもいいのではないだろうか。たとえば、猫でもいいはずだ。

ソフトウェアという飛び道具があるからこそ実現できる民主主義があるのかもしれない。故障した民主主義に代わる新しい民主主義には猫が登場しているかもしれないのだ。

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脚注

水田訳:ホッブズ著、水田洋訳『リヴァイアサン(一)』(岩波書店, 1992年)
成田:成田悠輔『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SB新書, 2022)

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