梶井基次郎『檸檬』を読む~檸檬は憂鬱を超克する(2)~

「えたいの知れない不吉な塊」に追い立てられながら、そして、「見すぼらしくて美しいもの」に強く心惹かれながら街を彷徨っていた主人公の「私」はいよいよとある果物屋で檸檬に出会う。

前回記事はこちら。

また、YouTubeで『檸檬』と検索したら、一本の自主製作アニメを見つけた。『檸檬』への愛を感じられる動画だったので、こちらも併せて観ていただければ。

檸檬のあっけない勝利

「私」は果物屋で一個の檸檬を買うことにした。

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。・・・中略・・・いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も

その檸檬こそが、不吉な塊に追い立てられ彷徨っていた主人公が探し求めていたものだったのである。その一個の檸檬は主人公も驚くほどの効果を発揮した。檸檬の描写はこの小説を理解する上で重要な箇所であり、また、文章としても美しいと筆者は感じたので省略せずに引用しようと思う。

それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲(う)つ」という言葉が断(き)れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった

実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから

檸檬から来る感覚のすべてを「私」が驚きの感情とともに受け止めていることが伝わってくる。なんでもないただの一個の果物が、主人公を困惑させ続けた「えたいの知れない不吉な塊」に勝利したのである。

「つまりはこの重さなんだな」

檸檬の「単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚」が不吉な塊を克服した。この檸檬は、「見すぼらしくて美しいもの」を探し続けた主人公の最終回答であった。崩れかかった街並み、花火、びいどろ、いたって普通な果物屋と、そこに陳列されている果物たち・・・そういったものたちに出会ってきた「私」がついに見つけ出した美しさすべてがこの檸檬に詰まっているのである。それは「私」の述懐からもわかる。

つまりはこの重さなんだな。

その重さこそ常(つ)ねづね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ

重さとは存在そのものである。もちろん物理学的なことをいえば、重さは質量に重力加速度をかけたものだから、実際には存在そのものではない。ただ、日常を送るうえで、実感として「ああ、たしかにここにある」と感じるのは「重さ」なのではないだろうか。「私」が手にした檸檬の重さは、「私」が出会ってきたすべての美しさを集約するものであり、不吉な塊に対する勝利を実感するものとしては、その重さこそ印象的なものだったのである。

勝利を確乎たるものへ

気分がよくなった「私」は、「生活が蝕まれ」て以降忌避していた丸善に足を運んだ。

しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管(きせる)にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩(こ)めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。

久々に丸善を訪れた「私」はまた憂鬱に苛まれることになってしまった。そのとき、一度檸檬の存在も忘れてしまう。

私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪(たま)らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。

繰り返し抜き出してしまった本の群を目の前に、「私」は疲れてしまった。しかし、「私」が檸檬の存在を思い出すのはそんなときである。そして、一種の勇気が湧いてくるのだ。

「あ、そうだそうだ」その時私は袂(たもと)の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

「私」は積み上げた本の頂に檸檬を載せた。そうするとどうだろう。主人公は再び檸檬の勝利を経験するのである。

見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした

以前「私」が好きだったもの、ただ単に美しいだけで「埃っぽい」美しさは忽ち檸檬に圧倒されてしまったのだ。見すぼらしさと美しさを止揚した、すべての美しさを還元したところの檸檬が、その重さによって積まれている本たちを制圧したのである。

結果、檸檬の勝利、不吉な塊の克服や晴れやかな心情は一回限りのものではなくなった。「私」は檸檬の勝利を再現したのである。

勝利を永遠のものへ

主人公は以前好きだった本たちを制圧するだけでは飽き足らなかった。本だけではなく、ただ単に美しいものの象徴、丸善全体に対しても完全な勝利を収めようとしたのである。

不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」

これは、「私」が放浪していた街中で実践した錯覚の応用だった。主人公は檸檬の勝利を再現するだけにとどまらず、それを永遠のものにしようとした。というのも、檸檬の存在を大爆発という虚構の中に閉じ込めることによって具体的な事物から独立させたのだ。

この檸檬はいまでも積み上げられた本の上に鎮座して、不発弾として存在し続けているかもしれない。いや、それとも丸善の店員にとっくに片付けられているかもしれない。しかし、実際にどうなっているかはあまり関係ない。檸檬の大爆発は、「私」の錯覚の中、空想の中にあるのであって、そのアイデア自体は永遠のものとして、「私」のナレーションによって人々に語り継がれていくのである。

抜け目ないことに、「私」は「私」の存在自体を取り除くことによって虚構上の檸檬の勝利を徹底的に独立させている。「私」は檸檬を丸善に置いたまま、店を去り消えていくのだ。

そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った

ここに、檸檬の永遠の勝利は確定した。檸檬は単に憂鬱を克服しただけではない。永遠に、完全に克服したのである。それは超克といっていいだろう。

どうしてそこまで勝ちにこだわったか

『檸檬』の考察はここまでとしよう。えたいの知れない不吉な塊、憂鬱を紛らわせた檸檬という存在に勝利の再現性、永遠性を付与したのがこの小説のシナリオであると、筆者は理解した。

この小説がそのような物語だったとして、しかし、なぜ作者の梶井基次郎はそこまで檸檬の勝利にこだわったのだろう。それは、彼の境遇に由来していると思う。

梶井基次郎は31歳で夭折した。肺結核だった。物語中の「私」が病鬱だったのも、また、梶井基次郎の作品に出てくる主人公のほとんどが病弱なのも、作者の背景によるものだったのだろう。

だからこそ、である。憂鬱にどうしても勝利したかった。彼は生前、ほんとうに檸檬を手にしたのだろうと筆者は想像する。その香り、涼しさに感動した。熱をこもった体に、その爽やかさが染み渡ったのではないか。しかし、檸檬は具体的な「物」である以上、いつかは腐ってしまう。この貴い果物を永遠のものにしたいと思ったとき、梶井基次郎は檸檬を小説の中に閉じ込めたのではないだろうか。

事実、梶井基次郎の檸檬は永遠になりつつある。少なくとも、初出からもうすぐ100年経とうとする今日の筆者に、鮮烈な檸檬のイメージを伝えているのだ。

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