梶井基次郎『檸檬』を読む~檸檬は憂鬱を超克する(1)~

梶井基次郎『檸檬』との出会いは筆者が大学生の時だった。日本文学で博士号を取ったアメリカ人教授の講義で課題として出されたのだ。それで、『檸檬』との最初の出会いは英語だった。

そのときから、「なんだかよく分からないけれど、澄んでいる」というのが梶井基次郎の印象だった。改めて原文の日本語で読み直しても、何か不思議でとらえどころがない作品だと感じた。ただ、精しく読んでいくとその澄み切ったつかみどころのなさに、意思の強さみたいなものを見いだせたので今日はそれを共有してみたい。その意思の強さとは、憂鬱を超克しようとする強さである。

あらすじ

あらすじは、情感あふれる描写を抜きにして単に事実を抜き出すと、おどろくほど単純である。

病鬱な主人公の「私」が街を浮浪していると京都寺町の果物屋に行き着く。その果物屋で檸檬(レモン)を一つ買って再び浮浪すると今度は丸善にたどりついた。本をバラバラに抜き出し、高く積み上げると、その頂に果物屋で購入した檸檬を添えた。そして「私」は檸檬が丸善を爆発する空想をしながらそのまま店を出た。

えたいの知れない不吉な塊

『檸檬』の主人公は病鬱であり、書き出しは、そんな主人公がわけのわからない何かに追い立てられるところから始まる。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。

「塊」としか言いようがない、形があるわけでもない何かがあると「私」は感じていた。そしてその塊は、「私」を圧迫し、追い立てた。追い立てられて、主人公は町をさまようことになる。

私はまたそこから彷徨(さまよ)い出なければならなかった。何かが私を追いたてる

その不吉な塊の正体は「焦燥」に近いし、「嫌悪」に近い。また、主人公は病気をもっていて、作品の基調には病鬱のやるせなさがあるように読み取れる。

えたいの知れない塊に追い立てられる「私」の逃避は、現実にとどまることが耐えられないほど切羽詰まったものだった。「私」は錯覚、想像を自らつくりだして、その中に逃げようとする。

時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。・・・中略・・・錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ

ここで不吉な塊の脅威が切実性を伴って訴えられつつ、主人公が錯覚に逃げる様子を描写することで、来る「檸檬爆発」のファンタジーの準備がされるのである。

見すぼらしくて美しいもの

不吉な塊に追い立てられていたころの「私」が好きなものは、見すぼらしくて美しいという、矛盾した性質をもつものだった。

何故(なぜ)だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった

「私」は街を浮浪する中で出会う、見すぼらしくて美しいもの、を次々に紹介していく。

私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆(そそ)った

それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽(かす)かな涼しい味があるものか。・・・中略・・・まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る

このように色彩豊かな描写の中で主人公は、五感を研ぎ澄ましていく。えたいの知れない不吉な塊に追われながら、何か救いのようなものを探し求めていろいろな「見すぼらしくて美しいもの」を発見していくのだ。

矛盾のない美としての丸善

見すぼらしいことと美しいことは、語の本来の意味で言えば矛盾している。「私」が強く引き付けられた物はそういった矛盾を含んだ美しさであった。しかし、『檸檬』の中に登場する「美しいもの」はそういった矛盾を含んだ美だけではない。主人公が以前好きだったものとして、単純に美しいものがあった。それは丸善である。

生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管(きせる)、小刀、石鹸、煙草たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。

主人公が述べているように、以前、「私」は丸善が好きだったのだ。しかし、「私」の審美眼は、生活が蝕まれる前と後とで変化した。街をさまよう「私」は、もはや丸善を重苦しいものとして否定的な感情を抱いている。

しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった

以前は美しいものとして愛好していたものを否定して、矛盾をはらんだ美を愛し求めてさまよう「私」は止揚の過程に入っているといえる。「私」は、ただ単に美しいものではなく、「見すぼらしい」という否定要素を含んで矛盾葛藤した美を求めるようになったのである。

この矛盾葛藤は物語後半で克服されることになる。見すぼらしくかつ美しいものの否定、いわば敵対手としての「ただ単に美しいもの」が丸善によって象徴されて、丸善は空想上の爆破対象となるのである。

檸檬登場の予感

不吉な塊に追われながら、また、見すぼらしくて美しいものに強く惹かれながら「私」の彷徨は続いていく。その中で着々と、メインテーマである檸檬の登場が準備される。見すぼらしさと美しさの止揚としての檸檬の登場は、街の中でも予感されていた。

雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵(ひまわり)があったりカンナが咲いていたりする

向日葵やカンナといった「びっくりさせ」られるような鮮やかなイエローを往来に見ながら、とうとう「私」は寺町の果物やにたどり着いた。「私」の矛盾した審美眼に合格するものが、そこにはあった。

そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗ぬりの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる

そんな、音楽が形になった果物たちの間に檸檬があった。それが主人公と檸檬との出会いになり、不吉な塊との勝負につながっていくのである。

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考察は(2)に続きます。

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