『KJ法 渾沌をして語らしめる』を読む①~揚棄、宇宙、本然~

ーこの記事の要約ー
創造的行為とは、問題を揚棄するプロセスである。このプロセスの構造として、W型図解が考えられる。プロセスの中で、現代のわたしたちにとって隘路をなしてきたのは「判断」のステップであり、KJ法はこの判断力の向上のために川喜田二郎によって開発された。KJ法とは、渾沌から出発し、宇宙をつくり、本然に至るまでの発想法である。

創造的行為の達成を繰り返すと真面目がおこる。創造的行為を通して形成される参画社会こそ、現代世界の病を治す根本療法だ。

ー想定読者ー
広義KJ法を実践したことがあり、かつ、『KJ法 渾沌をして語らしめる』(以後『KJ法』と略す)を読んだことがある読者。KJ法の知識を復習し、また、更新する場合にこの記事を推奨する。

ー出所と注釈ー
本記事は『KJ法』から取った書き抜きを、KJ法によって組み立てて叙述化したものである。ところどころ挿入した図も「第〇図」とあるものについては、『KJ法』から引用した図である。《》は筆者による発想または解釈を示す。

問題を揚棄する

創造的行為は問題を揚棄するプロセスである。創造的行為のことを、問題解決、一仕事、あるいは単に行為と呼ぶことにする。

《弁証法は、問題を否定し、しかしその問題は契機として保存しながら、高次の解決に至る過程である。弁証法は「止揚」とか「揚棄」などと訳されたが、KJ法の文脈では、産物と成長した自分ということを高次のレベルに移行するというイメージで「揚」、問題を「もはや問題ではない」ものとして片付けていくイメージで「棄」を組み合わせた「揚棄」という語を使いたい。問題解決とは結局、問題が問題ではなくなることなのだ。『仕事は楽しいかね』の中で出てくる、問題の向こう側にいくこと、「ワニと仲良くなる」という説話を連想した》

行為は各ステップを自覚的に践んで達成すると実りが豊かになる。各ステップは、大きく括ると「判断」「決断」そして「執行」である。

行為: 判断 → 決断 → 執行

もっと細かく見ていくと、一仕事は次のような構造になっている。すなわち、すべての一仕事はW型である。

行為がより一層「創造的」であるといわれる条件は(1)自発性、(2)モデルのなさ、(3)切実性の三つがあげられる。この三条件を創造的行為の三条件と言う。創造的行為の三条件は互いに矛盾するが、その矛盾は実践によって解消され、達成すると産物が生まれる。このことは、行為がそもそも問題解決であることからも当然のことだ。ゆえに、問題解決は弁証法であり、換言すると、揚棄である。

また、一仕事は、そのデザインにさえ工夫を凝らせば、どれだけ分割しても、その部分部分を一仕事化することができる。これを一仕事の分割可能性と言う。一仕事をチームで行うとき、「信じて任せる」方式を採れるのはここに根拠を求められる。個人であっても、チームであっても創造的行為を実践することができるのだ。

しかし、現代に生きる私たちは、この行為が不全になりがちである。その隘路は、判断力であると言える。では、判断力はどのように向上したらいいだろうか。

宇宙をつくる

判断力の行使またはその向上のために川喜田二郎はKJ法を開発した。KJ法には広狭の定義があり、狭義の定義は後の「本然に至る」の段で説明するような、ラベルづくり以降の手順である(下図を参照)。広義KJ法は、取材+狭義KJ法 である。

取材はタッチネッティングという技術体系を行う。タッチネッティングは「クモノス」とも言われ、略号は TN である。タッチネッティングは、①ブラツキ、コンパス、座標軸的知識および調査項目図解などの準備をし、②さまよいつつ取材網をクモの巣のように張りめぐらせて観察・記録し、③捉えたデータは四注記を付してデータバンクに保存する、手続きである。

タッチネッティングの②を行うときに心得るべきこととして探検の五原則がある。

  • 三六〇度の視角で
  • 飛び石伝いに
  • なんだか気にかかることを
  • ハプニングを逸せず
  • 定性的に捉えよ

この助言は観察者の姿勢として取材活動全体を通して役にたつ助言である。

《探検の五原則をさらに圧縮すると「心が動いたとき、さっと移し取る」となるのではないか。ここでは複式簿記との類似もみられる。複式簿記では会計等式の主要素が動いたときに、仕訳をするのである》

タッチネッティングの中に探検ネット、ニックネーム「花火」があるが、探検ネットは調査項目図解を作成したり、簡便にデータを整理しておくのに役立つ。『KJ法』の中では山浦晴男によって、単独技術として解説された。花火日報を携えた討論なら、そのまとめた結果は、意見のまとめというより、ほとんど状況把握になっている。

《しかし、KJ法の「実務化」というタイトルはよくないのではないかと思う。まるで、KJ法が実務では使えないといっているみたいではないか。KJ法が使えないのではなく、あとでも説明するように、使いどころを間違えているだけではないか》

取材のための討論としてブレインストーミング、略号 BS を行うことがあるが、オスボーン氏が提唱したブレインストーミングの四原則は、探検の五原則を会議討論の場に活用したものであると言えるかもしれない。

取材活動をする上で気を付けたいのは、事実とデータは違う、ということである。事実はわたしたちには知りえない。事実に根差して現れた「現象」のみを、わたしたちは感知、あるいは、経験できる。現象を観察し、記録することでデータを手に入れることができるのだ。

ここで、データを採るときにわたしたちがいったい何をしているのか、ということを考えてみたい。わたしたちは、本来切れ目のない、縫い目のない自然に対し〔切断→圧縮→シンボル化〕を行い、そのシンボル群を組み立ててこの世界を意味のある全体として掌握している。言語はシンボル化の最たるものといっていいだろう。言語を持ち、シンボル化の上で抜群の能力をもっているだろう人間にとって、物事に名前を付ける、ということは、そもそも観察を鋭くできる第一歩でもある。切り取って圧縮した現象に対し、シンボルを与えているのである。

取材活動はこういった、人間のシンボル化の能力に基礎をおいている。問題をめぐり「関係がありそうなこと」を取材することで、状況の全体を把握していく。

ところで、問題はそれが複雑怪奇で流動性があり、難解なものになると渾沌と形容したくなる。取材は、渾沌から現象をシンボル化し、移し取ってデータとする活動であると言えるだろう。

KJ法では、データをラベルに記載する。取材が進むにつれてラベルが集まってくると、たくさんのラベルの群ができる。このラベル群全体は、渾沌を写し取ったデータ一式が揃っているという意味で、宇宙であると言っていい。宇宙とは、問題をめぐる渾沌を扱いやすい形に写像したモデルである。

《数学で全集合を Universal Set とも言う。高校で数学の授業を受けたことがある人は、集合と論証の授業で全体集合を大文字の U と書いたことを覚えていないだろうか。考える全部のこと、議論領域を宇宙と言うのだ。余談ではあるが、近年、ABC予想に関連して話題の望月教授の宇宙際タイヒミュラー理論で語られる「宇宙」というのも、考えられうる数学の道具一式のことを指しているのではないだろうか》

以上のことを要約すると、取材は、渾沌から宇宙をつくる作業であると言える。

本然に至る

狭義のKJ法では、取材して得られたラベルに対して作業を行う。扱うすべてのデータの集合全体は、先に述べたように、ひとつの宇宙である。この宇宙の中でラベル一つ一つの「志」を聴き、ラベルに記された「志」を宇宙の中での相対的な近さで集め、集まったラベル群に対して表札を書き上げていく。志が何ゆえここに集まったのか、集まった所以が感じられ、それがひとまとまりの志をなしているか、自分の心に問うのである。システマティックな方法としてはミニKJ法を行う。

《4、5年前だろうか。KJ法の研修を行っている霧芯館でKJ法の研修コースを受講した。そこでは、表札づくりで核融合法と言う方法を学んだ。核融合法は点メモから表札を作る手続きである。ミニKJ法の「メモ紙片すべてを空間配置し、意味構成を見いだす」の派生と言えるだろう。また、最近では、miroというホワイトボードアプリを使った研修の試みにお声がけいただいて参加した。現在進行形で、KJ法の研究は進んでいる》

《ちなみに、わたしは、狭義KJ法一ラウンドでは㈱ニチバンのマイタック™ラベルを使っている。元ラベルにはML-9を、ミニKJ法ではML-1を愛用している》

川喜田二郎によれば、グループ編成は次のような作業である。ただのアナロジー以上に、後に述べるKJ法文化の創造、参画社会の組織形成の実際を考えたうえでも重要な助言である。

  • ラベル拡げ:志を抱いた人びとを広場に集める
  • ラベル集め:同志の糾合を助ける
  • 表札づくり:旗上げ

グループ編成は積み重なるほど抽象的になり、ますます具体的なものごとの核心に迫る力を備えるようになる。

また、このグループ編成は発想の諸原理にもかなっている。発想を生み出す力は、ギャップ、濃縮とマッチングだ。もともと互いに異質なデータを扱うので、グループ編成はデータ間のギャップを利用していると言える。ラベル集めはマッチングであり、表札づくりは濃縮であると言える。

《この「ギャップ」「濃縮」および「マッチング」は『KJ法』p. 340 の「発想の諸原理」をA型図解化した結果得られた自分なりの要約である。図解化していた中で思ったのは、「発想の諸原理」の中でも注目すべきは「アナロジー」である、ということだ。アナロジーは、図解中、「濃縮」と「マッチング」の島の共通部分に位置づけられていた。思えば、NM法はアナロジーが主要な理論であるし、また、わたしが尊敬している神田昌典が開発したフューチャー・マッピングも、ストーリーからのアナロジーであった》

ここで重要なのは、ラベル全体という宇宙に対して、元ラベルは全体に対するたんなる部分ではない、ということだ。なぜなら、元ラベルの総和をとっても、宇宙にはならないからである。元ラベルの一枚一枚は全体を象徴する志、訴えをもっているのであり、「部分」という言葉より「小宇宙」といったほうが適切だ。ちなみに、川喜田二郎はこの説明をするために、西田幾多郎の哲学を引き合いに出していた。個即全、全則個なのである。

《簡単にネットサーフィンして読んだ程度だが、『華厳経』との関連があるのかもしれない》

そもそも、狭義KJ法に先立つ取材が行われたのは、渾沌から主体性と関心が生まれ落ちたからである、と川喜田二郎は述べる。わたしたちは主体性をもって創造的行為をはじめ、「私が関心をもって感じていることは何か」という質問を契機に渾沌と向き合い始める。そして、わたしたちは取材によって、渾沌の写像であるところの宇宙をつくりだした。

ところで、創造と保守の弁証法であるところの主体は基本的にヤリトリを必要とする。ヤリトリとは、ボトムアップとトップダウンの対等相互なフィードバックと、それを可能にする情報システムのことである。KJ法の思想では、川喜田二郎は、文明化によってボトムアップの流れが失われたと主張している。このボトムアップこそ、KJ法の一ラウンド中、グループ編成で実践していることだ。

KJ法のグループ編成では宇宙と小宇宙との間、つまり、ラベル全体と元ラベルとの間で、志の近さでヤリトリを進めていく。わたしたちはラベルの志を聴き、受身的能動でラベルを組み立てていく。

ヤリトリが進み、A型図解が完成すると、宇宙は本来あるべき姿で秩序つけられる。抽象化が完成し、宇宙はもはや渾沌性を失って、全体として秩序だった、啓発的なメッセージをもつようになる。このように秩序つけられた宇宙を本然という。この流れを図にすると次のようなものになるだろう(筆者=ひつじ が作成したもの。記事要約で提示したものを再掲)。

本然に至ると、KJ法を行使した人は「雲と水と流れゆこう」という心境になる。この内面体験は、KJ法の社会実験が行われた移動大学のスローガンにもなっている。

このように見てみると、広義KJ法は、渾沌→宇宙→本然と移りゆく発想法であると言える。

KJ法: 渾沌 → 宇宙 → 本然

また、この方法は人間の主体性およびヤリトリに基づくので、誰でも自覚的な努力で実践できるのだ。ここに、一個人の実践に終わらない、社会や組織に適用される可能性を見出せる。

真面目がおこる

KJ法はもともと、判断力の行使のために創案された。しかし、その応用範囲はこの限りではない。KJ法は汎用スキルなのである。

「問題を揚棄する」の段で説明したように、創造的行為はW型モデルで表現される。向き合う問題の渾沌の度合いが増すにつれ、一回のKJ法の行使では解決できず、よって、何回も繰り返し、畳みかける形でKJ法を行使する必要に迫られることがある。累積してKJ法を行うことを、読んで字のごとく「累積KJ法」と言う。

累積KJ法では、どんなラウンドでもKJ法を行うが、場面ごとに心の姿勢はたいへん異なる。場面転換が大切なのだ。

《累積KJ法は、W型の創造的行為を6ラウンドの標準で再定義する》

また、R3以降では衆目評価法を行う必要もある。衆目評価法は、当の問題をめぐる状況のあらゆる面を理解した人々が、観点と前提を予め申し合わせてから、積極的に価値を求める姿勢で行う。KJ法と並んで、衆目評価法も創造的行為の汎用スキルであると言える。

このように、創造的行為にはW型というすなおなモデルがあり、その道のりでKJ法および衆目評価法を汎用スキルとして何回も行っていくことがある。しかし、逆に、KJ法や衆目評価法を丁寧に行わない場合も当然あることを忘れてはならない。肝要なのは、使いどころだ。

あくまでも、状況に応じるのだ。状況にぴったりとあっているのなら、既存の理論や技術の適用、または、習慣でアテハメてもよいのだ。あるいは知識庫の情報を適用して再確認コースでことが済むならそのほうがいい。汎用スキルであるからこそ、どんなときでも使えるという長所が、使わなくてもよい場面で実行して時間の負担感が増すという短所にもなりえる。

《「金槌を持つとすべてが釘に見える」という言い回しを思い起こそう。会社員として、部下の立場で働く上では、KJ法を使うより素直に「これどうしたらいいですか」と聞いたほうが早いことが多々ある。いわば、所属する組織が蓄積している知識庫を使う、使うための人間関係を構築しておくほうが安上がりである》

《ただ、個人的には、最初のうちはなんでもかでもKJ法をやってみて、使いどころの勘を養うのがいいのかもしれないとも思う》

さて、以上のように一回の創造的行為を見てきたのだが、しかし、人間の生活は、一回の創造的行為の達成で済むわけではない。わたしたちは、状況に応じて、一仕事を繰り返していく。ここで、首尾よく問題を解決する経験を繰り返した人は、どのような体験をするのかを述べておきたい。

Wの各ステップを自覚的に、柔軟に実践し続けると、矛盾葛藤は生産的に乗り越えられ、真面目がおこる。「真面目」は しんめんもく と読む。つまりは、世界がありのままの姿でみずみずしく見える心境のことで、花は紅、柳は緑とそのままに受け取れる境地である。ススキが原に上った月を「今夜の月はきれいだ」と素直に受け取ることができる感受性である。

《蘇東坡(1037~1101)に「柳緑花紅真面目」という漢詩がある。二郎さんもここから言葉を借りたのだろう。『KJ法』p. 450で述べられている内面体験、すなわち、世界がみずみずしく見える→なんでも見てやろうと思う→見れば知る→知るは愛のはじめと悟るという一連の流れを、簡単に真面目と括ってみた》

創造的行為の繰り返しは、以上のように真面目を起こす。しかし、現代社会は、創造的行為の内、判断力をないがしろにしてきた。だからこそ、KJ法は創案された。片輪になっていた創造的行為をKJ法は補完するのだ。KJ法と言うピースが埋まってこそ、真面目の実現可能性が高まると言えるだろう。

参画社会へ

川喜田二郎は第二次世界大戦の体験から、余生を国際平和に役立つことに活用することを決断した。その貢献の最たるものがKJ法であった。解体の時代という背景が川喜田二郎をKJ法への創案へと駆り立てた。文明化および近代化によって管理社会化した現代と、それに伴ってアテハメ思想が今日の世界に惨害を流してきたと彼は見た。どんな僻地もそれを孤立したものとして扱うことができない地球的世界で、この傾向が静かに、しかし、確実に広がってきたのである。

この問題に対してKJ法は、生命論的世界観の立場に立って向き合う。生命論的世界観とは、創造的行為が いのち を実顕すると観る立場である。KJ法を行うことは、生命論的世界観の立場を引き受けることであり、この立場で対照的なデカルト的二元論や情報処理技術等を扱っていく。

KJ法ではデータ同士のヤリトリを進めていくが、このヤリトリは組織の形成にもそのまま適用される。トップダウンに偏った現代社会の組織に対して、自然な、ボトムアップのフィードバックの流れを作ろうとするのがKJ法の思想だ。トップダウンは信じて任せる方式で一仕事性を担保し、ボトムアップは加乗減除方式で祝福された合意を形成する。このような、トップダウンとボトムアップの対等相互なフィードバックがある社会を、川喜田二郎は参画社会と呼んだ。

参画社会の形成のためには、その形成の本質である創造的行為を保証しなければならない。KJ法は何よりも創造的行為を尊重する。一つ一つの創造的行為の価値、その独自性を尊重し、保証する社会を築かなければいけないと川喜田二郎は説く。会議の討論メンバーや衆目評価法の評価者にバラエティを求めるのはこのためだ。

創造的行為の価値を尊重し保証することは、KJ法をめぐる諸技術の底に流れる思想である。たとえば、取材をめぐっては礼儀をこの上なく大切にしなければならないと川喜田二郎は忠告する。責任・プライド・礼儀を保証するために四注記をデータには付記する。また、創造的行為の達成の結果生まれる産物にたいしては、〔作品→鑑賞→評価〕という手続きをとって、その価値を認め、受けいれていく。そのようにして、創造的行為の営みを社会全体で守り、励ましていくのである。

創造的行為を通して、社会としては参画社会を形成していく。その過程こそ、管理社会化への解毒剤として作用しうる根本的な原因療法だろう。

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あとがき

私がKJ法に出会ったのは大学生のときだった。よく面倒を見てくださった教授が「君、こういうのを知っているか」と紹介してくださったのだ。その日、私は大学の図書館で『KJ法』を探し当てて読んだ。「これだ!」と思った。

それまで、学校教育で学習している中で虚しさのような、違和感を覚えていた。イライラしていた。それに反抗するかのように自分なりの知識の探求を実践していたが、その方法は不経済で、なかなか成果が上がらなかった。どうしようもなかったのだ。ニヒルの道に進んでいた、と言えるかもしれない。そういった、ぐるぐる悩んでいた自分に希望が現れた、そんな体験だった。

この巡りあわせを、私は心から感謝している。大げさだと笑われるかもしれないけれど、もしソクラテスが言うように魂が永遠であり、生まれ変わるものであるなら、私はぜひもう一度この理論技術に出会いたいと思うのだ。

さて、そんな熱っぽい気持ちでKJ法に対して改めて向き合ったとき、KJ法とはいったい何なのか、ということを自分なりに総括したいと思った。そう思ったからこそ、丹念に『KJ法』に対してKJ法を実施してみたのだが、その結果、すでに述べたように、KJ法とは渾沌→宇宙→本然へと移りゆく発想法だと結論できた。

ああ、すっきりわかった、自分は一仕事を成し遂げたという気持ちよさでいっぱいだった。そしてぱらっと本をめくったとき、次の一行に出くわして私は驚いた。

4-2 渾沌から本然へ

なんと、目次の章立て「XI 思想としてのKJ法」の一節にずばり書いてあったのだ!あとは、「渾沌」と「本然」の中間に、「宇宙」という飛び石を置くだけである。

こういうことを書いたとき、読者の中には「なんだ、時間をかけてKJ法を実施するまでもなかったじゃん」と思う人が、もしかしたらいるかもしれない。しかし、私はそう思わない。

川喜田二郎の著作全体から折に触れて取ったデータを組み立てた結果得た自分なりの結論が、その著作の章立てにあったのである。ああ、確かにちゃんと、私は二郎さんのメッセージを受け取れていたのだなという実感が嬉しかった。

それに、KJ法を行っていなかったら、この一行こそが最重要であるとアクセントをつけられなかっただろう。「KJ法って結局なんなんですか?」と聞かれたとき、私はこの箇所を指さして、「これだよ」と言えばいいだけなのだ。

自信もついた。これから、私はなにか渾沌とした状況に向き合ったとき「まず宇宙をつくろう」と思える。やるべきことは決まっているのだ。シンプルなことこの上ない。

私はなんともいえない安らかな気持ちでこの作業を終えた。

・・・

長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。感想、コメントなどありましたらぜひ寄せてください。あなたの声が、時としてつらい執筆の継続の力になります。それに、KJ法のことを語らいあう人がいることが、私にとっては仕合せなので。

それでは。

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