論理学から何が見えるか

野矢茂樹の諸著作に出会って、私は次のような問題提起をした。

論理学

論理学をカバーしたい。論理とはいったい何か。それは、言葉のネットワークであり、とくに、演繹による必然性のネットワークであることは、既読の書籍から学んだ。しかし、実際の運用、すなわち、論理の構築および証明についてトレーニングをしたとはいえない。論理の表現であるところの、記号論理学を習得したい。

立脚点

思考の立脚点を確立しよう。私の、考えることの土台をつくろう。その土台はたぶん、右足のことを考えるときは左足で立ち、左足のことを考えるときは右足で立つというような、そういう軽やかなステップなのだろう。私の中で、哲学を確立、あるいは、確立ということが難しいのであれば、暫定しよう。私はどういう風に考えるか。考えるべきか。どうこの世界を受け止めようか。

野矢茂樹

野矢茂樹が見ている哲学的風景を私も見たい。『語りえぬものを語る』では、『哲学論理論考』に反旗を翻している。その所以はなんだろう。「哲学的な風景が浮かび上がる」、その風景とはどのようなものか、見える形で示してみたい。一覧してみたい。『語りえぬものを語る』に絞って調べを進めてみてもいいのかもしれない。

あるいは、絞らずに調べを進めるなら、上の段で述べた論理学や立脚点を野矢がどう説くのかというジェネラルなことを考えるのももう一つの道だろう。

ウィトゲンシュタイン

野矢茂樹はウィトゲンシュタインを研究している。野矢茂樹に影響を与えたこの人は、いったいどういうことを考えていたのだろうか。論理空間とはいったい何か。もしかしたら、論理学はウィトゲンシュタインから始まるのではないだろうか。現代論理学の祖なのかもしれない・・・と予想しているが、この予想は合っているだろうか。

KJ法との関連

野矢の著作をぱらっと読んでいると、自然と、KJ法との関連が連想された。野矢の説く論理学は、「本来縫い目のない自然を分節化する」という論点でKJ法を支えている理論に通じている。思えば、KJ法は野外科学であり、論理学は書斎科学である。互いに、どのような関係にあるのか、考えてみたい。

ハイライト

前段のKJ法以外にも、野矢茂樹が説明する論理学および彼から見える風景は、きっと、私のこれまでの探求や経験の一つのハイライトになるのではないかと思わずにいられない。私のこれまでの探求や経験、それは例えば、次にあげるようなことだ。

ソクラテス

ソクラテスはギリシャ神話を前提とし、述語論理で論を展開したのではないだろうか。野矢茂樹から見える景色でソクラテスをもう一度読み直したい。

無限論

高校の数学の授業を受けた時から、無限という概念が引っ掛かっていた。『虚数の情緒』という本で、カントールの、無限の濃さの話を読んで、その時は一応納得した。しかし、改めて、あれはどういうことだったのかと、復習してみたい。

言語の考察

私は、大学で、高橋先生の下で、言語学をかじった。『意味の意味』や、ノームチョムスキーの生成不変文法(で合っていたかな)に興味をもった。(そういえば近頃、古舘伊知郎と成田悠輔の対談で、このことが話題に上がっていた。)野矢の著作には、言語に関する考察が散見された。これらの考察を理解したい。

計算機科学

私は、教員の後はSEになった。そこで、少なからずコーディングや計算機科学に触れた。これらの経験を、一つの統一的な立ち場から眺めて整理したい。というのも、コーディングや計算機科学は、論理学の実装ということが言えそうだと考えるから。一つ深い視点で、これらの分野のことを語れるようになりたい。

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以上に述べたようなことをハイライトすることで、私はきっと、新しい立脚点に立つに違いないと、希望を感じているのだ。

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