フリーレンブルー~『葬送のフリーレン』考察~

アニメ『葬送のフリーレン』の、主にエピソード1第1話「冒険の終わり」の範囲で考察した内容。

『葬送のフリーレン』は恋と残酷性の物語である。それはフリーレンブルーで端的に表現される。

おとぎ話の世界

まずはストーリーの舞台を語ろう。『葬送のフリーレン』の舞台は、女神や大魔法使いフランメの信仰がある世界だ。

女神の正体は明らかになっていない。凱旋した勇者一行を招き入れた、王様の屋敷の壁に飾られていたのがおそらく女神なのだろう(すすきのような草原で満月の前で右手を上に捧げている女性像)。女神は死後の世界、天国の象徴なのかもしれないと想像できる。

また、大魔法使いフランメも『葬送のフリーレン』の舞台のキーとなっている。アニメはRPGのようなマップと、オレオールについてのフランメの手記から出発する。後のエピソードで分かることだが、フランメとフリーレンは先生と弟子の関係にあって、フリーレンの「花畑を出す魔法」はフランメのお気に入りの魔法であった。

「花畑を出す魔法」と言及したように、この世界観では魔法が登場してくる。魔法は人類の魔法、女神の魔法そして呪いがあって、これらは大魔法使いフランメ、女神そしてそれ以外に対応している。「それ以外」というのは主に魔族のことを指しているので、その頂点は魔王だ、と言えるかもしれない。

このように『葬送のフリーレン』は、魔法が使えて、それぞれの魔法に大魔法使いフランメや女神への信仰が編み込まれた、おとぎ話の世界であると言えるだろう。

妖精フリーレン

おとぎ話の世界での主人公フリーレンはエルフ、すなわち、妖精であり、人間とは別の存在である。

妖精であるフリーレンは人間の時間ではなく、自然の、悠久の時を生きている。フリーレンの人生が悠久であることは、フリーレンが小川に身を委ねているカットや月日経過のタイムラプスで表現されている。

ゆえに、フリーレンは人間やその営みの変化、発展する速さを実感として理解できない。フリーレンが再び訪れた町には、前にはなかった勇者一行の像が立ってあった。50年経って変わった町並みが、フリーレンにとっては驚くことだったのだ。人間の変化や発展のスピードは人間の向上心の表れだとフリーレンは感じ取ったのかもしれない。

また、フリーレンは老いるということがよく分からない。「仕事を探さないと」「この先の人生の方が長い」と言うヒンメルに対し、フリーレンはつれなく返事した。50年ぶりに再開するとヒンメルは老いていた。アイゼンが、もう斧を触れるような年じゃないんだ、と言ったとき、フリーレンは驚いた顔をしていた。悠久の時を生きる妖精にとっては、老いるということがいまいちピンと来ないのだ。

フリーレンは、人間の寿命は短いと頭ではわかっていたつもりだった。フリーレンは人間の時間を生きていない。だから、フリーレンは人間にとっては当たり前な感情や思いが欠落していることがある。

たとえば、凱旋パレード中、魔王討伐を喜ぶ人たちの中でフリーレンはつまらなさそうにしていた。ヒンメルに預けていた闇黒竜の角を、フリーレンは些事と思っていたが、ヒンメルは大切な預かりものとして保管していた。ヒンメルが死んだとき、弔問客は涙を流さないフリーレンを薄情だと陰口した。「ヒンメルは幸せだったと思いますよ」とハイターは言ったが、フリーレンは「そうなのかな」と言った・・・

このように、フリーレンは人間とは違う存在なので、人間の当然の感情や思いが実感として分からないことがあるのだ。妖精であるフリーレンは、ましてや、恋を知りえない。

恋をしていたのに、恋を知らない種族であるから、恋だと分からなかった。だから、その気持ちを確かめるための旅にでる・・・『葬送のフリーレン』という作品の基調には、この構造があるように思える。

ところで、このようにフリーレンが人間の感情を、特に恋を理解しようと旅に出たきっかけになったのが、ヒンメルだった。

恋という感情が分からないエルフと、家族という概念が分からない魔族。ともに人間感情の「欠落」という点が共通しているように思える。魔族という存在も、『葬送のフリーレン』の作品の奥行きを生み出している。
当たり前の感情や思いが分からないというのは、言い換えれば、人間の切実性が分からないと言えるだろう。そのように考えると、男に女の切実さが分からないように・・・なんて俗っぽい考えと不思議な関連が見いだせるかもしれない。いや、そう考えるとフリーレンは男側なのか?

時間感覚、親愛

勇者一行は勇者ヒンメル、僧侶ハイター、戦士アイゼンと魔法使いフリーレンの4人パーティーだった。そのうち、人間の種族はヒンメルとハイターの2人である。

ヒンメルとハイターは、エルフと人間の間にある時間感覚の違いに思いを馳せた。10年を短いと言ったフリーレンにヒンメルは疑問を投げかけた。そして、50年後のエーラ流星の話をするフリーレンを見て、ヒンメルは微笑んだ。「エルフの感覚は分かりませんね」と言ったハイターにヒンメルも同意する。

ヒンメルやハイターは、悠久の時を生きるエルフと刹那の人生を生きる人間の間にある時間感覚の違いを乗り越えようとし、フリーレンに親愛の気持ちを寄せた。

ハイターはしばしば、フリーレンの頭を撫でることで親しみを表現した。勇者一行が再会したとき、ハイターはフリーレンを撫でた。頭を撫でてきたハイターに対し、フリーレンは「頭を撫でんなよ」と言ったが、このやりとりからも親密さが伺える。

特にヒンメルはフリーレンに対して強い思いを抱いていたと思われる。その思いをヒンメルは銅像や鏡蓮華の指輪の形でフリーレンに残した。それは、エルフと人間の、人生の長さの違いを真剣に考えたからこそ、死んでも伝わる思いとして形見を残しておきたかったのではないか。その狙いは叶って、フリーレンはヒンメルの葬式の後、鏡蓮華の指輪を眺めていた。

このようにヒンメルもハイターも、フリーレンに親愛の気持ちを寄せた。その気持ちや振る舞いに対してフリーレンはつれなかったが、ヒンメルの死後、フリーレンの気持ちに変化が現れる。寄せられた親愛の気持ちを受け取れなかった自分を後悔し、ヒンメルに対して強い思いを抱いていたことに今更ながら気づくのだ。いわば、「返す恋」に気づいたのだ。

しかし、『葬送のフリーレン』の残酷なところは、寄せられた思いに応える相手がもはやいないということであり、もういない相手への恋心を確かめる旅路をフリーレンが歩むことにある。その旅路とは、ヒンメルと以前ともに歩んだ冒険の道でもある。

隔てられた恋はロミオとジュリエットか。この場合、隔たりは階級ではなく、死である。あるいは、種族である。
卑俗な例でいえば、親孝行したいときに親はいないみたいなことかな。

閉幕

ヒンメルは冒険の象徴であり、冒険は幕を閉じた。

ヒンメルは冒険に、仲間とともに過ごした時間に愛惜の念を抱いていた。ヒンメルは冒険を、「くそみたいな思い出」と回顧する。50年後、老ヒンメルは戸に仕舞われていた剣を見ていた。過去に対する愛情、郷愁。2回目のエーラ流星を眺めているとき、ヒンメルは冒険を懐かしみ、フリーレンに感謝を伝えた。

しかし、エーラ流星を見た後、ヒンメルは死地へ旅立つ。ヒンメルは剣と共に埋葬された(ヒンメルの葬式の日、戸には剣がなかったことに注目しよう)。ヒンメルは終わりを迎えた。町の鐘が鳴り、光の中にヒンメルは消えていった。

このように、フリーレンは、ヒンメルの老いと死に直面する。『葬送のフリーレン』という作品は、老いと死から愛を知る旅が始まる。フリーレンは、ヒンメルが亡くなってこそ自分の欠落の正体が分かった。その欠落が恋だった。それを今更ながら取り戻すのが、この作品の残酷性である。

『葬送のフリーレン』では幾度も死を突き付けられる。『おくりびと』と関連がある?

心を動かされる

ヒンメルの逝去が、フリーレンの心を突き動かす。ヒンメルの死がフリーレンの「人間を知る旅」の契機となっているのだ。フリーレンは、ヒンメルが亡くなって初めて、「人間を知る」努力をしなかったことを後悔したのだった。

後悔の感情はまさに源氏物語の「なくてぞ」である。

加えて、ハイターとの別れ際の会話がフリーレンの気持ちを突き動かす。「それではお先に」と、最期を匂わしたハイターに対し、フリーレンは「怖くないの?」と問いかけた。人間はエルフと違って死ぬこと、生きることに切実性がある。死を契機にフリーレンは人間の理解を出発するのだ。

愛しい人を求めて死地へ向かう、という話はソクラテス対話篇にもあったな。

ヒンメルの死と、ハイターの死を思わせる発言が、フリーレンの心を動かした。フリーレンは人間を知る努力へと心を突き動かされた。「たった10年一緒に旅をしただけだし」と言って、フリーレンは涙をこぼした。その涙が、旅の契機である。

また、注意したいのは、「人間を知る旅」が同時に魔法収集の旅でもあるということだ。勇者一行の冒険を経験したフリーレンにとって、魔法は遠回りの愛情表現である。種族の違いをヒンメルやハイターが越えようとしたように、フリーレンも越えようとしていた。その越え方が、魔法だった。「銅像をきれいする魔法」(ヒンメル、勇者一行に対して)や、「甘い葡萄をすっぱい葡萄にする魔法」(アイゼンに対して)は仲間への親愛の気持ちの表現であったのだ。

知るは愛のはじめなり。

エーラ流星

平和の始まり(魔王討伐)とヒンメルの死という、それぞれの節目にエーラ流星が現れた。

一回目のエーラ流星。凱旋パレードは魔王討伐の終わりであり、同時に、おだやかな日常の始まりでもあった。エーラ流星がそれを象徴していた。勇者一行が帰還すると凱旋パレードが開かれ、穏やかな日常が描かれる。アイゼンは「終わってしまった」としみじみつぶやいた。フリーレンの後ろにエーラ流星が流れるカットが印象的だった。エーラ流星を見て、「平和の始まりにちょうどいい」とヒンメルは言ったことからも、エーラ流星が一つの節目であることが分かる。このとき、エーラ流星がもっときれいに見れる場所があるから案内したいとフリーレンは言ったのだった

二回目のエーラ流星。勇者一行は再開し、フリーレンの案内で「エーラ流星がもっときれいに見れる場所」まで旅をした。この旅の直後、ヒンメルは死去する。二回目のエーラ流星は、ヒンメルの生前と死後の重要な節目を表していると言えるだろう。先に述べたようにヒンメルが冒険を象徴しているなら、冒険は二回終わりを迎えることになる。

こうして『葬送のフリーレン』は冒険の終わりから幕を開ける。エーラ流星は、ある種、緞帳(どんちょう)の役割を果たしているのかもしれない。

『葬送のフリーレン』の空

『葬送のフリーレン』で描かれる青空は、淡いような悲しような感じがする。『葬送のフリーレン』を初めて見た時から、空の色が印象的だった。空の水色が悲しい。いや、寂しい。なんだか、しっとりとした感じがすると思っていた。しかし、考察を進めていた中で、ようやくその「しっとり」とした感じの正体がつかめた気がする。それは残酷性なのかもしれない、と。

フリーレンの旅はヒンメルの老いと死から出発する。もう会えない人への大切な思いを今更ながら一つ一つ拾い上げ、確かめていかなければいけないという切ない、ある種、残酷な物語である。そして、この物語は魔法という、遠回りな愛情表現と共にある。視聴者はフリーレンのヒンメルに対する気持ちを確かめる旅を見ながらもどかしく感じ、そわそわしながらフリーレンの後を追いかけるのだ。

フリーレンブルー。役に立つかどうか分からないが、『葬送のフリーレン』の恋と残酷性をよく表現した空の色にこういう名前を付けてみたい。この作品の下地には、このフリーレンブルーが塗られているのだと考えてみて、続きを考察してみよう。

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