一汁一菜を、一生懸命に

不幸になる3つのステップ

寒い、ひもじい、死にたい。不幸はこの3つのステップでやってくるらしい。

これは岡田斗司夫の動画で見た、人間が不幸になる順番についての話だ。岡田斗司夫は『じゃりン子チエ』の中の1シーンを取り上げて、「悩みに殺されない為の自衛術」を提案している。

『じゃりン子チエ』の漫画に出てくる、寒空の下で人のためにラーメンを作っていた店主は、人生を悲観して死のうと思った。しかし、人間の不幸は「寒い、ひもじい、死にたい」の順番でくるのだという話を聞いた店主は「そうだ、まずラーメンを食おう。そしてどてら(防寒着)を買おう」といって「死にたい悩み」の対処法を決めたのだった。

食事は、人間の生きるという行為の根本にかかわることだ。「食事」というと、高尚ではないと軽視されて、雑事のなかに取り込まれがちかもしれない。しかし、何か「高尚」なことを考えるにも、健康な体が必要だ。私たちの思考は、思った以上にボディとつながっている。ただおいしいご飯を食べることで解決する悩みだってあるのだ。

まずはご飯を食べてお腹を満たすこと。考えるのはそれからだ。

それなら、さて、何を食べようか・・・

外食をするというのも、もちろん、一つの手段としていいだろう。しかし、外食ばかりすると出費もかさむし、それ以上に「なんだか満たされない」という感じがある。かくいう私も、仕事が忙しいときはひんぱんに外食をしていたが、しかし、それでなんだか満たされないなあとも感じていたのだ。奮発して、高いお店にいっておいしいものを食べたこともあったけれど、なんか違うんだよなあ、と思ってしまう。

外食ではない、もっと経済的で効果的な方法がある。

自炊だ。

だけど、何を作ろう。献立を考えるのも面倒くさいし・・・

そんなときに福音になるような本がある。土井善晴『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫)だ。自炊の問題の解決はやさしい。味噌汁を作ればいい。一汁一菜でよいのだ。

そもそも、この本のことを知ったのも岡田斗司夫の切り抜き動画であった。岡田斗司夫さんがこの本を紹介していて、「これは!」と思い購入したのだ。

食事の問題に悩んでいるとき、土井先生は「味噌汁さえつくればいいんだよ」と、そっとアドバイスをくれる。

料理は簡単だ

ひもじさの問題を料理は解決する。料理は簡単だ。味噌汁が作れればいいし、味噌汁は味噌をお湯に溶くだけでできる。そこに、すいとん(小麦粉を水で練って作った団子)を入れれば、それでもう一汁一菜だ。日本文化が生み出した味噌のすばらしさを土井先生は語っている。味噌汁をのめば、それだけで、なんかほっとできるのだ。

一汁一菜はごはん、味噌汁(一汁)、つけもの(一菜)という献立の型である(p. 16)。つけものが無ければ、味噌をそのままごはんに付けて食べてもいいし、最悪、無くてもいい。この一汁一菜が和食の原型となっている。一汁一菜、それだけで十分に御馳走なのだ。

「こんなに簡単でいいの?」と思うかもしれないが、それでいいのだと土井先生は言う。なぜなら、毎日の食事はケの食事であり、質素簡便でいいのだ。

(日本にはハレとケの思想がある。ハレは特別な状態、すなわち、祭りごとである。祭りごととは、神様にお祈りして願い、感謝することであり、神人共食である。そして、ケは日常である。p. 32)。

一汁一菜でいいと思えれば、食事を簡便にすませられる。味噌汁はそれ自体ががインスタントなのであり、ある意味、究極のずぼら飯なのだ。インスタに上げるためだけの、きらきらとした食事は不要である。

料理はクリエイションだ

土井先生は『土井善晴の和食』というアプリで最新の献立や調理動画を提供している。私はこのアプリをサブスクリプションしていて、その中の動画で弁当の作り方を学んだ。

弁当の説明をするときに「料理はクリエイションなんですわ」と土井先生が船場言葉で語っていた。自炊は食材との、五感を通したコミュニケーションであり、自然とのヤリトリがある。

確かに、料理をつくる過程はそれ自体がレクリエーションみたいなものだし、調理して、一品一品料理ができていく様を見ていくのはそれだけでも楽しいと私は感じた。

また、料理は作る人と食べる人とのコミュニケーションでもある。賓主互換の楽しみがあるのだ(p. 176)。特に家庭料理は、作る人から食べる人への愛情表現になる。料理は人間関係をもクリエイトするのである。家庭の平和は台所から作られるのだ。

自炊はクリエイションであり、同時に自治でもある。このように見てみると、自炊できることは大人の、独り立ちの条件なのではないかとすら思えてくる。

しかし、だからといって構える必要はない。その条件は容易い。すでに述べたように味噌汁をつくればいいのだ。お湯に味噌を溶くことから生まれるクリエイションであって、実践がやさしいことが嬉しい。

料理はリズムだ

料理は簡単だ。しかし、だからといってなおざりにしていい、ということではない。簡単なことだからこそ、丁寧にやっていく。

淡々と暮らす。暮らしとは、毎日同じことの繰り返しです。毎日同じ繰り返しだからこそ、気づくことがたくさんあるのです。その気づきはまた喜びともなり得ます。

p. 37

暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。

p. 224

生きることの原点は、食事的行動であると土井先生は言う(p. 42)。食事的行動には、さまざまな知能や技能を養う学習機能が組み込まれている。食事的行動、つまり、料理をして食べるという一連の行為の中で人は生きることを全うできるのだ。人間の暮らしで一番大切なことは、簡単なことを丁寧に、一生懸命に生活することだ。そんな暖かいメッセージを土井先生は伝えてくれる。

生活の上で大切なのは同じことの繰り返し、リズムである。これを養老孟司は自足の思想、または、猫の生活と呼んだ(p. 224)。毎日同じことの繰り返しであるからこそ気づくことがたくさんあるのだ。

料理は自然とのつながりだ

味噌、漬物、酒などの食材は和食の典型だが、これらの食材は発酵という小さな大自然(=甕の生態系)を通して作られる。味噌は、日本人が古くから親しんできた発酵食品だ。味噌や漬物が入った甕の中には微生物が共存する生態系が生まれて、小さな大自然ができている。同様に酒も発酵という自然の作用によって作られる。よき酒、よき味噌は人間が作るものではないのだ(p. 204)。

食材が大自然によって作られるだけではない。料理の過程も自然の移ろいを反映している。毎日、毎食の一汁一菜は同じものをつくっているつもりでも四季の変化とともにおのずから変わっていく。和食の原型を通して自然を感じ取ることができるのだ。

より一層、自然とのつながりを取り入れるには、地産地消を考えるのがいい。地産地消を心がけるだけでも暮らしは変化する(p. 39)。

『一汁一菜でよいという提案』。この本で私は何を伝えたいのだろう、と考えていました。一汁一菜でいいんだぞって、それだけでいいんだぞって、言いたかったのですが、なぜいいのかという理由を書いているうちに、日本人の持つ知恵の在りかとか、その道筋はどこからきたのかまで説明が必要になりました。
それは結局、お天道様と人間の関係というか、人間でも日本人だけが古来より純粋に持ち続けているものの考え方のようなものにつながってしまうのです。

p. 203

一汁一菜はごくごくやさしい提案ではあるが、その提案によってもたらされる効果は自然とのつながりという、とても大きな暮らしのヒントなのだ。

料理は一汁一菜でよい

古くからつづく家庭料理こそ和食である。そして、和食の実践はシンプルに一汁一菜でよい。家庭料理は慎ましく、シンプルに、あるものを食べるのがいい。味噌汁さえ作れれば、何とかなるのだ。

素材を生かすにはシンプルに料理することが一番だ。慎ましい暮らしは大事の備えである(p. 27)。家庭料理ではそもそも工夫しすぎないことが大切だと土井先生は言う。

一汁一菜は、ごはん、味噌汁、つけものという献立の型であり、和食の本質を無理なく実践するスタイルである(p. 166)。和食の本質とは、素材を生かすことだ。素材を生かすということは、自然の力を取り入れる、ということなのだろう。

一汁一菜はシンプルな形式でありながら、和食の本質を備えている。毎日を幸せに、丁寧に生きていく力を自然から取り入れることが可能なのだ。

だからこそ、一汁一菜で十分だと言える。一汁一菜でよいのだ。

一汁一菜を推す

これまで見てきたように、一汁一菜の提案はシンプルで、かつ、パワフルな提案である。

私は、私の生活に、小さな努力で大きな好影響を与えた土井先生の提案を広く、強く、推したい。『一汁一菜でよいという提案』は子どもができたらぜひ読ませたいと思うほどだ。

とにかく、料理を作ればいい。一汁一菜でいい。それが、日本人にとっての、ひもじさの最善手であるだろう。

ここで、寒い、ひもじい、死にたいのステップは、真ん中で折れることになる。折れて、私たちの生活は、丁寧で美しい方向へ向かう。

その手立ては、繰り返し言うまでもないが、一汁一菜である。

このスタイルを取り入れて、一生懸命に、美しく生きよう。

いちばん大切なのは、
一生懸命、生活すること。
一生懸命したことは、いちばん純粋なことであり、
純粋であることは、もっとも美しく、尊いことです。

扉より

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