クヴァールは後悔するか?~『葬送のフリーレン』考察~

「くよくよと後悔をせずに現在を生きよう」というのは、ある意味で人間の強みを捨てることではないだろうか。それはどのような意味でか。「後悔をする」という行為は言葉を操る人間にしかできない優越性である、という意味である。

猫は後悔するだろうか?

そんなユニークな問いを立てた人がいる。論理学者の野矢茂樹は『語りえぬものを語る』(講談社, 2020)で次のように疑問を提起した。

後悔するということは、事実に反する思いを含んでいる。「ああすればよかった」というのは、そうしなかったという事実に反する思いであり、「あんなことしなければよかった」というのはそんなことをしてしまったという事実に反する思いである。ならば、事実に反する思いをもつというのは、どのようにして可能になるのだろうか。

野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社)Kindle 版

私たちが何かを後悔するとき、たとえば、私の「しまった、もっと早く家を出れば電車に間に合ったのに!」という呟きは、「早く家を出なかった」事実に反する思いを含んでいる。同じように猫も後悔したりするのだろうか?

猫が鳥に襲いかかる。逃げられる。でも、惜しかった。そのときその猫は、「もう少し忍び足で近づいてから飛びかかればよかったにゃ」などという日本語に翻訳できるような仕方で後悔するのだろうか。

(同上)

詳しい解説はぜひ当該書籍に当たってほしいが、野矢氏の結論として、猫は後悔しない。それは後悔するということは可能性の世界であり、可能性の世界が開かれるのは、高レベルな言語を用いる存在であることが前提だからだ。猫は高レベルな言語を使えないから後悔しえない。後悔という高等な営みができるのは人間だけなのだ。

さて、今回も『葬送のフリーレン』を考察してみたいのだが、その一つの切り口が魔族という種族の存在と言葉の関係である。すなわち

魔族は後悔するだろうか?

という疑問だ。

ただ単純に論理学を当てはめるなら後悔することはある、となりそうだ。しかし、『葬送のフリーレン』という世界で考えると不思議なことが色々と出てくる。

さて、魔族とは一体どういう存在なのだろうか。

この問いを一つのきっかけにして考察を進めてみたい。今回は『葬送のフリーレン』の主にクヴァール討伐回を考察する。まずはあらすじをおさらいしよう。

あらすじ

ヒンメル歴27年、グレーヤ森林にて、フリーレンはある目的で一つの小さい村に立ち寄った。

その目的とは、80年前にヒンメルとともに封印したクヴァールの討伐である。

このクヴァールとは一体何者だろうか?

言葉と魔法を操る種族

『葬送のフリーレン』の世界には、言葉と魔法を操る種族が三種類存在する。人間、エルフそして魔族である。三者の関係性を簡潔に表現すると下の図のようになるだろう。

フリーレン世界の構成要素として魔族という種族が人類の敵対軸として登場する。クヴァール討伐回は魔族の初めての登場回だ。

クヴァールは「腐敗の賢老」の異名を持っている。80年経って封印が解かれたときには「たった80年」と言っていた。フリーレンと同じく、長寿であることが伺える。

時の流れが遅いエルフや魔族にとって、人間の変化には目を見張るものがある。人間の研究によってゾルトラークは人類の魔法体系に組み込まれ、一般魔法と呼ばれるようになった。また、クヴァールはフリーレンが飛べることにも驚いていた。

『葬送のフリーレン』の一つの特徴である時間差の効果が分かりやすく現れている回だと言える。

クヴァール討伐

クヴァールはゾルトラーク(人を殺す魔法)を発明したが、この魔法が強すぎて80年前の勇者一行はクヴァールに勝てなかった。

80年越しにフリーレンはフェルンと共にクヴァールと対敵するが、クヴァール戦は命がけの戦いだったと言える。そのことを見越してフリーレンは森で防御魔法の訓練をさせていたのかもしれない。初めてクヴァールを見たとき、フェルンは裾をつかんでおり、恐怖の表現が見て取れる。油断するなと、フリーレンは忠告していた。ゾルトラークの攻略策があったとはいえ、死んでもおかしくない戦いだった。

しかし、戦い自体はあっけなく終わり、命がけの戦いを制して、人類は80年越しにクヴァールを討伐したのだった。

魔族とは何者か?

クヴァール回から私たちはフリーレン世界における「魔族」という種族を知る。この魔族という存在は作中特異な構成要素であり、作品の奥行きを生み出しているとも言えるだろう。魔族について考察をし始めると色々な不思議がでてくる。

作者は魔族という存在にどのような役割を期待しているのだろうか?作者は魔族をどう捉えているだろう?魔族の生きる目的ってなんだろうか?生きている、ということについては魔族もエルフも人間もドワーフも共通している。魔族の生きる営みは一体どのようなものなのだろうか?

ここで、魔族についての特徴を現在わかる範囲で整理しておこう。

①人類の敵

魔族の、作中における特徴としてまず挙げられるのは、人類にとっての敵であるということだ。魔族は人間の捕食者である。

現実世界の私たちの生態系でも食物連鎖がある。すなわち「食べるー食べられる」の関係が網の目のように広がっている。

引用:『森の案内人』「食物連鎖」2006-APR-13(https://forestwork.exblog.jp/1754238/)

上図では「食べるー食べられる」の関係が簡単に矢印で表されている。「ノウサギがクマタカに食べられる」ことは、ノウサギ → クマタカ で表現されている。

ノウサギ → クマタカ (ノウサギはクマタカに食べられる)

ここで作品の考察に戻ると、『葬送のフリーレン』という作品では人間から魔族に捕食の矢印が向けられる。よくよく考えたらゾッとするような、特異な世界である。すなわち

人間 → 魔族(人間は魔族に食べられる)

「自分たちがもし捕食される側であるとしたら」という発想は、緊張感をともなって、ファンタジーの世界を広げていく。そういった着想はいろいろなアニメにあって、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』にも現れているし、あるいは、『魔法少女まどかマギカ』でも、人間がインキュベーターの家畜として捉えられていた。

『葬送のフリーレン』の世界においても他の人気アニメと同じように、魔族という敵対概念がストーリーラインとしてくっきりと描かれているのだ。

②矛盾した生き物

魔族と人類は互いに敵同士であるが、クヴァールとフリーレンの80年ぶりの敵対から分かるように、会話は成立している。魔族は言葉は通じていると考えていいだろう。

現実世界の私たちにとって、言語こそが人間を人間たらしめている一つの重要な特徴だといえないだろうか。現実世界の常識をフリーレン世界に当てはめれば、魔族は人間であると言えそうだ。「魔族は人間である」が言い過ぎであったとしても、同じく言葉が通じているエルフやドワーフと同じように、お互いに理解尊重しあう道があってもおかしくない。

しかし、これは後のアウラ討伐から分かることだが、フリーレンは魔族を「言葉が通じない猛獣」と言っている。魔族には生れ落ちてから子育てをする習慣がないから、家族という概念がないのだと。

生んでも子育てをしない、という性質は、私たちの現実世界では哺乳類というよりも、魚類、両生類や爬虫類に近いだろう。産みっぱなし、という生物である。

そういう意味では確かに人間とは言えないだろうし、人間とは相いれないのかもしれない。

このように魔族は色々な側面で矛盾がある。言葉が通じるのに、フリーレンに言わせれば、言葉が通じない。魔法を操るほどの知性があって人間らしいのに猛獣である。獣であるが、言葉というOSをもっている。魔族は人間とは違う存在でありながら、言葉という「事実に反する思い」を可能にする術を共有している。

ここで冒頭の疑問に立ち返ってみよう。

魔族は後悔するだろうか。

そう、論理学から考えれば魔族だって後悔するのだ。クヴァールだって、「しまった、まともに戦わずに、仲間を引き連れてからフリーレンと戦えば良かった」だなんて思うかもしれない。

他方で、猫は言葉を操れない。だから、猫は後悔しないし、できない。というのも、言葉は事実とは反する思いを可能にするものであって、それがないからである。

魔族は言葉を操りながら、言葉が通じないという矛盾した存在である。あるいはその矛盾ゆえに魔族はよりファンタジーな存在であると言えるのかもしれない。

③連帯感の欠落

魔族は「愛」や育てる行為を契機とした連帯感によるふるいにかけられ、落とされる。

前述したように、魔族は子を産み落としてから子育てしない。しかし、一応産み落とされはするみたいだし、魔族の出血シーンからもわかるように魔族にも血はあって、血のつながりのようなものがあってもおかしくない。

魔族に対する疑問はどんどん広がっていく。産み落とすことがあるということは、家族の概念はなくとも事実として「親」はいるのだろうか。それは有性生殖だろうか。愛とか、言葉に由来する想像力がないのにセックスできるのか・・・いや、別に言葉がなくてもセックスの快感さえあれば生物はセックスするか・・・あるいは、無性生殖だろうか。単純に体が分裂して種を増やしていく、ということなのかもしれない。

いずれにせよ、ソクラテスが『饗宴』の中で語ったような「愛」はあるのだろう。愛、すなわち、永遠の命への願い。そういう、種の存続という意味での愛はありそうだ。

しかし、魔族は「愛」があるが「家族」という概念がない。なぜだろう。子育てがないのだ。言葉は共有しているが、「家族」の翻訳先がないらしい。

しかし、直観で理解できないという概念があるということではフリーレンだってそうじゃないか、とも思った。たとえば、日本の「過労死」という言葉に翻訳先がなくて karoushi と音を真似るだけなことがあるように、ある概念がないからといって人間じゃないということはない。いや、それとも、過労死という特殊な概念はなくてもいいが、「家族」のようなある種基本的な概念はどうしてもなくちゃいけないのだろうか。

このように魔族について考えていくと、他の種族についても疑問が湧いてくる。フリーレンに家族はいないのか。アイゼンにはいたみたいだが(集落があったので)。そういえば、フリーレンにもエルフの集落はあったみたいだ。エルフや魔族に「小さいとき」とか、「幼いとき」というのが、一体、あるのだろうか。「子ども時代」があるのだろうか。

血、セックス、子ども、育てる行為、家族・・・このような概念をまとめて「連帯」と呼んでみよう。そういう連帯の概念からほど遠い存在でありながら生きている魔族は、いったいどのような生を送るのだろうか。

④亡骸を残さない

魔族の死に方は人間とは違う。そのこともクヴァールの回からわかる。魔族や魔物は、人類と違って、死ぬと魔力の粒子となって消える。魔族の死は後に残らない。亡骸がない。すぐに消える。

だから死んだ人との会話がないのだろうか。死んだ人へ思いを馳せるという『葬送のフリーレン』のテーマからすれば、なるほど、魔族はアンチテーゼだということが言えそうだ。ヒンメルの死に際して涙を流したフリーレンとは対照的に、魔族は死に対して涙を流したり、花を添えることがないのだろう。

生きているだけでただ物理的な存在。魔法を探求する気持ちも生き延びたい気持ちもあるのに、言葉の通り、血も涙もない魔族という種族が、『葬送のフリーレン』の世界に鑑賞の奥行きを与えているのかもしれない。

空想と現実のはざまで

今回の記事では、魔族について言語をキーワードに考察し、さらに範囲を広げて民族、あるいはコミュニティ{血ー家族ー言語}の側面からストーリーを眺めてみた。しかし、『葬送のフリーレン』というただのおとぎ話に、実際の、リアルの世界の理論を当てはめるのはナンセンスかもしれない。それはポケモンで遊んでいる子どもに対して「そんな火を噴く動物がいるわけないじゃん」みたいな茶々をいれるようなことだ。

ただ、私にとってはおとぎ話の世界も現実世界も、私の愛すべき世界である。『葬送のフリーレン』という空想に本気で向き合おうとすると、現実世界とフリーレン世界が互いに投影しあって、なんだか不思議な気持ちがする。二つの世界の間で宙ぶらりんになっているみたいな感覚だ。

この宙ぶらりんになる遊びは、きっと、作品を鑑賞する人の喜びでもあるのではないだろうか。その喜びを、あるいは迷いを、読者と共有できたのは、私にとって嬉しいことだ。

その嬉しさを感じ取ってもらいながら「小難しいこと考えているのね」とフンと笑ってもらえれば光栄である。

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