『KJ法 混沌をして語らしめる』を読む③~創造が いのち を実顕する~

これから書くことは、KJ法の思想についてです。KJ法の理解が深くないときっと読めません。あくまで私の、KJ法実践者としての控えです。

しかし、もしあなたがKJ法を実践し、研修を受けた人で、もっと理解を深めたいと思うのなら、ここに書いてあることはあなたのインスピレーションを刺激すると思います。

そういった少数の読者に向けて、コアな話を試みましょう。

雲と水と

混沌、主体性、関心

KJ法は混沌から生まれ落ちた主体性及び関心から出発し、混沌から小宇宙を写し取っていく。

無明の霧が深く立ち込めている。この霧は混沌である。KJ法(取材→狭義KJ法)は、混沌という縫い目のない全体の内に生まれ落ちた主体性および「関心」という欲求から出発する。

取材されるこの世界は、そもそも縫い目など存在しない全体である。

創造をめぐって主体性が世界内的に生まれる。主体性は、混沌そのものの中から「状況」の子として生まれる。

混沌からの出発に際してまず発動するのは、混沌そのものの状況から生れ出た「関心」という欲求である。

関心の赴くところ、取材活動が始まる。

KJ法のルールに従って得られたデータは中核的な一つの意味を凝縮して持ち、しかも周辺はボーダーなど存在せず茫然と広がる小宇宙のようなものである。そして、KJ法のルールに従って得られたデータの意味の中核は、訴えかけるダイナミックなものである。

(「~したい」という思いも、理想的な状況が実現していないという悲観調を帯びているのではないか)

個性の香り

メリハリをもってKJ法を行うと、混沌と小宇宙とが相互にヤリトリする中で、我の厚い殻が氷解し、雲と水とともに流れゆこうという心境になる。

KJ法では、経験したあらゆる事柄を一旦混沌へ突き放し、その上で、対象が訴える内面の論理に従ってすなおに一つの宇宙として産み落とす。おのれを空しゅうして事実をして語らしめると、その虚心のためにだまされなくなる(天網恢恢疎にして漏らさず)。外と内との一体化は、我を忘れる体験である。

KJ法の創造過程は主体性の関わる有機的なもので、多 ⇆ 一、個 ⇆ 全 と形容される(西田幾多郎)。

KJ法を通して混沌と虚心に向き合い、対象が訴える内面の論理に従ってすなおに小宇宙を産み落とすことで、内 ⇆ 外、多 ⇆ 一、個 ⇆ 全 がヤリトリされ、我がなくなっていくのだ。

集中と場面転換を伴う六ラウンド累積KJ法を行うと、我の厚い殻から脱皮し、人間性が回復する。六ラウンドKJ法は全人格的に自分を育て、人間性が回復する。集中と場面転換で正しい問題解決のステップを累積することにより、ようやく人の厚い我の殻は溶解する。

我がなく個性の香りが漂うとき、人さまざまのその個性にどれ一つとして不快なのがない。真の個性が輝き顕れるのは、野にさまざまの花が咲き誇るようなものである。「キキョウの方がオミナエシより上等だ」ということはない。

魅惑的な不安が判るとき、「雲と水とともに流れゆこう」「私は山川草木のひとつである」という、いいしれぬ謙虚な安らかさをかんずる。「私は自然を体現するチャンネルだ」と思える。

生命論的世界観

生命論モデルを実践し、片輪な管理社会を参画社会へと再編しよう。

生命モデルと機械モデル

KJ法に潜む思想は技術から思想までを連続スペクトラムとして扱う。KJ法という技術のどの部分にも、そこには、技術を通してその底に流れる思想がある。KJ法を本当に活用しようとすれば、どうしてもKJ法の思想を排除するわけにはいかない。思想の肉体化までを要求するのがまさにKJ法の思想なのである。

KJ法は生命論的世界観を引き受ける。これは、この世界を いのち ある世界とみる立場である。この立場に立つと、生物が子孫や家族、国家のために時として自分を犠牲とする一見不可解な行為を現実のものとして受けとめられる。

生命論モデルに立つか、機械モデルに立つかで、情報処理をめぐる技術の発達の方向が変わってくる。KJ法の思想では、デカルト的主客分離の二元論を方便として扱う。対象化されたデータ対自分という自他の区別は方便の枠であり、必要がなくなれば解消すればよい。また、デカルトの二元論のみならず、テーマの追及に役立つならば、方法はなんでも使ってよい(移動大学で川喜田二郎は、テーマの追求に必要な方法ならば何でも使ってよいと指導した)。

科学の再編と管理社会の克服

KJ法は現代の科学の枠組みで語りえない野外科学を導入することで、現代の科学、ひいては、現代の世界観に再編を迫っている。

現代の科学ではKJ法は説明できないので、川喜田二郎は俗語や諺などを用いてKJ法の思想を語る。

心を働かせることには、論理的思考、亜論理的思考、無論理的思考という、水準の違う三種の思考があることを川喜田二郎は示唆している(ポール・シーリィが訴えている前意識プロセッサーにも近いものを感じる)。我々はもっと野生の復権を心がけるべきではないか、と川喜田二郎は主張する。

また、科学の要件は、データプロセス全体の追跡可能性、透明性に絞るべきだ。KJ法は創造の足跡が追跡できるようになっており、まさに科学であると言える。

KJ法はいくつもの新しい概念を科学の世界に付け加えつつ、科学を再編しようとしているのみならず、現代の世界観の総体に対してもその再編を迫っているのだ。

管理社会化の惨害を克服する道は、創造性開発と参画社会の創造であり、そのためにはKJ法をめぐる文化の創造・編成が必要だ。三公害に立ち向かう解決策の決め手を川喜田二郎は創造性開発をふまえた参画社会の創造であるとみた。参画社会を作るためには、KJ法だけでなく、KJ法をめぐる文化を作り上げ、編成することである。

高度経済成長以降、企業は管理社会化に対する解毒剤として創造性と参画を求めていた。管理社会化の悲劇は創造性の開発と参画社会づくりの方法が開発されれば避けられるものである。

しかしながら、KJ法の伝統確立は困難なものであった。

片輪の社会

文明化、さらに、機械モデルを特徴とする近代化が進むことで管理社会化の弊害が深刻度を増し、わたしたちの社会は片輪になっている。

社会組織が大型化すると、小集団からシステムと個人が分化して、性質の異なる三層が現れるようになった。

文明化すると、社会組織の中に性質を異にする三つのレベル(システム、小集団、個人)が分化して現れてくる。1950年代からの高度経済成長期を境に、日本人はほとんどがなんらかの大きな組織に編入されてしまった。個人レベルは、システムレベルにおける管理社会化に対抗し、バランスを取るように生じたのかもしれない。育ちの違う二つの文化が重層的に共存できたのは、三レベルの文化を背景に、役割分担ができたからである。

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そもそも文化とは、生活様式の中から遺伝的に受け継いだものを除き、伝播・伝承されたものの集積を指す。伝播・伝承できるものであるので、文化は歴史の経過とともに蓄積され、肥大成長する傾向がある。これを文化成長という。文化成長の上で、ある程度以上の複雑高度な段階に達したものを「文明」という。ふつう、文字、貨幣、都市、国家などがそろって出現すると文明と言われる。また、文明に至らない文化を素朴という。

文化成長:素朴 → 文明

素朴kら文明へは単一のコースで発展したのではなく、内発的コースと外発的コースがあったと川喜田二郎は提案した。

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文明化に伴って発生する管理社会科および権力意思を考えると、素朴 → 文明の推移は手放しに喜べない。

組織が大型化し、人口が増加すると、素朴文化だけでは破綻し、情報処理のためのいろいろな工夫が生じてきた。文字、一方放送、貨幣、分業、政府・官僚制・法制といった諸傾向を一言に要約すると、それは管理社会である。多くの政治家や一部の経営者は、行動の原理が権力意思である(依らしむべし、知らしむべからず)。

しかしこういった傾向、歴史の中で人々は、コミュニティ(=人類学でいう、顔見知り関係で付き合う地縁的な社会組織)を慕い続けてきた。たとえば、 アケメネス朝ペルシャの歴史の中で窺われるのは、もうコミュニティというには大きすぎる都市国家になっても、人々がコミュニティの原理を必死に守ろうとする姿だ。あるいは、ユーラシアの歴史の中で紀元前 8 ~ 2 世紀に大思想家が続出したのは、管理社会の中でコミュニティを失った人たちがこれらの思想家たちが惹きつけたからではないか。

いずれにせよ、文明の行き詰まりは、問題解決の正道からの脱線および不達成に起因し、三公害の重なりの様相を呈していた。

現代に発達したさまざまな問題解決法は、人間が昔からやってきたはずの自然な問題解決の道筋から大幅に脱線している(問題解決の努力が問題を生んでいる矛盾)。前近代的文明の諸パターンのどれもが没落したのは、創造性をめぐる民衆の要求を満たさなかったからである。大学問題の根は、現代文明の行き詰まり(行き詰まり!ポール・シーリィの話でも出てきた)は環境公害、精神公害、そして、組織公害の絡み合ったところに存する。

近代化は、世界大の単一の文明が形成されつつある過程であり、その文明の特徴は「この世界は生命のない部品の集合、分解、運動、組み立てなどで成り立っている」と観ずる世界観、すなわち、機械モデルである。

ヤリトリ

KJ法は、主体の生きるという行為全体で行われる自然なヤリトリに根差すから、誰でも自覚的な努力で実践できる。

人間には、普遍的な人間性ともいうべきものがあり、すべての動植物と同じく、人間もまた、生きようとする主体性を表す。主体性は保守(維持)と創造との両面を備えている(NBモデル)。KJ法の根源性は、分割された営み以前の人間の、人間が生きるという全体性を持った営みそのものである。

狭義のKJ法は、ふつうの人間なら短期の正しい訓練を経て、だれでも、何語でもできる。KJ法は自覚的な努力で行える易行道なのだ。

自然なボトムアップ

主体は基本的にヤリトリを必要とする。ヤリトリとは、ボトムアップとトップダウンの対等相互なフィードバックおよびそれを可能とする情報システムのことである。

主体にはボトムアップ(審議、加乗減除式)とトップダウン(執行、信じて任せる方式)の対等相互なフィードバックが必要だ。一人の人間やその細胞が生きるにも、あるいは、人間以外の動植物が生きるにも、そこには情報のフィードバックが必要である。参画社会とは、ボトムアップとトップダウンが対等相互にフィードバックする状態である。

人ー人、人ー自然にフィードバックのあるヤリトリが保証されている小集団でこそ素朴文化は成立していたが、文明生活の諸問題ともなるともはやどうにもならなくなってきた。素朴の段階では、人と人、人と自然との間にはフィードバックの保証がされていたが、それは、素朴な文化の社会組織が小さかったからこそ成り立っていたのである。複雑怪奇で流動的で難解な文明生活の諸問題ではもはや、持ち前の素朴なセンスではどうにもならないのである。

このヤリトリを成立させるにはリーダーシップや情報活用のためのシステムが必要だ。

リーダーの資質は、チームメイトの発言を意見の広場に出させることと、タイミングを逸せずに「次にあれをやろう」というふうにイニシアティブをとることだ。チームを構成する全員が必要に応じてリーダーになれる修行をしておくことが重要だ。

また、KJ法では情報の共有と活用のためのシステムを創ることを基本とする。チームワークでは、情報システムを創ることが肝要だ。KJ法では、正直に情報を関係者の共有財産とすることを要請する。

創造的行為

創造的行為の条件と弁証法

創造的行為は創造的行為の三箇条を実践によって揚棄し、産物(創造 ⇆ 愛)を生み出す弁証法だ。その三箇条とは

  • 自発性
  • モデルのなさ
  • 切実性

である。相矛盾する創造的行為の三箇条を実践によって高次に解消することこそ、よりいっそう創造的行為だと言える。これらの矛盾は「実践」という垂直方向の決定条件によって解消する。

KJ法を用いた生産的な葛藤のなかで

えらいこっちゃ → 葛藤 → 光

というドラマが起こるのだ。

KJ法という問題解決を通して産物を産み出してこそ、その人は創造と愛の弁証法を体験する。創造的行為に内在する弁証法という内面体験は、そのまま、KJ法を体験する人の内面体験である。KJ法は問題解決の方法であるから、産物が生み出される。産物を生み出してこそ、創造と愛の弁証法がやってくるのだ。

真面目

W型解決の各ステップを自覚的に、柔軟に実践しつづけることで、矛盾葛藤は生産的に乗り越えられ、真面目が起こる。

W型解決の各ステップを自覚的に、柔軟に踏むことが、矛盾葛藤を生産的にするか否かを決める。W型解決は、人間が問題解決を行うときの、有効な、そして、すなおなモデルとして提案されている。問題解決のプロセスは、より自覚的に、各ステップを集中的に踏んだほうが良い。矛盾葛藤を生産的にするか不毛にするかは、問題解決の正道を踏むかどうかが死命を制する。

集中と場面転換のリズムこそ、KJ法の秘密の一つである。・・・KJ法の使いどころは腕次第だ。

創造的な問題解決を自覚的に繰り返すと、真面目が起こる。創造的な問題解決を繰り返すと、世の中がみずみずしく見えてくる。なんでも見てやろうと思う。見れば知る。知るは愛のはじめであると悟る。

知ることは愛のはじめと悟った彼にとって、花は紅、柳は緑である。ススキが原に上った月を「今夜の月は美しい」とそのまま受け止めることができる。

いのちの実顕

創造の過程で いのち が燃焼すると郷愁が発生し、郷愁が重なると、場は、場 → 故郷 → 生き物 → 伝統と実顕していく。

実顕:場 → 故郷 → 生き物 → 伝統

混沌から本然へのプロセスの中では何かがもえている。この何かを いのち と形容しよう。いのち とはある種の「もえている状態」である。いのち というものは、異質のものの交流からおこる火花で生れ落ちるものなのだろう。創造の主体は、動植物でも個人でも、グループでもいい。あるいは、地球上の生物全体社会でもいいかもしれない。グループとしての いのち がもえるとき、ここの いのち がもえてその足し算としてもえるのではなく、グループはひとつの不可分なものとしてもえるのだ。幾枚ものラベルの志が集まって表札という志をもった一つの全体が生まれることも、いろいろな人たちが集まって活性化されたチームが生まれることも本質的には同じことである。

KJ法を行使すると、いのち がもえた「場」と連帯が築かれ、また、新しい連帯の中に位置づけられた自分として変容、成長していく。グループKJ法を行った仲間の場合は、グループとしての いのち がもえ、仲間との間に深い連帯が生まれる。人間は、自分が真剣な創造行為を遂行し、そこで いのち をもやしたとき、それに「縁」の深かったすべてのものと連帯を築く。KJ法を実践すると、彼は、産物に対して愛情を覚える。本人と産物との間に連帯が生まれる。そして彼は、新しい連帯の中に位置づけた自分として変容する。KJ法と行使を通して(もえる → 連帯)という変化が起こるのだ(これはすなわち達成である)。

創造的行為によってもえた いのち に対して郷愁が積み重なると、その場は故郷となり、また、生き物化していく。相ともに創造的行為を分かち合った仲間は、そのともにもえた いのち に耐えがたいほど惹きつけられる( いのち への郷愁)。創造的行為が同じ場で繰り返され、いのち への郷愁が同じ場に累積されると、その場は次第に「生き物」の性格を帯びてくる。故郷とは いのち への郷愁が積み重なった場である。「兎追いしかの山、こぶな釣りしかの川」

創造し、いのち がもえると、場の方は生き物的性格を濃くしていく。次第にその創造のパターンに沿った生物、そして、伝統となっていく。・・・生物とは、生き物的性格の極めて高い場だと言える。 いのち は物ではなくもえている状態だが、場の方はしだいに物の性格を濃くしていくのだ。・・・生き物化の傾向が濃くなった場を「伝統」と形容してもよいのではないか。民族を民族たらしめているものは、伝統である。その伝統には、創造の姿勢とも形容したい何かがある。

混沌から本然への道がKJ法である。(もえる → 連帯)という変化を起こす根源は、人間の創造的行為そのものであり、KJ法はただ、より自覚的に、より力強く、よりすなおにこれを行うことに奉仕する。KJ法は(創造 → いのち の燃焼 → いのち への郷愁 → 伝統・生き物化)の道にかかわろうとすることを実顕する。

KJ法は創造から いのち の実顕を推し進めていくのだ。

独自性と評価

どの創造、どの一仕事も、一つ一つが独自なものである。どの創造にもあの山、この川があり、彼女や彼があり、二度は来ないタイミングがある。それは固有名詞の世界なのである。本当の一仕事は一つ一つがユニークな芸術品である。

そういう独自なものだからこそあじわいも深くなる。

創造の喜びを守り、ともに味わおう。KJ法の思想の要である創造の尊重は①法律、②世論、③良心、の総合力で守られる。四注記はその具体的な方法の一つである。

(作品 → 鑑賞 → 評価)の手続きは人間的なものを保証し、関係者にとっての喜びとなる。思想としてのKJ法は、人間や社会にとって、創造がいかに根源的で大切かを終始訴えている。したがって「これは誰が創ったか」を問う。「この作品を創ったのは君か」と問えることは、作者のみならず、鑑賞する人にとっても喜びである。

共に、作品を創造した喜びを味わい、誇れ。やるからには、人類ないし歴史に一石を積め。そして「貢献した」と堂々と叫べ。

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