ペットボトルという言語

教員をやっていたときに、発達障害の子どもに対する指導についてセミナーを受けたことがある。そのセミナーで一つのロールプレイをした。

(今回は記憶の話をたどるので出典がない。あくまで、遠い記憶の出来事に対する考察だ。)

内容は単純だ。のどが渇いているのでペットボトルに入っているお茶を飲む、というもの。「簡単ですよね?」と講師の方は言う。

「でも簡単というのは大人の目線からであって、まだ握力がついていない子どもにとっては開けられないことが多いんです。自分で開けられないとき、どうしますか?」

簡単だ。頼めばいい。「すみません、これ硬いので開けてください」と言えばいいだろう。私はそう思った。

「確かに開けてくださいと言えば開けてもらえるかもしれませんね。でも、もし、「頼む」という選択肢を知らない子だったらどうしますかね?」

そう言われたときにはっとした。私ならどうするだろうか。

「すごくイライラしますね。そしてもしかしたら、その子はペットボトルを投げるかもしれませんね。その気持ちに納得できませんか?」

・・・・・

人が自暴自棄に陥るとき、その状況には同じような傾向があるのではないかと思う。それは

選択肢がないこと

である。それは客観的に選択肢がないことではなくて、当の本人から見て「選択肢がないように感じる」ことである。

発達障害であろうがなかろうが、人は選択肢がないと思うと心身が緊張してしまう。緊張はさらに本来使えるはずの選択肢を狭めてしまう。

さらにやっかいなのが、そうやって自暴自棄を起こしたときに悲しい思い違いが二次障害的に起こるということだ。ロールプレイの、想像上の子はただ喉が渇いてお茶が飲みたかっただけだ。それなのに、選択肢が思いつかなくて癇癪を起してしまうと、暴力的な子であると思われかねない。

このような表現手段の少なさで悲しい勘違いが起きている子が、あるいは大人が世界にはいるのではないかと思う。

逆にいえば、自分の思いを表現できる言葉に出会い、それが相手に伝わるかもしれないと希望が持てるのは幸せなことなのだろう。

「教育者」と呼ばれる人、誰かを教え導く人たちには、ぜひこちらの道を、その人たちの選択肢が増えるような配慮を探る道を歩んでほしい。

表現できる喜びがある世界を作っていきたい。

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