兎と穴

朝食にサンドイッチを食べた後すぐに歯を磨きたくない。口の中に残ったマヨネーズが舌に沁みていくのを味わうのだ。なんならこのままバニラアイスも食べて、コーヒーを飲んで、途中でコーヒーにミルクを入れてカフェオレにして、丹念に丹念にこの悦びを味わいたい。食事が終わったら2時間くらい昼寝をしよう。腹が満たされれば眠くなる。これは健康の証だ。しばらく死んだように寝ようじゃないか。

こんなことを書けば真面目な人たちは呆れるに違いない。なんてだらしがないのだろうと。そんなことではまともに働けないじゃないかと。飲食の悦びに屈するとはなんて卑しいのだろうと軽蔑するかも知れない。

しかし、そう言って飲食の悦びの上に勤労を置いている人だって、もしかしたら快楽を求めていることには変わりないのではないだろうか。彼らは勤労して、お金を得て、この飲食の悦びが明日も未来もあって欲しいと、サステナブルであって欲しいと、欲張っているだけなのではないだろうか。今日の快楽に今日限り与りたい人と、果たしてどっちが欲張りなのだろうか。老後に2000万円もないよといって嘆くなんて、そのためにお金を貯めようだなんて、よほどそちらの方が欲張りではないか。

いやいや、お金が欲しいのではなくて働いて誰かの役に立つことが嬉しいのだと、あるいは言うかも知れない。しかし、それが「嬉しい」のだろう。その感情が快いのだろう。つまりそれは、やはりそう言う意味での快楽ではないか…

もしかしたら人間の生きる意味は、表面的なものから深淵なものに至って、すべからく「気持ちよさ」なのかもしれない。いわば快楽こそ生きることなのだ。そう思わせてくれた小説が金井美恵子の『兎』である。

この『兎』という小説は、一回読んだだけではよく分からない作品だ。読んだ後「一体、私は何を読まされたのだろう」とモヤモヤするのである。そして、モヤモヤするのと同時にゾワゾワする。人間の奥底を見てしまったような、ふとドアの隙間から好きな人の自慰を見てしまったような、そんな困惑と快楽がある。

この小説を読み耽る中で見て取れるのは快楽主義である。この快楽は上に積み重なるのではなく、穴に堕ちていくように下へ下へ向かう。堕ちながら横を見れば深さごとに快楽の地層が分かる。その層は上から順に、

  • 飲食の悦び
  • 殺しの悦び
  • 性の悦び

である。

飲食の悦び

『兎』という作品は、小説家の「私」がある日、人間の大きさの「兎」に出会うことから始まる。小説家の私はその大兎を追いかける途中に「まるで気を失うように、突然、穴の中に落ち込んでしま」い、気づくと大兎が目の前にいた。

「あなたは誰?」 「散歩していたんですけど、迷ってここへ入って来てしまったんです。あなたは、兎ですか? いえ、兎さんですか?」 「すっかり、そう見えるでしょう?」と、その兎は嬉しそうに咽喉をクックッと鳴らしながら言った。「でも、本当は人間なのです。多分。どっちでもいいような気も最近ではしますけれど」 「本当に、まるで、兎そのものですね」と私は感嘆して言った。

その大兎はよく見ると手製の着ぐるみで、中の少女は小百合という名前だった。大兎に連れられて彼女の家に着くと、彼女は自分が兎になった経緯を話す・・・というのが小説のあらすじである。小百合はある日、不思議な出来事に巻き込まれる。神隠しだ。小百合は父と母と、それから兄と一緒に暮らしていたのだが、突如、母と兄とが行方不明になってしまった。それ以降、小百合と父との二人の生活が描かれる。

この作品の重要人物は、小百合とその父である。父の趣味は兎や鳩を飼育し、育てたそれを屠殺して料理することだった。その献立の描写はカラフルで印象的だ。

夕方になると、事務所から帰って来た父親は、物置小屋で兎の料理にとりかかり、肝臓と腎臓と生ソーセージのペーストを兎の腹に詰め物して、玉ねぎやシャンピニオンやトマトといろいろな香辛料を入れて煮込むのです。シチューにすることもあったけれど、父親もあたしも、香辛料のきいた詰め物料理の方がずっと好きでした。

他には、鳩(これも父親が飼っていました)のお腹に肝臓のペーストと野葡萄を詰め物して葡萄の葉で巻き、キルシュを振りかけた焼き料理、サワー・クリームをかけた内臓のペーストのゼリー寄せ、レモン汁をかけて食べる生の平貝やアオヤギやミル貝、冷たく冷やした数種類の果物のコンポート、赤と白の葡萄酒があったし、生クリームとアーモンドをかけたアイスクリームもありました。食後のデザートの仕上げには、このうえない健啖ぶりをあたしたちは示して、ジャマイカ産のラム入りのココアをたっぷり飲むのでした。

こんな調子の会話が繰りかえされ、最後のラム入りココアを飲むころは、二人ともすっかり満腹して眠くなり、父親は葉巻きを吸い、あたしは口の中で舌に滲みて行くココアとラムの味をゆっくり味わいながら、満足しきって、眠ることを考えていました。物置小屋から庭を横切って家に帰り、二階の寝室に入るまでに触れる、少しばかりの冷たい外の空気は気持が良く、眠りを益々心地良いものにしてくれるのです。兎小屋では兎がひっそりと寝静まり、鳩小屋からは鳩の喉を鳴らすようなくぐもった低い鳴き声が聞え、花の甘い香りが空気をしっとりとふくらませていました。 『おやすみ』と父は寝室の前で眠た気な声で言い、『さあ、ゆっくりと死ぬか』と、いつもの冗談を言うのです。

金井美恵子. 愛の生活・森のメリュジ-ヌ (講談社文芸文庫) . 講談社. Kindle 版.

『兎』の食べ物や飲み物は絵画的で華やかだ。金井美恵子のほかの作品である『愛の生活』もやはり『兎』のような、映画を観ているような鮮やかさがある。この、献立の列挙と絵画的な華やかさというのが、金井美恵子のある時期の一特徴であるといえるのかもしれない。

このように『兎』では飽食と睡眠の甘美が描かれる。この甘美性は、人間にとって誰でも理解しやすい、基本的な欲求であると言えるだろう。

物語はこの飽食と睡眠の快楽を起点として深く深く潜っていく。この欲求は次に、殺しの快楽へと移行するのだ。

父には兎や鳩を屠って食べる趣味がある、と書いたときに、ぎょっとした読者も多いだろう。しかし、ぎょっとしたのは貴方だけではない。小百合には母と兄がいて、特に母は、兎の料理にまゆをひそめていた。やるならせめて、キッチンではなく物置小屋でやって、と母は言った。動物の血の匂いが家に染み付くなんてまっぴらごめんだと。

しかし、よくよく考えてみると、どちらが生の、本当の在り方に近いのだろう。というのは、食とか料理というのは、認めたくないかもしれないが、殺すことを前提にしている行為ではないか。

これは小説の中だけではなく、私たちの生活においてもそうだ。もし貴方が食事の前後だったら申し訳ないが、私たちが料理し食しているものは、揺るがない事実として、動植物の死体である。それを切り刻み、火にかけ焼いたり煮たりして、申し訳ない程度に「頂きます」だなんて言って食べているのである。私たちはただそれを気にしなくても済むように分離して隠して日常を暮らしているだけで、生の本質的なあり方で言うと、小百合の父こそ本当ではないだろうか。

このように食は殺しを前提にしている。前提に行くにつれ、生の真相に近づくにつれ快楽が深くなっていくと考えてみると、次の深層の快楽は殺しの悦びになる。

殺しの悦び

兎を屠殺する役割は、最初は父のものだった。小百合は家の二階から父の作業を眺めるだけだったのだ。しかし、飽食と睡眠のせいで父はぶくぶくと太り、たびたび発作が起きるようになってしまい、その役割を遂行できなくなってしまった。そこで後を継いだのが小百合だったのだ。小百合は最初はいやいや兎を殺していたが、次第に悦びを覚えた。

まだあたたかい兎のお腹に手を入れて、内臓をつかみ出す時は幸福でした。肉の薔薇の中に手をつっ込んでいるみたいで、あたしはうっとりして我を忘れるほどでした。指先に、まだピクピク動いている小さな心臓の鼓動が伝わったりする時、あたしの心臓も激しく鼓動しました。

結局、あたしが一番満足を味わえた方法は、兎の身体を股の間にはさんでおいて、首を絞める方法でした。これはかなり気に入って、しばらく続けていたのですが、そのうち、裸の脚が直接兎の毛皮に触れていたら、もっと気持がいいだろうと思いつき、いつもは殺す時ブルージンズをはいていたのをスカートにして、スカートをまくりあげて股の間に兎をはさんでみたのです。そして、兎殺しの血の秘儀が全裸で行なわれるようになるまでに、長い時間は必要ではありませんでした。

金井美恵子. 愛の生活・森のメリュジ-ヌ (講談社文芸文庫) . 講談社. Kindle 版.

物語の前半、殺しはあくまで料理のための前提だった。しかし小百合が屠殺の担当になってから、料理のための殺しから殺しのための殺しに移行していることに注目したい。

しかし、殺すことは快楽になりえるのだろうか。このことに思いを馳せてみれば、確かに、快楽たり得るのかもしれない。別におどろおどろしい話でもなく、子どもを見れば、あるいは、自分が子どもだったころを思い返せば、バッタの足を引きちぎって怒られたり、アリの巣に水を入れて楽しんでいたことがあったかもしれない。それだって立派な、純粋無垢な殺しの遊びである。

小百合に関して言えば、その対象がいかにも無防備な兎だった。兎が喘いで、その脚が彼女のお腹をポンポンと蹴るとき、小百合は恍惚となっていた。兎の首が折れた瞬間、まだ動いている内臓がぴくぴくと脈動している瞬間に、彼女は快楽を覚えた。それは、命がこと切れる瞬間、その衝動を自身の体で感じ取って、自分自身の生命を感じていた、のかもしれない。

この快楽に浸って、小百合の兎殺しは料理から独立した。ただただ快楽のために殺したのである。ただここで注目したいのは、上に引用した、股に挟んで兎を絞め殺すシーンである。煽情的なシーンだ。兎の命と小百合とを阻んでいた布地がジーンズからパンティへ、そしてそれすらなくなって殺しの行為とヴァギナとが接近していった。命がこの世に出てくる場所で兎は絞め殺された。このシーンが暗示しているのは、殺しの行為の、性への接近ではないだろうか。

性の悦び

この小説を初めて読んだとき、その読後感はなんともいえないものだった。形容できないような感動(あるいは困惑)があったのだが、しかし、なんだかエロティックな感じがするなあという手掛かりはあったのだ。

あたしが次に思いついたのは、血抜きをするために吊り下げた兎の血を浴びることでした。全身に血を浴びるためには一匹の血では足りず、三匹か四匹の血が必要でした。両手で満遍なく血をなすりつけ、ことに血で濡れた陰毛をきれいにそろえるのが好きでしたし、首をねじまげて肩や胸や脚の血を舌でペロペロ嘗めるのも好きでした。

金井美恵子. 愛の生活・森のメリュジ-ヌ (講談社文芸文庫) . 講談社. Kindle 版.

さらに作中、小百合と小百合の父との間にも、インモラルな関係が示唆された。まったく自由奔放な、日常とか常識とは縁遠いエロスが作品では描かれる。小百合は兎の着ぐるみを自作して、兎の血まみれになって父親の前に現れた。

父を楽しませてやりたかったし、きっと喜ぶと思いました。『あたしを詰め物料理にして食べてください』と書いたプラカードを持って、首には復活祭の兎のように大きな薔薇色のリボンを結びました。その日は父の誕生日で、あたしは、自分を誕生日のプレゼントにあげるという思いつきにすっかり興奮していました。・・・中略・・・あたしの計画では驚きはすぐに笑い声にかわって、あたしたちは兎を絞め殺す儀式を、あたしという一匹の兎を使って行うつもりだったのです。・・・中略・・・毛皮を脱いだ時、さも皮を剥がれた兎らしくみえるように血をたっぷり全身に浴びておきました。あたしの内臓が父の手でさぐられる時のことを考えてドキドキしていたのです。

金井美恵子. 愛の生活・森のメリュジ-ヌ (講談社文芸文庫) . 講談社. Kindle 版.

このように小百合は、兎と化して性の悦びを堪能する。

しかし、殺しの悦びから性の悦びへの深化は、殺しの行為がヴァギナの近くで行われただけで必然的な関係がないじゃないかと思われるかもしれない。それでは、食から殺しを導いたように、いくつかの置き石を置いて論理性を見てみよう。思うに、殺しから性へは、死と生が間に横たわっているのである。

殺しという行為は死を前提とする。というのは、殺しと言うのはその対象を死に至らしめるということだから、死という概念および事象が必要だ。ちなみに、逆に死は殺しを前提としない。例えば寿命が来たことによる死であれば、殺しが必ず必要と言うことではない。

さらに死は生を前提とする。それは、生を有する者しか死ねないからである。これについて言えば、逆に生も死を前提とすると言えるだろう。こう考えれば、生と死は互いに互いを前提としていて、表裏一体だと言えるかもしれない。

さて、この生は性を前提とする。なぜなら生は性によってしか生まれないからである。

ここまでの話を、前提を遡っていく作業としてまとめれば、快楽は

食 → 殺 → 死 → 生 → 性

と深化していくのが分かるだろう。『兎』はこの経路で生の相を穿っていく。読後感のゾワゾワは、「ああここまで快感を深いものにしたのか」という尊敬と凄みであるのかもしれない。

小説空間

ところで、小百合が快感の穴に落ちている間、突然行方不明になった母や兄はどうしているのだろう、と貴方は思っているかもしれない。いきなり神隠しに遭って、「突然、家族が行方不明になった女学生というのは、心配のあまり、学校へ行かないものだよ」などと冷静に言う父親にはホラーすら感じる。

いったい何が起きたのだろうか。

しかし、この問題は何も考えなくてもいいのだ。というのも、ここで実際問題を考えることは野暮であるから。それは、ポケモンを観ていて「実際に、あんな小さいボールに収まる動物なんているわけないじゃないか」とケチをつけるようなものである。

現実的にありえるラインで考えていても、快楽の深化は描けなかったのだと筆者は想像する。徹底された華やかな、そしてグロテスクな快楽主義はファンタジーの中でこそ成立しうる。そういう意味で、母や兄は行方不明であったと素直に受け取るのがいい。写真を加工する時に消しゴムマジックで要らないものは消すように、母や兄は消されたのだ。このようにファンタジーを作り出す工夫や、あるいは作り出されたその場を小説空間と呼んでみよう。

『兎』では二重の仕掛けで小説空間が展開される。一回目は、小説家の「私」が「まるで気を失うように、突然、穴の中に落ち込んでしまった」というイベントによって、そして二回目は、すでに言及した問答無用の神隠しによってである。

このように小説空間が展開されたおかげで、「いや、そんなことはありえないでしょ」という無益な突っ込みが締め出される。ここは小説空間なのだ。これは、より深い快楽を描き出すのに必要な仕掛けである。この小説空間によって、地表の出来事、常識的な出来事に煩わされずに、上からはよく見えない穴の世界が、快楽が主題として成立したのである。どうしたって、恥ずかしいことは穴に入れなくてはいけない。

性よりも深い快楽

筆者に分かっているのは、というより、自分なりに理路整然と考察できたと思うのはここまでである。こんな、奥歯に何か挟まったような言い方をするのは、自信はないけれど、もしかしたらこんなこともありえるのかもしれないと、思いついていることがあるのだ。

というのも、性よりも深い快楽を『兎』は示唆しているのではないか、ということである。

性よりも深い快楽というのは何か。それは、「きれいであること」の快楽なのではないか。すなわち、メーキャップの悦びである。

小百合は、兎姿の娘をみて発狂した父親に物を投げられて、ガラスの破片が片目に刺さり失明していた。その後、『兎』には、すっかり兎狂いになった、兎に憑かれた小百合が、兎たちの目をくりぬくシーンがある。どうしてそんなことをしたのか、最初疑問に思った。しかし、よくよく読み直せば、答えは書いてあったのだ。それは、きれいな自分を見ることである。

鏡の中で、あたしの眼に桃色の鋭いガラス(兎の眼がつきささったんですわ)がつきささっているのを見た時も、恐ろしいことは恐ろしかったのですが、それは美しかったのです。今までも見たことのないくらい、その時のあたしは、ぞっとするほど綺麗でした。髪の毛は血で頭にべったりはりついて、左の眼に深くつきささった桃色のガラスの破片の鋭い切り口が電灯のあかりでキラキラ光っていました。なんて美しいメーキャップだったでしょう。それを思うと、以前より兎を殺すことに快楽がなくなったほどでした。もうお気づきになってると思いますが、ここの兎たちに眼がないのは、みんなあたしが、刳ぬいてしまったからなんです。赤い透き通る薔薇ガラスみたいな兎の眼を刳ぬく時、あたしはあのときの、ぞっとするほど綺麗だった自分の姿をはっきりと見ることができるからです。

金井美恵子. 愛の生活・森のメリュジ-ヌ (講談社文芸文庫) . 講談社. Kindle 版.

このように見ていくと、性にはさらに前提があって、それは「きれいであること」となるのかもしれない。わざわざ図式することではないと思うが、あえて、前の式の続きを書くなら

性 → きれいであること

となるのかもしれない。性の前提がきれいであることだなんて、そして、メーキャップの悦びがセックスより深いだなんて、男である筆者からはよくわからない。もしかしたら、筆者の思い違いかもしれない。しかしもしこれが的を得ていたのだとしたら…いややはり、自分にはよくわからない。

それは男がそれだけダサい動物であり、女より浅い動物であるということだろう。そして女がより深い動物であり、欲深い動物であるということだろう。それは「きれいであること」への執念の分だけ、ということである。

イースターバニー

思えば、兎という動物は、想像妊娠する。性という、ともすると「汚れた」と見なされかねない行為なしに多産すると、人々に信じられたのだろうか。そのせいで、『兎』の中でも小百合が自分自身をプレゼントするシーンで言及されているように、兎は復活祭を象徴する動物として信仰されているらしい。いわゆる、イースターバニーである。イースターバニーは処女性を保ったまま繫栄することが信仰の由来になっているのだとか。

処女性というのを「きれいであること」と結びつけるのは、もてない男の安直だろうか。「きれいであること」というのが、あらゆる悦びの中でも、女性にとっては深い悦びであるのだと着想したわけだが、貴方はどう思うだろうか。

もし貴方が女性の読者であるなら、意見を寄せていただきたい。

いずれにせよ、兎という動物が、食、殺、性、そして「きれいであること」を連想する動物としてうってつけだということは最後に述べておこう。

・・・

長い考察になってしまったけれど、楽しんでいただけただろうか。興味を持たれた方はぜひ、金井美恵子の『兎』を試してみていただきたい。非日常の深い快楽が貴方を誘っているから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です