お金、というものに対して人並みに関心を持ってきた。「人並みに」というのは、関心を寄せるのが私だけではないだろうと踏んでいるからだ。人はお金を欲しがったり、あるいは欲しがらないふりをしたりする。「愛とお金どっちが大切ですか」という陳腐な質問も、実は、陳腐であると言い切るほどにはお金のことをわかっていないのだろうと思う。
中学生のとき、わかったふりをして点数を取ってきたことがある。円安ドル高の授業だ。「1ドルに対して120円だったものが、1ドル130円になりました。円の価値が下がったので、これを円安ドル高といいます」という説明も、なんだか騙されているような気持で聞いていた。理屈としては分かる、気がする。しかし、円とドルを交換する比率を誰が決めているの、とか、誰が決めているわけでもなければ、別に1ドル10円でもいいじゃないか、とか、それではいけない理由とか、そもそも「価値」って何なのかとか…まだまだ説明されていないことがたくさんあるような気がしたのだ。
お金とは何だろう、お金の価値を支えているものはなんだろう、そして、私たちはお金に対してどのようなスタンスをとるのがいいのだろう。そういった問いが、自信をもって生きようとする際にいつもちらついてくる宿題として頭をよぎってくる。
特にこの「スタンス」が曲者だ。人はいつもお金に対するスタンスを決めざるを得ない。お金を求めることを卑しむべきか、貴ぶべきか、それともお金について無関心を装うべきか、使わなければ暮らせないと諦めて仕方なく使っていると言い聞かせるか…知らず知らずのうちに人はスタンスを決定している。良いカネがあったり悪いカネがあると考えるべきか。それともカネはただのカネ、しかし、「ただの」カネがなぜ人を不安にさせたり、喜ばせたりと幅を利かせているのだろう。
今回から書こうと思うのはそういった「お金」のことである。ここまでで沢山の発問をしてきてしまったが、ここは一つ問いを一つに絞って、その質問をとっかかりにしたい。それは、次のような質問だ。
お金を稼ぐことは後ろめたく感じるべきなのだろうか?
この質問に対してズルをして、途中経過を述べずに結論を述べたいと思う。答えは「ゼロサムゲームをしているときは後ろめたく感じるべきだが、プラスサムゲームをしているなら、騙していない限り、誇りに思うべきだ」。
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次回につづく。