お金って何だろう?
財布から紙切れを取り出してみる。野口英世の肖像画が書かれているこの紙は、コンビニでおにぎり2つと引き換えてくれる。そのうえで、じゃらじゃらと何やら金属製のコインを私は受け取る。最近では Suica を使っているけれど、何で「決済」しているかはここではあまり重要ではなくて、今フォーカスしたいのは、このレジを挟んで自分と店員との間でいったい何が起きているのだろうということだ。
1000という数字が紙に印字されていてもスマホ画面で表示されていてもどちらでもよい。この数字はいったい何なのだろうと、高校生ぐらいから疑問をもっていた。無視して生きられるなら気にしないで生きていくこともできるが、どうやら「大人」になるうえで、あるいは生きる上で、この数字の大きさが大事であると気づいていた。もっといえば、脅されてきた。正体がよくわからないのに、生きる上で大切だと言われてきたのである。
お金というやつは、いったい何なのだろうか。
宇野経済学
「お金」論ということでいえば、いろいろな人が有益なヒントを示してくれている。たとえば、堀江貴文『99%の人が気づいていないお金の正体』では、お金とは共同幻想であると一貫して語られている。一万円紙幣の原価は20円なのに、それにそれだけの価値があるとみんなが思い込んでいるからそれだけの価値があるのだと。
あるいは田内学『お金のむこうに人がいる』では、国家と貨幣の関係から、お金とはずばり引換券のことなのだと洞察した。そしてその貨幣の価値は、国家による徴税によって担保されているのだと説明している。
そういったいろいろなアプローチの中でも、筆者がひと際厳密性に優れているのではないかと感じるのが鈴木鴻一郎『経済学原理論』(略:原理論)だ。
鈴木は宇野経済学の流れをくむ人だ。宇野経済学は宇野弘蔵が基礎を打ち立てた経済学の一派で、マルクスの『資本論』から政治的イデオロギーを取り除き、純粋に資本主義経済の理論を組みなおしたらどうなるかを探求した派閥らしい。
しかし、この本がかなり難しい。前の記事で、この本を読みます、と宣言をしたのを少し後悔したぐらいだ。ただ、鈴木の知識体系は膨大で緻密だけれど、「お金とは何か」という的をしぼった問ならいくらか有益な答えが返ってきそうだ。では、本の中身に入ってみようと思う。
原理論から筆者が理解した内容はだいたい次のようなものだ。
お金、つまり貨幣とは、もともと金(きん)だったものである。数ある商品の中でも金(きん)が貨幣となれたのは、価値表現の客観性に優れていたからだ。
お金の本質は商品から
原理論の本論の記述は、次の一文で始まる。
商品は、質的に一様で量的に異なるにすぎないものとしてまず価値である。
書き出しで早速心が折れそうだ。筆者はこの文の意味をしばらく考え続けていたが、ふと、「これってつまり数字のことなのではないか」と思い付いた。商品はすなわち「価値」である、といったときに、それならば一体「価値」とは何なのかがわからないのでモヤッとするのだ。ここで「価値」とは数字であると言い切ってみよう。
価値とは数字であると考えると「質的に一様で量的に異なる」というのがしっくりくる。ある商品、たとえば酒を売ることを考えよう。この酒に 1 リットル 900 という数字を割り当てたとする。そうすると 2 リットルなら 1,800 だし、3 リットルなら 2,700 だ。これは、この酒をどこから汲んでも、酒が「質的に一様」であるからこそできることで、あとはまさに「量的に異なる」のに合わせて価値という名の数字が変化していく。
しかし、商品はただ単に価値であるわけではないと鈴木は言う。
しかし、商品はもちろん価値としてのみあるわけではない。それはまた、人間の何らかの欲望を充たすものとして、質的に異なる使用価値でもなければならない。といっても、商品のこの使用価値はたんなる使用価値としてあるのではない。それは価値を前提とする、いわゆる「他人のための使用価値」としてあるのである。
酒の例を引き続き使おう。このように、900 / リットルで価値を付された酒という商品だが、それは、ただ価値であるというだけではない。酒は人間の飲酒欲を満たすものとして使用価値があるのだ。しかしこの使用価値というのは「質的に一様」ではない。つまりは、その酒を飲む人によって、どれだけその人の欲望を満たせるかは違うのだ。その酒をうまいと思う人もいれば、まずいと思う人もいる。
さらに重要なのは、そのうまさもまずさも、売る人が自分で味わうわけではない、ということだ。商品の使用価値、良さは、自分で味わうのではなく、他人に味わわせるのである。
冒頭のおにぎりを買うシーンに戻ってみよう。筆者が欲しいと思う梅おにぎりには「120円」という札が貼られている。この梅おにぎりは、まず価値、すなわち数字である。120という数字がまず先に、この商品のありようを決定している。しかもこの梅おにぎりの所有者であるコンビニは、自分自身ではその梅おにぎりを味わわない。このおにぎりのすっぱさを味わうのは、いくらかの数字を差し引く筆者である。このすっぱさはお客さんが味わう使用価値なのだ。
この意味で、商品とは価値と使用価値の統一物である、と定義することができる。そして次の関心事は、いままで酒を 900 、梅おにぎりを 120 と割り当ててきたその数字、その商品の価値を一体どのように客観的に表現するか、ということになる。
(次回につづく。)