まあ、お茶でも

割と疲れやすいタイプである。仕事をしていたときでも、退勤するとひたすら寝そべってYouTubeやアマプラばかり観ていた。仕事が終わってから友達と飲みに行く体力がある人が羨ましいなあと、思っていたのだ。

マツコが「ストレスは人間関係でしょ」と言っていたのを思い出す(たしかそんなようなことを言っていた気がする)。人と話すときは、お互いに何らかの思惑があるのだと思う。相手の思惑を考えてみたり、自分の思惑のつまらなさやみっともなさを感じたりするたびに、何かがすり減っていくような、そんなイメージだ。

一方で、そういうすり減りがない人がいるみたいで。例えば、父。サラリーマンを40年勤め上げた父が、仕事に大切なものとして「気配り」と言っていた。そこで、質問したのだ。「気配りをすると疲れない?」と。そうしたら「気配りしても神経は減るもんじゃないだろ」と言った。

タフだ・・・。とても親子だとは思えない。いや、もしかしたら自分も、これからもっと社会に揉まれたらそうなるのだろうか。

ともあれ、変なところで真面目なので、そうやってぐーたらしている自分に対しても、もうちょっと有意味なことに、これから何かのためになることに時間を費やせないだろうかと思ったりするのである。

①疲れる→②何もしない→③無為な自分に罪悪感を覚える→①疲れる・・・

めでたく、負のスパイラルの完成である。

しかし、負のスパイラルを経験するのは昨日今日の話ではない。そんなスパイラルにしばしば落ちることがあるので、自分はこれまでの経験から対処法を編み出した。

お茶を吞む

ことである。順を追って説明しよう。

そもそも、物事がスパイラル構造をもっていると見抜けたなら、あとは簡単なのだ。左から右に進むロジック、矢印「→」が成立しないようにすればいい。

たぶん自分は、疲れないことはできないだろう。きっと、人と話すたびに疲れる性格なのだ。三つ子の魂百までという。30歳を間近にして三つ子も何もない。自分はこのままなのだろう。①から②への矢印には何もできそうにない。

疲れると何もやる気が起きなくて何もしない。そこで、そんな無為な自分に罪悪感を覚える(②→③)のが間違いなのだ。何もしなくて人に迷惑をかけないならそれがいい。

罪悪感を覚えたり、いろいろなことをごちゃごちゃ考えたりするのを抑えるために、とりあえずお湯を沸かす。「何もしない」とはいいつつも、さすがにお湯を沸かす体力ぐらいはある。ヤカンに水を汲んで、コンロで火にかける。コツコツコツと温まり、キューキューと音を鳴らす。粉末タイプの緑茶がある。コップに粉を入れて湯を注ぐ。お茶を呑む。なんだか、ほっとする。

すると③の内容が置き換わったので、少なくとも「さらに疲れる」という状態、③→①のロジックが成立しない。神経がすり減らないと、体というのは不思議なもので、自然と回復していくらしい。体というnatureはすごい。色々考えあぐねて結局ろくなアイデアが浮かばない理性よりよっぽど。そうしてスパイラルが解けていく。

そういうわけで、自分はよくお茶を呑む。ひとりの時間、誰の目も気にせず、遮断されて、まったりと時間の流れるのを眺めていく。何もしない。無為がいい。

そもそも、何か目的があってそのために生きているわけではないのだ。もっと、ア・プリオリであって、さきに生きていることがあって、目的はなんでもよかったはずである。

しかし、やっぱり理性偏重だなと思う。お茶を呑もう・・・

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ああ、また最後までこのページを読んでしまったんですね。木曜日でそれなりに疲れているはずなのに、ここまで読み進めていただいてありがとうございます。

それだけ暇な貴方に少し提案を。色々難しい話はとりあえず横に置きませんか。まあ、お茶でも。

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