詩や短歌が好きだ。素敵な詩歌は、読んでいると「ああ、きれいだなあ」「美しいなあ」と感じる。
そういった美を感じると同時に疑問が湧くことがある。というのは、「この〈美しさ〉は一体何なのだろうか?」ということだ。
この〈美しさ〉はどこから来たのだろう。この〈感じ〉はどういえばいいのだろう。つやめいて、美しいことは分かっている。しかし、この気持ちは一体なんなのかと、モヤモヤする。
そんな疑問が特に強く立ち現れる作品がある。
梶井基次郎の『 K の昇天』だ。
梶井基次郎の作品は以前『檸檬』を考察した時から、梶井的な〈美しさ〉に惹かれてきた。『 K の昇天』からもやはり〈美しさ〉を感じる。詩歌でなく小説ではあるものの、韻文的な美しさが気になる作品である。
しかし、『 K の昇天』から受けるこの〈感じ〉はどう伝えればいいだろうか。
結論を言えば、『 K の昇天』の〈美しさ〉は月のレトリックから来るのだと分かった。
そして、もっと積極的に物語を訪えば、恋 によってその美しさが濃やかになるのだと思えた。
それはつまりどういうことか。解説してみよう。
K の溺死の理由
物語の形式
物語には K と「あなた」と「わたし」の三人が登場する。病気だった「わたし」が偶然に療養地で知り合ったのが K だった。
しかし、「わたし」が療養地を去った後で、K が溺死をしたらしい。「わたし」はそのことを「あなた」からの手紙で知った。「あなた」は K の溺死の真相を知りたかった。
物語は、「私」が「あなた」に、K の溺死の理由を説明する、という形式で進んでいく。私たちが読むのは「わたし」から「あなた」に返信した手紙の文面である(このように手紙の文面を読んでいるのだ、という小説の形式を書簡体という)。
K が溺死した理由はなんだったのか。この謎の解明が物語の目的になる。過失なのか自殺なのか、自殺であるならどのような思いだったのか。
「とうとう月世界へ行った」
ただ、「わたし」には思い当たる節があった。
私はあなたのお手紙ではじめてK君の彼地での溺死を知ったのです。私はたいそうおどろきました。と同時に「K君はとうとう月世界へ行った」と思ったのです。
「わたし」がこう答えているように、K の溺死の理由は 月 だったのだ。
しかし、月が K の命を奪ったというのは一体どういうことだろう。それは、「わたし」と K との出会いを振り返ると詳細が分かってくる。
影という名のアヘン
K の溺死の理由は月であり、影である。というのも、影が一種のアヘンとして K に作用したからだ。どのようなアヘンが、すなわち幻想が、彼に働いたのだろうか。様子を追ってみよう。
影をじーっと視凝めておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。
月光による自分の影を視凝めているとそのなかに生物の気配があらわれて来る。
雑穀屋が小豆の屑を盆の上で捜すように、影を揺ってごらんなさい。そしてそれをじーっと視凝めていると、そのうちに自分の姿がだんだん見えて来るのです。そうです、それは「気配」の域を越えて「見えるもの」の領分へ入って来るのです。
影を凝視していると、ただの影のはずが、生き物のように動き出し、ついには「気配」から本当にそう「見えるもの」へ転移している。
幻想はさらに発展する。
自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を遡って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。
このように、影を見つめる行為がついには魂の昇天になり、杳かな気持を起こす(「杳か」は「はるか」と読む。暗く奥深いさまを意味する)。
影から始まるアヘンの仕組みを簡単にまとめておこう。
影をみつめる
→生物の相が現れる
→「気配」が「見えるもの」になる
→影自身の人格(=彼)が現れる
→気持が杳かになる(昇天)
影のアヘンは上記のような順番である。さらにこれを簡略化すれば;
影 → 相 → 彼 → 杳
となるだろう。
(K はさらに、相→彼 のロジックを、影と実体が互いに転移する実例を挙げて裏付けようとした。それは例えば、逆光線の船だったり、シルエットだったりする。昼は実体が影になり、月夜は影が実体になる、ということなのかもしれない。)
K は深い瞳をしていた。K も病気を患っていて、それは徐々に進んでいた。その時、影のアヘンがついに本当になった、現実化したのだ、と「わたし」は考えた。「わたし」は直感を土台にして K の死んだ「不幸な満月の夜」を組み立てる。
K君は病と共に精神が鋭く尖り、その夜は影がほんとうに「見えるもの」になったのだと思われます。・・・(中略)・・・影の方の彼はついに一箇の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。
要約すれば、月から生じた影は K の魂を体から引き離したのだ。
これが「わたし」の考える K の死の真相だった。
月のレトリック
魂を肉体から分離する月の引力を、梶井基次郎は美しく描写する。しかし、この〈美しさ〉は一体何に由来するのだろう。
この〈美〉を説明するために、文学のある一分野に関する理論を導入しておきたい。それは渡部泰明が『和歌とは何か』で説明している、和歌的レトリックに関する理論だ。
(時間がある方は次の記事を参照して頂きたい。)
和歌には、枕詞や序詞、掛詞、縁語、本歌取りと言ったユニークな修辞法(レトリック)が使われる。それらは、意味の伝達という言葉の機能からすれば一見無意味で、むしろ邪魔者だ。
しかし、こういった和歌的レトリックには、文脈的な意味のまとまりに穴を開けて、文脈外の関係を持ち込む働きがあるのだと渡部は言う。
和歌的レトリックは、いわば文脈という意味のまとまりの世界を破って、穴をあけている。そしてそこに文脈外の関係を持ち込む。・・・(中略)・・・ところが、その文脈外の関係を担う言葉は、意味のまとまりを経由することがない。だからストレートに相手に届けられる。相手は、概念化を経ることなく、その後をその場で、直接身をもって受け取るしかなくなる。歌の言葉そのものが、発せられるやいなや、ただちに存在感を持って迫ってくる。
この和歌的レトリックと同じような効果が『 K の昇天』にも働いているのではないだろうか。「文脈外の関係を担う言葉」が、存在感を持ってストレートに、私たちに〈美しさ〉を訴えているのかもしれない。そう考えてみるのだ。
和歌的レトリックの中でも今回注目するのは縁語というテクニックである。縁語は「連想による気分的な連接」であり、これが臨場感のある〈美〉を醸成しているのではないだろうか。
どういうことか。試しに、月から連想されうる言葉を書き出してみよう。
月の連想:
{引力、潮、海、波、砂浜、蒼白、病気、光、影、シューベルト、ジュール・ラフォルグ}
シューベルトとジュール・ラフォルグは、彼らの曲ないし詩が月に関連している。シューベルトの『ドッペルゲンゲル』は月明かりが照らす男の分身、つまり、ドッペルゲンガーが主題だし、ジュール・ラフォルグのイカルスの詩のタイトルは、ずばり『月光』である。
このように、『 K の昇天』では月から連想される世界、その言葉が文中に散りばめられて、作品全体を一つのムードでまとめ上げている。
あらすじとは直接関係がない月の連想世界は、例えば、ひんやりと透き通った〈感じ〉を文脈の外から私たちに訴えてくるのだ。
私が作品から受けた〈感じ〉や〈美〉は、K の昇天のプロセスという本筋の整然さと、その整然さを破る月のレトリックから来ている。
そう考えてみると、作品の美しさの由来が身近に感じられないだろうか。
どのように美しいか
作品の〈美しさ〉がどこから来ているのか。それは月のレトリックからだ、ということは述べた。つまり、「なぜ美しいのか」ということの説明だった。
次の関心は「この〈美しさ〉はどのように言えばいいのか」である。私が感じているこの〈美〉は、いったいどのようなものだろうか。
これもさきに結論を言おう。
『 K の昇天』は濃(こま)やかに美しいのだ。
そしてその濃やかさは恋によって生じている。
ここからは、『 K の昇天』で言及されているシューベルトとジュール・ラフォルグの曲や詩について調べていく。つまり、作品のバックボーンから味わい直そうという試みだ。
失恋の痛み
ネットで転がっている『 K の昇天』の考察を読むと、「幻想的文学」という捉え方が普通らしい。
確かに、影のアヘンの箇所は、まさに幻想的な特徴があるし、全体として、「幻想的な美しさ」なのだと言っても間違いではないだろう。
しかし、私としてはこの〈感じ〉を「幻想的」とだけでは片付けられないのだ。この言葉では何か、深みのようなものが足りない。
そこで、『 K の昇天』が引用している詩まで考察の射程を広げて、作品から受ける〈感じ〉を良く言い表す言葉を探してみた。
その結果、『 K の昇天』は 恋 、特に 失恋 という文脈を積極的に取り入れてこそ、〈美しさ〉を深く味わえるのではないかと思い至った。それも、とくに男から女への恋と失恋である。
「『 K の昇天』には、恋心に関連する描写がないではないか」「この物語の純粋さは色恋とはかけ離れたものだろう」
そんな声も聞こえそうだ。しかし、考察範囲を作中で言及されている詩にまで広げると、むしろ、失恋を考慮に入れて考察した方が自然なのだ。
ではいったい、どのような詩が出てきて、それらはどのような内容を持っているのだろうか。みてみよう。
シューベルト『海辺にて』
夕映えに照らされた、海辺のシックな様子が描かれる。綺麗ながらも物悲しい情景は、この場面が、二人が恋人関係にあって別れようとしていることを描いている。
「夕映えの海辺のシーンだからといって失恋のシーンと決めるのは安直ではないか」
と思う読者もいるかもしれない。そのように、先入観を排する姿勢というのは大事だ。
しかし、男女の失恋のシーンでなければ、「漁師の小屋に黙って座りこんだ」二人の関係はなんだろうか。
人と人との間には必ず何かしらの関係がある。男は跪き、女の流した涙をすすっている。この行為が成立するような関係が恋人同士以外に成立するとは考えにくいのではないか。
また、涙をすすっているのは男ではなく女だ、とも言えるかもしれない。男と断定する箇所は特にはない。レズだ考えてももちろん問題ない。しかし、この場面が恋人同士の男女であることを否定する要素もないのだ。
ならば、奇をてらうのでなく、素直にこれは男女の失恋のシーンだと受け取ってみよう。
男は女に恋い焦がれ、彼女の存在に服従しながらも、その苦しさ故に女を詰(なじ)りたくなる。あえて「哀れな女」と蔑んでみせたり、「毒を盛ったのだ」と言って、恋の苦しみの責任を彼女に求めようとしている。
このように、失恋の苦しみと詰りが『海辺にて』の内容である。
シューベルト『ドッペルゲンゲル』
国際フランツ・シューベルト協会
シューベルト歌曲集『ドッペルゲンガー』
シューベルトの曲の中でも『ドッペルゲンゲル』が『 K の昇天』の直接的なインスピレーションなのではないかと思える。特に
寒気が身体を襲う
月明かりに私の顔
の箇所の英訳を読むと
I shudder when I see his face –
the moon shows me my own form !
OXFORD INTERNATIONAL SONG
FESTIVAL “Der Doppelgänger”
となっていて、「月が私に私自身の形を見せたのだ」と直訳される。これは『 K の昇天』で影のアヘンが働いたときのプロセスと全く同じだ。
男は夜更けの静かな町で、女がすでに去った家の前で立ち尽くす。男の恋心はそこにピン留めされて、置いてけぼり感が強調されている。
この家に住んでいたあの娘は
とうの昔去って
同じ場所に残る家
詩は男に、自分と同じ姿の分身を見せて、目の前で恋の苦しみを繰り返させる。そして、恋の苦しみ、癒えない痛みが嘆きとなる。これも『海辺にて』同様、恋の苦しみ、失恋の痛みの詩であると言えるだろう。
生き霊よ!青い鬼よ!
なぜこの私の昔の苦い恋をもう一度繰り返すのか
もう止めてくれ、まざまざと繰り返さないでくれと男は嘆く。
この嘆きをさらに進めて、梶井は K が昇天する物語を書いた。それは溺死であるから、常識的には苦しみの極みであるが、あるいは、それは昇天であり、感覚からの解放であるから、もしかしたら K にとっては救いになるのかもしれない。
(また、『 K の昇天』の中でシューベルトの曲が『海辺にて』→『ドッペルゲンゲル』の順で登場していることにも注目したい。詩の場面が夕方→夜更けへと移行していく様子が対応している)
あなたのせいではない
ここまで、シューベルトの曲を調べながら、二つの曲に共通する 失恋 という要素を取り出した。『 K の昇天』という物語は、シューベルトの詩から抽出した 失恋 という文脈を積極的に取り込むことで味わいが深くなる。
それはどういうことか。
『 K の昇天』で最初にだけ出てくる「あなた」の扱い方である。
すでに述べたように、『 K の昇天』の形式は書簡体であり、「わたし」から「あなた」に寄せた手紙である。この小説形式を、作品を展開する上での舞台装置と割り切ることもできなくはない。
しかし、あえてこの形式に意味を付与してみよう。はたして、「あなた」と K はいったいどのような関係だったのか。もしかすると、二人は恋人同士だったのではないか、と。そのように仮定してみよう。
二人はもともと恋人同士だった。互いに強く惹かれあっていた。しかし、家柄のせいか、あるいは、他の現実的な理由か、二人は結ばれなかったのだ。K の苦しみは病気だけの苦しみではなく、失恋の苦しみでもあったのだ。
だからこそ「あなた」もわざわざ手紙を送った。どうしても K の死因が知りたかった。それは思いを寄せた人の最期を知りたいという思いと、それに付け加えて、失恋の痛みが Kを死なせたのではないかという罪悪感があったのではないだろうか。
お手紙によりますと、あなたはK君の溺死について、それが過失だったろうか、自殺だったろうか、自殺ならば、それが何に原因しているのだろう、あるいは不治の病をはかなんで死んだのではなかろうかと様さまに思い悩んでいられるようであります。
その手紙に対して「わたし」は、溺死の理由は月だと答えた。その答えをもっと踏み込んで理解すれば
K の死因は月だ。「あなた」ではない
となる。『 K の昇天』のストーリーは、ただ単に魂の分離にあるのではない。「わたしのせいで死んだのではないか」と悩む人への優しさでもあったのだ。
救いと休息
哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。
これは『 K の昇天』の中で 2 回登場するフレーズだ。作中ではシューベルトの他にジュール・ラフォルグの詩も登場する。イカルス(あるいはイカロス)の墜落を描いたこの詩のタイトルは『月光』だ。
シューベルトでは失恋の男を描いていたが、『月光』では痛みに対する癒しや救いと言った内容を読み取ることができる。
失恋から救いへ。「わたし」の優しさは K に対しても発揮される。K は死んだけれども、同時に月に救われたのだ。そのように受け取れないだろうか。
ではさっそく、『月光』の理解に進んでみよう。
ジュール・ラフォルグ『月光』
ジュール・ラフォルグ 作
上田敏 訳『牧羊神』「月光」(青空文庫)
上田敏の訳は古い日本語で読みにくかったので、ChatGPTを使って現代日本語訳した。その翻訳結果は以下の通りだ。
とてもあの星には住めないと思うと、まるでみぞおちを殴られたようだ
ああ、月は美しいな、あの静かな中空を夏の八月の良い夜に乗って
帆柱なんかは放っておいて、ふらふらと倒れていく、雲の真っ黒い崖下
ああ、行ってみたいな、無闇に行ってみたいな、尊いあの水盤に乗ってみたならきっと良いだろう
お月さまは盲目だ、非常に険しい灯台だ 哀れなるかな、イカルスが何人も来て落ちる
自殺者の目のように、死んでいるお月さま、私たち疲れた者たちの大会の議長の席に着いてください
冷たい頭で遠慮なく散々貶してください、とても治らない官僚主義で、つるつる禿げた凡人を
これが最後の睡眠薬か、どれ、その丸薬をどうか世間の頑固者にも分けて飲ませてやりたいものだ
立派に袍をきっちり羽織ったお月さま、愛が冷え切った世の中で、どうか矢を取って、引き絞って、ひゅうと放ち、この世に住む翼のない人々の心に情けの種を植えてください
大洪水に洗われて、すっきりとしたお月さま、解熱の効き目があるその光、今夜ここへも差してきて、寝台にいっぱいに満たしてくれ、そうすれば私もこの世から手を洗うことができる
この詩を詳しく読み取ってみよう。
疲れと手垢
とてもあの星に住めないと思うと
まるでみぞおちを殴られたようだ
という節から始まる。「あの星」とはどこだろう。ここでは「あの星」は月のことを指していると取ってみたい。そこに住めないことが「みぞおちを殴られたよう」に痛いのだ。
地上は恋を得られずに苦しみ、疲れ、そして寝れない者たちで溢れている。「疲れた者たちの大会」というのは、イカロスの飛翔の大会のことだろう。若者らしい、青い恋、寝ようにも寝れない恋だと考えていいのかもしれない。
恋はいつも成就するわけではない。純粋な月とは違って、地上は官僚主義や世間体など、手垢のついた(人為の)ものが蔓延っている。「この世から手を洗う」というのは、そういった柵(しがらみ)を流して、恋を得ることなのかもしれない。
ディアーナ
詩は月の神性を讃える。月は船であり、女神であり、救いである。そして恋する人に安らぎを与える。
記述したように「あの星」は月であり、月は天上の、理想の世界にある。仰ぐだけで届かない世界であり、あるいは、叶わなかった恋が成就している世界線かもしれない。
立派に袍( マント : 筆者注)をきっちり羽織ったお月さま、愛が冷え切った世の中で、どうか矢を取って、引き絞って、ひゅうと放ち、この世に住む翼のない人々の心に情けの種を植えてください
ここで、「お月さま」の原文が Diana であることに注目したい。
Diana 、すなわち、ディアーナは、ローマ神話に登場する貞節と月の神様であり、アポロンの妹とする説がある。アポロンは太陽である。この詩では、ディアーナがアポロンの役割を代理しているように受け取れる。
例えば、イカロスは太陽の熱で蝋が溶け、海中に落ちて死んだ。この詩では太陽ではなく、月で落っこちているのが面白い。
月自体は光らない。月そのものは暗いが、太陽に照らされて光を放つ。「お月様は盲目だ、非常に険しい灯台だ」はそのことを意味しているのだろう。
「自殺者の目のように死んでいる」とある。失恋して死のうとしている人の目は、彼女という太陽の光線を受けて澄み切り、光を放つ。それはちょうど K がそうだったように。
月と地上の交渉
ディアーナ(月)は恋に苦しむ人の熱を冷まし、癒す。洗礼(「水盤」の誤訳か)、解熱、光、寝台といった言葉からは月の冷たい空気感が感じられる。恋の苦しみの炎を冷ます光である。愛の矢はアポロンを苦しめた、クピドの矢だったが、ディアーナの月光の矢は地上の人々を休ませようとする。
地上の人々は救いを求めて月を目指し飛翔するが、その試みは、アポロンの妹よろしく、月光に溶かされて落ちてしまう。
他方で、『 K の昇天』との関連を述べれば、K の飛翔は本当になった。K の失恋は慰められて、K の「あなた」に寄せる恋は月となった。K は月世界へ行ったのだ。
「わたし」は「あなた」に責がないと伝えるだけではなく、K の浄福を伝えようとしているのではないか。K の「あなた」への恋は月まで届いたのだと。「あなた」と K は、月を介在していつも一緒にいるのだと。
恋と優しさ
『 K の昇天』は、その中心的なあらすじは幻想的な、魂の体からの分離にある。そのロジックも理路整然としたものだった。
しかし、この作品はバックボーンまで考察範囲を広げると、月の連想世界が現れ、それが読者が得られる直接的な〈美しさ〉を生み出している。
今回はさらに、失恋と救いの文脈から〈美しさ〉を味わい直してみた。「わたし」が綴った魂の分離は、ただそれ自身が美しいだけでなく、「あなた」を慰め、K の溺死に肯定的な意味を求めるものだった。
恋という文脈と優しさが、月のレトリックから生じた〈美しさ〉をより繊細で重みのあるものに、すなわち、濃やかにしたのだ。